第二十七話 守られたことが、一度もなかった
時間が引き伸ばされたように感じた。
迫る白刃。王太子の憎悪に歪んだ顔。鍛えていないこの体は、一歩も動かない。避けられない。その事実だけが、やけにくっきりと見えていた。
ああ、ここまでか。
不思議と、頭の片隅は冷めていた。せっかく、断罪を覆しかけたのに。あと、一歩のところで。前世も過労であっけなく死んだ。今世も、こんなあっけない幕切れか――。
走馬灯、というやつだろうか。ほんの一瞬のうちに、いくつもの光景が、頭をよぎった。畑の土の匂い。厨房の湯気。朝の中庭の剣の音。雨の夜の打ち明け話。馬車の中のあの近さ。そして、いつも、その傍らにいた無愛想な男の顔。
ああ、もっとあの男と。
そう思ったときには。
そう、思った刹那。
黒い影が、横から割って入った。
アイゼンだった。
彼は私兵を薙ぎ払った返す刀のその動きの途中で、俺と王太子の間に自らの体を滑り込ませていた。
鈍い音がした。
王太子の刃が、アイゼンの肩口を抉る。
鮮やかな赤が、黒い正装に滲み広がっていく。
血だった。アイゼンの血。
俺を庇って流れた血だった。
時が止まったように感じた。広がっていく赤を、俺はただ、見ていることしかできなかった。なぜ。なぜ、この男が。とっさに身を投げ出す。そんなこと、考えるより先に体が動いていなければ、できることではない。
「アイゼン……!」
俺は叫んでいた。
自分の声とは思えないほど、切迫した叫びだった。被告として、あれほど冷静を保っていたのに。アイゼンが斬られた、その一点ですべての平静が吹き飛んでいた。
だが、アイゼンは倒れなかった。肩から血を流しながら、それでも微塵も揺るがず、俺の前に立ち塞がっている。そして、空いた手で、王太子の剣を握る腕を、万力のように掴み上げた。
「――ここまでだ」
低い声が響いた。
王太子の顔が苦痛に歪む。アイゼンの握力に骨が軋み、剣がその手から床へと落ちた。
無造作な動きだった。だが、その一動作に込められた力は圧倒的だった。あれほど、俺を追い詰めた王太子が、子供のようにねじ伏せられている。氷公の本当の力。それを、この男は、俺を守るためだけに振るっていた。
戦いは、もう終わっていた。
ガレンとライラックの精鋭が、残った私兵を瞬く間に制圧する。王太子は近衛に取り押さえられた。広間に静寂が戻っていく。
だが、俺は、その勝利をどこか遠くに感じていた。
勝った。断罪を覆した。簒奪の冤罪も、王太子の暴挙も、これで終わる。生き延びるという、最初の目的は果たされた。
なのに、その達成感は、まるで湧いてこなかった。頭にあるのはただ一つ。この男が俺のために傷を負った、という事実だけだった。
目の前で、アイゼンが肩から血を流している。
俺を庇って。
俺の中で、何かが音を立てて崩れ、そして、組み変わっていくのがわかった。
――この人は、自分の体を楯にした。
俺一人のために。命を懸けて。
その事実が、これまでに感じたどんな「守られている」とも違う、決定的な重さで胸を貫いた。
軍を動かし、富を注ぎ、味方を集める。あれも、守ることだった。だが、それは、戦略の話だった。盤面を有利に運ぶための采配。だが、これは違う。理屈も計算もない。ただ、とっさに体が動いた。自分の命より俺の命を優先した。そんなもの、損得では絶対に説明がつかない。
考えてみれば俺は――前世から数えて、一度もこんなふうに守られたことがなかった。
三田雄介は、いつも、守る側ですらなかった。ただ、すべてを一人で背負って、すり減らして、最後は誰にも看取られずに死んだ。誰かが、自分のために身を投げ出してくれる。そんなことは想像したことすらなかった。
ラヴィニアもそうだった。生まれてからずっと、道具だった。家のための駒。誰一人、この少女の身を案じてはくれなかった。
二つの人生。どちらにもなかったものが。
今、目の前にある。
俺のために血を流す一人の男という形で。
目の奥が焼けるように熱くなった。
涙、というものを、俺は、前世でも、ほとんど、流したことが、なかった。泣いても、誰も、助けてくれない。そう知っていたから。だが、今、込み上げてくるこれは、何だろう。安堵とも、違う。もっと、根の深い、もっと、温かい、何か。
ずっと、欲しかったのかもしれない。気づかぬふりを、してきただけで。誰かが、自分のために、本気になってくれること。自分という存在が、誰かにとって、命を懸ける価値のある、ものであること。それを――前世から、ずっと、心の奥底で、渇いていたのかも、しれなかった。
その瞬間、俺は初めて、心の底から思った。
この体を――このラヴィニアという器を、自分のものだと。
これまで、どこか、借り物のように感じていた。前世の記憶を抱えたよそ者の魂が、たまたま、宿っているだけの入れ物。性別も、年齢も、何もかもちぐはぐで、自分だと思いきれずにいた。
恋らしき動悸を胃もたれだと誤魔化してきたのも。色恋をないない、と全力で否定してきたのも。たぶん、根は同じだった。この体を本当の意味では、引き受けていなかったから。借り物の器で感じる感情なら本物じゃない。そう、どこかで線を引いて逃げていた。
だが――違った。
この体だからこそ、この人と出会えた。この体で、畑を耕し、出汁を引き、剣の型に口を出し、損得を並べて契約を結んだ。この体で過ごした日々が、この男の信頼を築いた。そして今、この男はこの体を守るために刃を受けた。
借り物なんかじゃない。
これは、俺の人生だ。俺が生きてきた確かな現実だ。
ラヴィニア・ド・クロワ。その名も、その体も、もう他人事ではなかった。
俺は、三田雄介でもあり、ラヴィニア・ド・クロワでもある。
前世の記憶と今世の体。どちらか一方を選ぶ必要なんて、なかったのかもしれない。両方とも俺だ。三十二年の人生も、この十六年の体も、ぜんぶひっくるめて、ここに立っている。それでいい。それが俺だ。
長い間棚上げにしてきた問いの答えの輪郭が、血の匂いの中で静かに形を取りはじめていた。
皮肉なものだ。生き延びるために、必死で足掻いてきた。その果てに、ようやく、本当に欲しかったものが何だったのか見えてきた。それは、生き延びることそのものではなかった。誰かと繋がること。誰かに必要とされること。それを、俺はずっと求めていた。
「閣下……っ、傷が」
俺は震える手を伸ばした。アイゼンの血に染まった肩に触れる。指先が赤く濡れた。
「かすり傷だ」と、アイゼンはこともなげに言った。「国境ではもっとひどいのを、いくらでももらってきた」
「かすり傷で、こんなに血が……!」
俺は必死で、止血しようと自分の衣の袖を引き裂いた。前世で、応急手当の心得くらいはある。だが、手が震えて、うまくできない。なぜ、こんなに手が震えるのか。
戦いの興奮のせいだ。そう、思おうとした。だが、違うことくらいもうわかっていた。
この男が傷ついている。俺のせいで。その事実がこんなにも、自分を揺さぶる。さっきまで、命の危機にあった自分のことより。アイゼンの肩の傷のほうが、ずっと気がかりだった。
ふいに、言葉が口をついて出た。
取り繕う余裕もなかった。わたくし、という、令嬢の仮面も剥がれ落ちていた。漏れ出たのは、ただ剥き出しの本当の声だった。
いつもの、「わたくし」ではなかった。社交界で、夜会で、父の前で、被告席で。どんなときも崩さなかった令嬢の鎧。それが、今、この男の血を前にして音もなく剥がれ落ちていた。残ったのは、ただの俺だった。前世の不器用な中年男の地のままの声。
「……なんで」
俺はアイゼンを見上げた。
「なんで、そこまでするんだよ」
契約相手だから、では、説明がつかなかった。家を守る義務だから、でも、足りなかった。命を懸けてまで。血を流してまで。たかが、生き延びるための契約結婚の相手のために。
なんで。
問いながら、俺は自分でも気づいていた。
本当に訊きたいのは、それじゃない。なんでそこまでするのか。その答えは、もう分かっている。分かっていて、なお、確かめたかった。この男の口から、はっきりと聞きたかった。これまで、胃もたれだと、ないないだと、誤魔化してきたこの気持ちのほんとうの名前を。
アイゼンは血を流しながら、そんな俺を静かに見下ろしていた。
その目は、もう出会った頃の凍てついた拒絶ではなかった。痛みにわずかに眉を寄せながら。それでも、その瞳の奥には、確かな温かいものが宿っていた。
その口元が、答えを紡ごうとわずかに動いた。




