第二十八話 「決まっている。お前が、俺の妻だからだ」
アイゼンは、少しの間、俺を見つめていた。
肩の傷から血が滲んでいる。それなのに、その表情は、奇妙なほど穏やかだった。
戦いの昂りも、傷の痛みも。その顔には、ほとんど表れていなかった。あるのは、ただ、何か大事なことを決めた者の静けさだけ。俺の問いを待っていた。そして、答えをすでに決めていた。そういう顔だった。やがて、彼は口を開いた。
「決まっている」
短くそう言って、彼は続けた。
「お前が、俺の妻だからだ」
飾りも、ためらいもない言葉だった。
なんで、そこまでするのか。命を懸けてまで。その問いへの、答えがそれだった。妻だから。たったそれだけ。だが、その一言には、これまでのすべてが込められていた。
妻だから。
最初は書類の上の、ただの肩書きだった。生き延びるための方便。互いに何の情もない契約。それが、いつのまにか、この男の口から出るとき、こんなにも温かい意味を持つようになっていた。
いつからだろう。畑の泥を見られたときか。出汁の湯気の向こうでか。雨の夜の打ち明け話でか。馬車の中のあの距離でか。一つひとつは思い出せない。だが、確かに積み重なっていた。形ばかりの夫婦が、いつのまにか本物に近づいていた。
契約から始まった関係だった。損得で結んだだけの、形ばかりの夫婦。互いに不干渉。それが、最初の約束だった。
なのに、いつのまにか。
この男にとって、俺はただの契約相手ではなくなっていた。守るべき妻になっていた。命を懸けるに値する、誰かに。
俺は何も言えなかった。
胸の奥がいっぱいで。込み上げてくるものを抑えるので精一杯で。ただ、血に濡れた手で、アイゼンの肩を押さえることしかできなかった。
言いたいことは、山ほどあった。ありがとうとか。無茶をしないでくれとか。あるいは、もっと別の――まだ、自分でも名づけられない何か。だが、どれも言葉にならなかった。喉の奥でつかえて出てこない。
代わりに、俺は、ただ、目の前のこの男が無事であることを確かめるように、その肩を強く押さえ続けた。
「……傷の手当てが先です」
辛うじて、それだけ言った。声が震えていた。
アイゼンは、ふっと息を吐いた。それは、ほんのわずかに、笑ったように見えた。
氷公が笑う。出会った頃なら、考えられないことだった。あの、凍りついた無表情の男が。少しずつ溶けてきている。その変化に立ち会えたことが――なぜだか、胸にじんと来るものがあった。
その後の、処理は鮮やかだった。
裁定の場で武力を行使した王太子の暴挙は、もはや、誰の目にも明らかな大罪だった。それまで、息子をかばう余地を探していた王も、これは断罪せさざるを得なかった。
王太子アルベリクは、その場で身柄を拘束された。
簒奪を企てたと、ラヴィニアを告発したその当人が。裁定の場で剣を抜き、王の権威を踏みにじった。皮肉な結末だった。反逆者は俺ではなかった。あの男自身が、王家への最も明白な反逆を犯したのだ。
哀れな最期だった。だが、同情は湧かなかった。あの男には、いくつも引き返す機会があった。冤罪を取り下げる機会も。剣を収める機会も。だが、そのすべてを執着が握り潰した。空虚を他人を陥れることで埋めようとした、その心の弱さが、自らを滅ぼした。
俺はその弱さを知っている。前世で、自分も似たような穴を抱えていた。だから、よけいに思う。あの男も別の道を選べたはずだと。
廃嫡の手続きが、ただちに始まった。あれほど、物語の中心で輝くはずだった王太子は、すべてを失った。倒すべき悪役も、守るべきヒロインも、与えられるはずだった玉座も。最後には、自らの暴挙によって自らを滅ぼした。
そして――俺にかけられた簒奪の冤罪は晴れた。
貴族院は満場一致で、ラヴィニアの無実を認めた。意図の不在は証明された。後ろ盾を失い、孤立し、処刑寸前まで追い詰められた令嬢は。たった一人、夫の手によって断頭台から引き戻された。
断罪エンドは覆った。
長い、長い、足掻きの果てに。俺はようやく生き延びたのだった。
処刑される運命を知ってから。婚約を持ちかけ。畑を耕し、厨房に立ち、領地を回り。誠実に嘘をつかず、目の前のことを積み重ねてきた。その一つひとつが、今日この日の無実の証明に繋がっていた。
生き延びるための計算ずくの足掻き。そのつもりだった。だが、振り返れば、それは計算ではたどり着けない場所まで、俺を運んでいた。
戦いが終わり、宮廷が落ち着きを取り戻していくにつれ、俺は奇妙なことに気づいた。
歪んでしまった世界は――元の物語には戻らなかった。
王太子は廃嫡された。原作の主役が舞台から降りた。ヒロインと結ばれるはずだった筋書きは、もう、どこにも残っていない。レールは折れたままで、元には戻らない。
だが、世界は、それでも新しい均衡を見つけていった。
考えてみれば当たり前のことだった。物語はレールの上を走る列車ではない。生きている人間たちの営みだ。一本の筋書きが、折れたところで、人は立ち止まらない。それぞれがそれぞれの足で、また歩き出す。新しい道を自分たちで踏み固めていく。
俺が壊したと思っていたもの。それは、壊れたのではなく、ただ形を変えただけなのかもしれなかった。
ステラは、恋愛の筋書きに引き戻されることはなかった。攻略対象たちと結ばれる物語は、起動しないまま。だが、彼女はそれを嘆いてはいなかった。社交界の片隅で、自分にできることを探しはじめていた。困っている者に手を差し伸べ、人と人を繋ぐ。誰かに選ばれるのを待つのではなく、自分から居場所を作っていく。男爵令嬢の新しい生き方だった。
「私、決めたんです」とステラは晴れやかに言った。「お姫様になるのを待つのは、やめます。私は私の物語を生きます」
その言葉に、俺は救われる思いがした。俺が壊してしまった物語。その、いちばんの被害者かもしれない娘が、誰かの台本ではなく、自分の足で立とうとしている。
他の攻略対象たちも、それぞれ、収まるべき場所へと流れていった。騎士団長ガレンは、相変わらず退屈な平和に文句を言いながら、それでも、その腕を国境の守りに役立てるようになった。宮廷魔術師ユーリは、変わらず、魂の研究に没頭している。時折、屋敷に現れては、俺を興味深そうに観察していった。
ユーリは、一度、こう言った。「あなたがレールを歪めたおかげで、この世界は前より、ずっと面白くなった。決められた筋書き通りに進むより、ずっとね」と。褒められているのか、研究対象として面白がられているのか。良く分からなかったが――悪い気は、しなかった。
歪めたのは確かだ。だが、その歪みは、誰かを不幸にするだけのものではなかった。少なくとも、ステラは自分の足で立った。ガレンは退屈から解放された。そして、俺は――生きている。
元の物語には戻らない。だが、それぞれが、新しい場所で新しい役を見つけていく。歪みは、傷跡を残しながらも、ゆっくりと別の形の安定へと落ち着いていった。
すべてが終わった。
簒奪も、孤立も、王太子の執着も。長い戦いは決着した。屋敷に静けさが戻ってきた。
アイゼンの傷も癒えてきた頃。
ある夜、療養中の彼の部屋を訪ねると、アイゼンは窓辺の椅子に腰掛けて夜空を見上げていた。
俺が入ってきても、彼は、すぐには振り向かなかった。何か考え込んでいる。その横顔に、これまでとは違う、静かな気配が漂っていた。言いあぐねていることがある。そういう顔だった。
俺は、その横顔を見ながら待った。急かしてはいけない。この男が、自分から口を開くのを待つ。それが、これまで二人で築いてきた呼吸だった。
窓の外では、星が瞬いている。傷を負った夜から、もう、幾日も過ぎた。命のやり取りは、終わったはずだった。それなのに、この部屋には、また別の張りつめた何かが満ちていた。
やがて、アイゼンはぽつりと言った。
「……一つ、訊いてもいいか」
その声に、俺はなぜか背筋が伸びるのを感じた。
戦いは終わった。命の危機も去った。それなのに、これから問われるものは――もしかすると、剣よりもずっと重い何かかもしれない。そんな予感がした。
訊いてもいいか。アイゼンがそう前置きするのは珍しかった。この男は、普段訊くと決めたら、まっすぐ訊く。それをためらう。よほど踏み込んだ問いなのだろう。
心当たりはあった。いや、たぶん、俺は最初からわかっていた。いつか、この男がそれを問うてくることを。そして、その日がついに来たことを。
「……なんでしょう」
俺は静かに、その問いを待った。




