表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
30/32

第二十九話 最後の問い——お前は、ラヴィニアか

 アイゼンは、夜空から視線を俺へと移した。


 そして、静かに問うた。


 「お前は――ラヴィニアか。それとも、別の誰かか」


 その問いは、剣のようにまっすぐ、俺のいちばん深いところを貫いた。


 来たと思った。


 いつか、問われるとわかっていた。転生を打ち明けたあの夜から。この男は、いつか必ず、この問いにたどり着く。俺が本当は誰なのか。三田雄介なのかラヴィニアなのか。あるいは、そのどちらでもない何かなのか。


 覚悟はしていたつもりだった。だが、いざ面と向かって問われると、心臓がひとつ大きく跳ねた。


 責める色はなかった。疑う響きもなかった。ただ、純粋に知りたい。自分が命を懸けて守った相手が、本当は誰なのか。誰と、この先を共に歩んでいくのか。それを、確かめようとする誠実な問いだった。


 考えてみれば、この男はまだ知らないのだ。俺が転生者であることは打ち明けた。前世の記憶があることも、この世界が物語であることも。だが、その上で、俺自身が自分をどう捉えているのか。それは、まだ話していない。話せるほど、自分でも整理がついていなかったから。


 アイゼンは、その最後の一枚を、めくろうとしていた。お前はいったい誰として、俺の隣にいるのかと。


 逃げることもできた。適当にはぐらかして、ラヴィニアですとでも答えておけば。だが、この男にそれはしない。嘘の匂いを嫌うこの男に。そして、何より――俺自身がもう、その問いから逃げたくなかった。


 俺は、すぐには答えられなかった。


 なぜなら、それは――俺自身が、ずっと答えを避けてきた問いだったからだ。


 転生してからここまで。


 俺は、その問いを、ずっと棚上げにしてきた。


 最初は、生き延びることで、頭がいっぱいだった。処刑を回避する。断罪を覆す。目の前の危機を、一つずつ片づけていく。自分が何者なのかなどという、悠長な問いに向き合っている余裕はなかった。


 だが、本当は――それだけではなかった。


 怯んでいたのだ。向き合うことに。


 もし、向き合って。もし、自分がもう三田雄介ではないと認めてしまったら。前世の三十二年が、まるごと消えてしまう気がした。逆に、ラヴィニアを、他人だと突き放し続ければ。この体で築いたすべての繋がりが、嘘になってしまう気がした。どちらに転んでも、何かを失う。だから、考えないことにしていた。問いごと箱にしまって、鍵をかけて。


 三田雄介。前世の三十二年。くたびれた男の人生。それが、俺の本体だと思っていた。今のこの体は、ラヴィニアという、十六の少女の入れ物。性別も、年齢も、何もかも違う。鏡を見るたびに、そこにいるのは自分ではない誰かだった。


 最初の頃は、本当に参った。手を見ても、声を聞いても、何もかもが他人のもの。男として三十二年生きた感覚と、目の前の少女の体とが食い違う。歩き方一つ、スカートの裾の捌き方一つ、覚え直さなければならなかった。だから思った。これは、俺じゃない。仮の姿だと。


 俺はずっと、三田雄介の魂が、ラヴィニアの体に間借りしているだけだと思っていた。だから、この体で感じる感情を、本物と認めたくなかった。恋らしき動悸を、胃もたれだと誤魔化した。守られて揺れる胸を、ありえないと否定した。それは全部、「これは俺じゃない」という線引きの裏返しだった。


 本当の自分は別にいる。この体は仮の宿。そう思っていれば、傷つかずに済んだ。どこか、他人事でいられた。



 だが――もう、その逃げは効かなかった。


 あの瞬間。アイゼンが俺を庇って血を流した、あの瞬間に。俺は悟ってしまった。


 この体で出会った。この体で、日々を積み重ねた。この体を、この男は命を懸けて守った。痛みも、温もりも、この体で感じている。今、こうして震えているのもこの胸だ。


 それを、借り物だと言い張ることは――もうできなかった。


 借り物の体で、人は土に這いつくばって、畑を耕すだろうか。借り物の喉で、料理人と、出汁の引き方を夜更けまで語り合うだろうか。借り物の胸が、誰かに守られてこんなにも震えるだろうか。


 違う。これは俺の体だ。間借りでも、仮の宿でもない。俺が二度目の人生を、生きている、俺自身の体だ。


 俺は、目を閉じた。


 そして、初めてまっすぐに、その問いと向き合った。


 三田雄介か。ラヴィニアか。前世の記憶か。今世の体か。どちらが本当の自分なのか。


 長い間、二者択一だと思っていた。どちらか一方を選ばなければならないのだと。


 だが、違った。


 俺は三田雄介だ。三十二年、別の世界で不器用に生きた、その記憶は消えない。それは確かに俺だ。


 あの灰色の日々。終電と、残業と、未処理のタスクの山。誰にも頼れず、一人で抱えて、最後は過労で倒れた。決して立派な人生ではなかった。だが、あの三十二年があったからこそ、俺は人を駒として扱うことの痛みを知っている。誠実であることの、重さを知っている。それは、消してはいけない俺の一部だ。


 同時に、俺はラヴィニア・ド・クロワでもある。この体で畑を耕し、出汁を引き、剣に口を出し、損得を並べ、誰かを助け、誰かに守られた。その十六年とここまでの日々も、確かに俺だ。


 道具として育てられた孤独な少女。その器を俺は引き継いだ。最初はただの入れ物だと思っていた。だが、この器で、笑い、悩み、足掻き、誰かと心を通わせてきた。ラヴィニアの十六年と、俺がこの体で過ごした日々は、もう分かちがたく溶け合っている。この器を、もう見捨てることはできない。


 どちらかではない。


 どちらもだ。


 長い間、俺は二つの自分を、無理に引き剥がそうとしていた。男の魂と女の体。前世と今世。本物と偽物。線を引いて、片方を本当の自分、もう片方を偽りの殻と。


 だが、その線引きこそが間違いだったのだ。


 人は、一つの色でできているわけじゃない。いくつもの過去と、今と、矛盾した何もかもを抱えて一人の人間として立っている。俺もそうだ。三田雄介の三十二年も、ラヴィニアの十六年も、その全部が混ざり合って今の俺を作っている。引き剥がす必要なんて、最初からなかった。


 前世の魂と今世の体。記憶と現実。その両方を抱えた一つの存在。それが、今、ここに立っている俺だった。



 いや――問いには、まだ、続きがあった。


 俺はそれに気づいた。


 「お前は何者か」。その問いの本当の核心は、「お前は何でできているか」ではなかった。


 「お前は何になると決めたか」。


 それが、本当に問われていることだった。


 器が、何でできているかは、どうでもよかった。アイゼンがいつか言ったように。中身が何者かではなく、その人がどう在ろうとするか。それがすべてだった。


 俺が何者かは、過去が決めることではない。これから、俺がどう生きると決めるか。それが決めることだった。


 三田雄介として生きるのも、ラヴィニアとして生きるのも。あるいは、その両方を抱えて生きるのも。それは、誰かに決められることではない。自分で選ぶことだ。


 道具として生まれたラヴィニア。歯車としてすり減った三田雄介。そのどちらも、これまで自分の在り方を、自分で選んだことがなかった。与えられた役を、ただ生きるだけだった。


 だが、もう違う。


 俺は、選べる。


 この体で。この場所で。この人の隣で。


 何者として、生きていくのかを。自分の意志で。


 答えはもう出ていた。胸の奥で静かに、しかし、揺るぎなく固まっていた。


 不思議と、心は軽かった。


 ずっと、肩にのしかかっていた重い問い。自分は何者なのか。本物の自分は、どこにいるのか。その問いから、ようやく解放された気がした。答えは、最初からシンプルだった。ただ、それを認める勇気がなかっただけで。


 今なら認められる。この男のまっすぐな問いが、その勇気をくれた。


 どれだけの時間が流れただろう。


 部屋には、長い沈黙が降りていた。アイゼンは急かさなかった。ただ、静かに俺が答えを見つけるのを、待っていた。いつものように。


 窓の外で、星が瞬いている。


 俺は、ゆっくりと目を開けた。


 そして、まっすぐに、アイゼンを見つめ返した。


 もう、迷いはなかった。逃げる気も誤魔化す気もなかった。


 ずっと、棚上げにしてきた、自分という存在の答え。


 それを、今、この男に告げるために。


 告げれば、何かが変わる。そんな予感があった。これまで、必死で自分と切り離してきた「私」という一人称。令嬢の仮面として、対人の場でだけ使ってきた、あの「わたくし」。それを、本物として引き受ける。たぶん、そういう瞬間だった。


 もう、迷いも怯みもなかった。


 俺は息を吸い込み――口を開いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ