第二十四話 地味な侯爵の、本当の顔
宣戦布告のあと、ライラック侯爵家は別の顔を見せはじめた。
俺がこれまで「地味で、無害な脇役」だと思い込んでいたその仮面の下から、本当の姿が、現れた。
まず、兵が動いた。
それは、これまで一度も見たことのない光景だった。穏やかだった侯爵邸の日常が、一夜にして、戦支度の場へと変わっていく。武具の触れ合う音。早馬の蹄。張りつめた男たちの声。屋敷全体が、一つの生き物のように動きはじめていた。
国境の砦から、続々と私兵が参集してくる。それは、王軍の急ごしらえの徴集兵とはまるで質が違った。日々、国境で異国の侵入者と斬り結んできた、本物の戦士たち。数こそ多くはないが、一人ひとりが精強だった。アイゼンがひと声かけるだけで、彼らは整然と隊伍を組んだ。長年、この男と生死を共にしてきた者たちの、絶対の信頼がそこにあった。
王軍の兵は、王に雇われている。だが、この兵たちは違った。アイゼンに心服している。金や命令で動くのではなく、この男のためなら、と、自ら剣を取る。その差は、戦場では決定的だ。前世でも見てきた。やらされている者と自ら立つ者。その士気の差が、土壇場ですべてを分ける。
「これが……閣下の兵」
俺は軍議の場でその光景を目の当たりにして、言葉を失った。
夜会で初老の貴族が囁いていた。あの侯爵が本気を出せば、王都の常備兵もひと月と保たぬと。あのときは、大袈裟だと思った。だが、今、目の前にいる兵たちを見れば、それが、誇張でも何でもなかったことがわかる。
武力だけではなかった。
軍議の席で、アイゼンは淡々と手札を切っていった。
領地の経済力。ライラック領は国境にありながら、いや、国境にあるからこそ交易の要衝として、莫大な富を蓄えていた。戦を支える、兵糧も、軍資金も、有り余るほどある。
俺が契約の利点として得意げに口にした、あの「豊かな領地」。あれは、見栄えのいい飾りではなかった。戦を長期戦に持ち込んでも、びくともしない底力。武力を支えるための土台。この男は剣だけでなく、それを動かすための財布も、しっかりと握っていた。
そして――宮廷への工作。
「王太子派の重臣のうち三人は、すでにこちらに内通している」と、アイゼンは地図の上に駒を置きながら言った。「彼らは表向きは王太子に従いながら、内心ではあの男の暴走を危ぶんでいる。頃合いを見て寝返る手筈だ」
俺は絶句した。
寝返り、内通。そんな手の込んだ調略を、いつのまに仕込んでいたのか。氷のように無愛想で、社交を嫌うこの男が。だが、考えてみれば社交を嫌うことと、人を動かせないことは別だ。むしろ、口数が少なく腹芸をしないこの男だからこそ、いざ手を結ぶとなれば、相手も本気で信用するのだろう。
俺は唖然とした。
いつのまにそんな手を。氷公は宮廷で孤立しているとばかり思っていた。だが違った。煙たがられ、遠巻きにされながら、この男は水面下で確かな楔を打ち込んでいたのだ。
そのとき、ふと思い出した。
あの、婚約のときのことだ。クロワ公爵が強引に婚約を覆そうとして、果たせなかった。あの不自然なほどの手際の良さ。父の権力をもってしても覆せなかったあの素早さ。あれは、偶然でも幸運でもなかった。この男の宮廷工作の力が、すでに、あのときから働いていたのだ。
あのとき、俺はただ「手際がいいな」と首を傾げただけだった。深く考えもしなかった。だが、その違和感は正しかった。一介の辺境侯爵に、クロワ公爵の横槍を捻じ伏せる力など、本来ないはずなのだ。それができたということ自体が、この男の底知れなさの証だった。俺は最初から、とんでもない大物を、地味な脇役と見誤っていた。
点が、すべて線で繋がった。
俺が契約の利点として得意げに並べた「領地の補完関係」。クロワの後背地とライラックの国境。あれは、ただの損得勘定ではなかった。富と、兵と、地の利。簒奪の火薬庫と世間が呼ぶものの、正体。それを、俺は自分の手で結びつけてしまっていた。
底知れない男だと、改めて思った。いや――頼もしいと言うべきか。これだけの力を、ずっと内に秘めて、地味な脇役の顔で畑を耕す令嬢を黙って見ていた。
軍議が深夜まで続いた。
反撃の段取りが、一つひとつ固まっていく。内通者の動き、兵の配置、王太子の告発を公の場で覆すための筋立て。アイゼンの指示は、的確で淀みがなかった。誰もがこの男の言葉に従った。
戦そのものを指揮する才。それもこの男は持っていた。剣の腕だけの猛将ではない。盤面全体を見渡し、最小の犠牲で最大の戦果を狙う将としての目。隙がなかった。
俺は、その様子を、隅で見ていた。
不思議な感覚だった。
これだけの大きな力が。これだけの多くの人間が。今、たった一人――俺を守るために動いている。簒奪の冤罪をかけられた、よそ者の魂のために。
おかしな話だと思う。俺はこの世界の本物のラヴィニアでさえない。前世の記憶を抱えた異物。流れの外から紛れ込んだよそ者。そんな俺のために、これだけの人間がこれだけの力が動いている。
資格があるのかと、ふと思った。こんな、まやかしのような存在が、これほどの献身を受け取っていいのか、と。
守られている。
その言葉が、これまでとはまるで違う重さで、胸に落ちてきた。
これまでも頭ではわかっていた。アイゼンが味方になってくれたこと。使用人たちが結束してくれたこと。だが、それはどこか他人事のような実感だった。状況が有利に動いているという、戦況の分析。そういう乾いた捉え方をしていた。
だが、今夜は違った。
目の前で、本物の兵が動いている。本物の富が注がれている。本物の人間が命を懸けようとしている。すべて俺一人のために。それを目の当たりにして、初めて――これは俺の身に現実に起きていることなのだと。守られているのはほかの誰でもない、この俺なのだと。腑に落ちた。
胸の奥が熱くなった。
前世からずっと、守る側にすら回れなかった。誰かを背負う前に、自分一人を支えるので精一杯だった。守られるなど、考えたこともなかった。それが、今。これほど多くの手に支えられている。
守られるということ。
それは、ずっと弱さだと思っていた。誰かに頼るのは負け。守られるのは無力の証。そう信じて突っ張ってきた。だが、違ったのかもしれない。守られてなお、立っていられること。それも一つの強さなのかもしれない。少なくとも一人で抱え込んで潰れた前世の俺より、今の俺はずっと強かった。
いつか、この恩に報いたい。守られるばかりでなく、いつか俺もこの男のために何かを。そう思っている自分に気づいて、少し戸惑った。生き延びるための契約相手。そのはずだったのに。いつのまにか、この男のために、何かしたいと願っている。
その事実が、こんなにも心を揺さぶるものだとは知らなかった。
軍議がお開きになった。
兵たちがそれぞれの持ち場へと散っていく。応接間に、アイゼンと残された。
窓の外は、深い夜だった。決戦は明日。すべてが決まる。
「閣下」と、俺は口を開いた。「……ありがとうございます。私のためにここまで」
言いたいことは、もっとたくさんあった。だが、うまく言葉にならなかった。守られることの心許なさと温かさ。その入り混じった何かを、ただその一言に込めるしかなかった。
胸の奥で、また、あの動悸がしている。この男が隣にいるときの、例のあれだ。もう、胃もたれでも働きすぎでもないことくらい、さすがに、薄々気づきはじめていた。だが、今はその正体を確かめる時ではなかった。明日を越えなければ。すべてはそれからだ。
アイゼンは窓辺に立ち、夜を見つめていた。
「礼は終わってから聞く」と、彼は静かに言った。
その横顔は、もう迷っていなかった。長く凍っていた氷公が、誰かのためにその全力を、振るおうとしている。
「明日」とアイゼンは言った。
「全部終わらせる」
短い言葉だった。だが、その一言に、すべてが込められていた。
俺は頷いた。
明日、すべてが終わる。簒奪の冤罪も、孤立も、王太子の執着も。勝つか負けるか。生きるか死ぬか。その分かれ目に俺は立っていた。
だが――不思議と、心は凪いでいた。隣にこの男がいる。それだけで、明日に怯む気がしなかった。
窓の外で、夜が静かに更けていく。長い戦いの前の夜だった。




