第二十六話 氷公無双と、第三の在り方
厳粛な裁定の場が、一瞬で崩壊した。
なだれ込んできた私兵が抜刀し、貴族院の広間に躍り込んでくる。悲鳴が上がった。着飾った貴族たちが、我先にと出口へ殺到する。玉座の王の周りを、近衛が慌てて固める。
秩序は消し飛んだ。
ついさっきまで、言葉と論理が支配していた場所が、今は剣戟と怒号で満ちている。床に、誰かの落とした扇が踏み躙られていた。整然と並んでいた貴族たちは、もはや、ただの逃げ惑う群衆だった。
俺は被告席で、一瞬立ち竦んだ。武装した私兵が、明確な殺意を持ってこちらへ向かってくる。その光景は、前世のサラリーマンには、あまりに現実離れしていた。
王太子の最後の賭け。言葉で勝てぬなら、力でねじ伏せる。裁定を武力で白紙に戻す。狂気じみた一手だった。
この一手で、王太子は自ら墓穴を掘った。裁定の場で武力を行使する。それは、王の権威そのものへの挑戦だった。それを見つめる王の目に、息子への深い失望がよぎるのが、遠目にもわかった。たとえ、この暴挙で俺を消せたとしても、王太子はもう後戻りのできない一線を越えてしまった。
だが、こちら側も、無策ではなかった。
「俺の後ろに」
短く言うなり、アイゼンが俺の前へ出た。
いつのまにか、彼の周りには、護衛として連れてきていたライラックの精鋭が数名、円陣を組んでいた。法廷に兵を引き連れて入る。並の貴族ならしない。だが、アイゼンは、この事態を予期していたのだ。王太子は追い詰められれば、必ず暴発すると。
「言ったはずだ」とアイゼンは剣を抜きながら低く言った。「明日、全部終わらせると。……これも、織り込み済みだ」
その声は、戦場にあってなお、凍えるほど静かだった。狼狽の欠片もない。むしろ、ようやく相手が本性を現したことを、待っていたかのようだった。
剣戟が始まった。
そして俺は――氷公の、本当の戦いを初めて、目の当たりにした。
軍議で兵の数や配置は聞いていた。だが、この男自身がどう戦うかは見たことがなかった。朝の鍛錬で、素振りを見て、後ろが甘いなどと、生意気な口をきいたこともある。あのときの俺を、引っぱたいてやりたい。これは、素振りで推し量れるようなものではなかった。
アイゼンの動きは美しかった。
無駄がまるでなかった。振り下ろされる刃を、最小の動きでいなし、返す一撃で相手の戦意を確実に削いでいく。力任せではない。理に適った精緻な剣。一人、また一人と、王太子派の私兵が、床に崩れ落ちていく。その間、アイゼンの息は、少しも乱れなかった。
俺は、息をするのも忘れて見入っていた。
これが剣だ。前世で剣道をかじった程度の俺の知識など、児戯に等しい。間合いの取り方、重心の運び、相手の太刀筋を読み切る目。そのすべてが桁違いだった。アイゼンは舞うように、しかし、一切の容赦なく敵を無力化していく。殺すのではなく戦えなくする。その一線を見極める冷静さすら保ったまま。
国境で幾多の異国の戦士と斬り結んできた男。その実戦の積み重ねが、一挙手一投足に、滲んでいた。
「化け物か……」
誰かが呻いた。誇張ではなかった。王都の常備兵では、この男一人を止められない。夜会で聞いたあの囁きの意味を、俺は、今、肌で理解した。
地味で無害な脇役。そう侮っていた男は、隠しルートの最奥にいた最強の一人だった。
乱戦の中、一人の大男がゆらりと進み出てきた。
騎士団長ガレン。
武勇で名を馳せた王国騎士団の長。彼は抜き身の剣を肩に担ぎ、混戦を、面白そうに眺めていた。どちらに付くとも決めかねている。中立の立場だった。
ガレンの視線が、アイゼンの剣を追っていた。
一合、二合。氷公が私兵を捌くたびに、その目が輝きを増していく。武人としての純粋な好奇。
やがて、ガレンはにやりと笑った。
「決めた」
彼は剣を担ぎ直すと、おもむろに、王太子派の私兵へと向き直った。
「悪いがな。俺は面白えほうに付く。……裁定の場で、刃を抜くなんざ、無粋にも、ほどがある。それに比べりゃ、あっちの氷の旦那の剣のほうが、よっぽど、見応えがあらあ」
言うなり、ガレンの巨体が躍動した。
彼が一振りするたび、王太子派の私兵が、数人まとめて吹き飛ぶ。アイゼンの精緻な剣とは対照的な、豪快な戦い方。だが、その威力は絶大だった。氷公と騎士団長。二人の猛者が味方になった瞬間、戦況は完全に決した。
王太子派の私兵は数こそ多かったが、所詮は寄せ集めだった。金で雇われ命令で動かされているだけの兵。命を懸ける理由がない。対するこちらは、心服する主君のために、自ら剣を取る本物の戦士たち。士気の差は歴然だった。前世で考えていた通りだ。数よりも人の心。その理が目の前で証明されていく。
崩れ落ちる敵兵。後ずさる私兵。広間の趨勢は、見る間に傾いていった。
退屈を持て余していた武の塊。決闘の舞台を失い、暇をかこっていたあの男。それが、巡り巡って、こうして俺たちの側に立っている。蒔いた覚えもない種が、こんなところで芽を出していた。
俺もただ、震えて見ているだけではなかった。
原作のラヴィニアなら、こんなとき、どうしただろう。きっと、嫉妬に駆られ、保身に走り、誰かを陥れ、自滅していった。あるいは、お決まりのお姫様なら――ただ、守られるのを待っていただけだろう。
俺は、そのどちらにもなる気はなかった。
「皆さんこちらへ! 玉座の脇の回廊から外に出られます!」
俺は逃げ惑う貴族たちに、声を張り上げた。前世で避難誘導の訓練くらいは、受けている。パニックを起こした集団を、いかに安全な方向へ流すか。その知恵がこんなところで役に立った。
不思議と、頭は冴えていた。
恐慌に陥った集団は出口に殺到して、将棋倒しを起こす。それがいちばん、死人を出す。だから、流れを分散させる。複数の経路へ人を振り分ける。声を低くはっきりと。短く的確に指示を出す。前世で何度も叩き込まれた、災害時の鉄則だった。
まさか、異世界の宮廷で避難誘導の知識を使う日が来るとは思わなかった。だが、知識は知識だ。役に立つなら出自など関係ない。
「そこの方、年配の方をお願いします! 押し合わず順番に!」
混乱が少しずつ整理されていく。貴族たちが回廊へと流れていく。戦う者たちの、邪魔にならないように。逃げ場を作る。それは、剣を振るうのとは別の戦い方だった。
悪役令嬢でもお姫様でもない。
ただ、目の前の状況を冷静に読み、できることを淡々とやる。前世がくたびれたサラリーマンの、戦い方だった。第三の在り方。誰にも与えられた台本になかった、自分だけの立ち位置。
原作のラヴィニアには、悪役令嬢という役しかなかった。ステラにはヒロインという役。王太子には主役。みんな決められた台本の上で、踊らされていた。
だが、俺はその台本を持っていない。前世の記憶という異物を抱えて、この世界に紛れ込んだ。だからこそ、どの役にも嵌まらない。嵌まらなくていい。悪役にも姫にもならず、ただ、自分にできることをする。それが、俺の選んだ生き方だった。
誰かに与えられた運命ではなく、自分で選んだ立ち位置。この体に来てから、初めて、俺はそれを誇らしく感じていた。
誘導しながら、視界の隅でアイゼンの姿を追っていた。乱戦の中でもあの男は、時折、こちらを確かめるように見ていた。守られている。その実感が、足を動かす力になっていた。
戦況が王太子派の敗色濃厚に傾いたとき。
追い詰められたその男の、血走った目が――俺を捉えた。
王太子アルベリク。
すべてを失い、理性をなくした男。その目に、もはや、王者の威厳はなかった。あるのは、ただ、執着と憎悪。自分の物語を滅茶苦茶にした元凶。手に入れ損ねた女。そのすべての怒りの矛先が、俺一人に向けられた。
「貴様だ……貴様さえ、いなければ……っ!」
王太子が剣を振りかざし、まっすぐに、俺へと突進してきた。
貴族たちの、誘導に気を取られていた俺の反応が遅れる。
しまった、と思ったときには、もう遅かった。前世の喧嘩なら、躱せたかもしれない。だが、この体は十六の令嬢のものだ。武術の心得などない。鍛えていない足は、とっさに動かなかった。
迫る白刃。
避けきれない――そう、悟ったその刹那。




