第二十三話 駒の気持ちは、一生わからない
包囲は目に見える形で狭まってきた。
ある朝、侯爵邸の周囲に、見慣れぬ軍旗が立った。クロワ公爵家の私兵だった。表向きは「謀反の嫌疑がかかった娘の身柄を確保する」という名目。だが、その実、王太子派への忠誠を示すための力の誇示だった。
屋敷はにわかに緊張に包まれた。ライラックの兵が門を固め睨み合いが始まる。一触即発の空気だった。
俺は窓からその様子を見下ろした。クロワ家の軍旗が朝風にはためいている。実家の兵が、娘を追い詰めるために押し寄せる。皮肉な光景だった。家族という後ろ盾は消えたどころか、今や刃となってこちらに向けられていた。
だが、不思議と震えはなかった。隣の部屋にはアイゼンがいる。屋敷には俺を守ろうとする者たちがいる。一人だった頃なら、この包囲を見ただけで心が折れていたかもしれない。だが、今は違った。
そんな中、一人の男が供を連れて、堂々と屋敷の門をくぐってきた。
クロワ公爵。俺の――いや、ラヴィニアの実の父だった。
わざわざ、自分で乗り込んできたのには、理由があるのだろう。使者を寄越すだけでも用は足りる。それを、私兵まで連れて堂々と現れた。娘に最後の引導を、自分の手で渡したいのか。あるいは、王太子派への忠誠をより分かりやすく誇示したいのか。どちらにせよ、ろくな用件ではない。
応接間へ向かう途中、マリアンヌが、心配そうに、俺を見た。大丈夫だ、と、目で、合図する。かつての俺なら、こういう対決は、一人で、抱え込んでいた。だが、今は、背後に、味方がいる。それだけで、足の運びが違った。
応接間で、俺は、その男と向き合った。
久しぶりに見る父の顔は、記憶のままの冷たく傲慢なものだった。娘が無実の罪で命を狙われている。その状況にあって、その顔には案じる色など欠片もなかった。あるのは、ただ煩わしげな侮蔑だけだった。
俺は、その視線を正面から受け止めた。怯んではいけない。怯めば、この男はつけ込んでくる。前世でこういう手合いは、嫌というほど見てきた。相手の弱みを嗅ぎ取り、そこを的確に突いてくる。だから隙を見せない。
「愚かな娘だ」と、クロワ公爵は開口一番吐き捨てた。「勝手な婚約で家名に泥を塗り、あげく謀反人と名指しされる。お前は最後までわしの足を引っ張る」
俺は黙って聞いていた。
「だが、まだ挽回の道はある」父は続けた。「お前がすべての罪を認め、ライラック侯爵に誑かされたと証言すればいい。お前一人が修道院にでも引っ込めば、クロワの家名は守られる。お前はそのために生まれてきた。家のために使われる。それが駒の務めだ」
駒。
その言葉に俺の中で、何かが静かに冷えていった。
「お前はクロワ家の駒だ」父は念を押すように言った。「生まれたときからそうだった。これからもそうだ。最後くらい、駒らしく家の役に立て」
俺はしばらく、その男を見つめた。
哀れな男だと思った。
目の前にいるのはラヴィニアの父。だが、この男は一度も娘を人として見たことが、ないのだろう。生まれたときから政略の道具。家の格を上げるための駒。そういうものとしてしか、我が子を見られなかった。
原作のラヴィニアが、あれほど歪んでいったのも無理はなかった。愛されず、道具として育てられた娘。その渇きを、嫉妬や、見栄で埋めようとした。哀れな悪役令嬢。
だが――今、その器の中にいるのは俺だ。
三十二年、別の世界で不器用に、だが、自分の足で生きてきた男。誰の駒でもなく、自分の人生を自分で背負ってきた男だった。
だから、俺はこの器に借りがあった。
ラヴィニアという少女は、生まれてから一度も、誰かにまっすぐ愛されたことがなかった。道具として育てられ、道具として破滅していった。その報われなかった器を、俺は引き継いだ。ならばせめて。この器が最後の最後に、一度くらいは自分の意志で立ち上がる姿を――見せてやりたかった。誰の駒でもない一人の人間として。
俺はまっすぐに父の目を見て、口を開いた。
「お断りします」
父の眉が跳ね上がった。
「……何だと」
「私は誰の駒にもなりません。罪を認めるつもりもありません。やってもいないことのために、頭を垂れる気はないのです」
「貴様……っ! 親の命令だぞ!」
「ええ。ですから、最後に一つだけ申し上げます」
俺は静かに、しかし、はっきりと言った。
「人を駒だと思っている人には――駒の気持ちは、一生わかりません」
応接間が静まり返った。
「駒にも心はあります。考えも、意志も、痛みもある。それをないものとして扱ってきたあなたには、最後まで見えないでしょう。なぜ、駒が思い通りに動かないのか。なぜ、駒が盤を降りるのか。……あなたにはわからない。だから、あなたは人を失い続けるのです」
父は言葉を失っていた。こんな反論を娘の口から聞くとは、思っていなかったのだろう。これまでのラヴィニアなら泣くか、すがるか、あるいは、黙って従うか。しかし、そのどれでもなかった。
「あなたは、私からずっと、何かを奪ってきました」と、俺は続けた。「居場所も、誇りも、自分で選ぶ自由も。けれど、もう奪わせません。私の人生は私のものです。あなたの駒ではありません」
それは、ラヴィニアの言葉であり、俺の言葉でもあった。
前世で俺もまた、誰かの盤上の数字のように使われてきた。終電まで、他人の決めた目標のためにすり減らされた。だからわかる。駒として扱われる側の痛みが。そして、人を駒としてしか見られない者の底の浅さも。
前世の俺は、その痛みを、ただ、飲み込んで生きてきた。歯車としてすり減るしかなかった。文句も言えず、抗いもせず。そうして、最後は過労で倒れた。
だが、二度目の人生で、同じことを繰り返す気はなかった。今度こそ言ってやる。駒にはなってやらないと。それは、ラヴィニアのためであり、報われなかった前世の俺自身への手向けでもあった。
クロワ公爵は、顔を真っ赤にして震えていた。
「この……恩知らずが! ならば、もう知らん! お前など、クロワの娘でも何でもない! 勝手に滅べ!」
捨て台詞を残して、父は踵を返した。
その背中に、俺は何の未練も感じなかった。むしろ、長く心に巻きついていた重い鎖がほどけたような――そんな奇妙な軽さがあった。これでいい。あんな男の駒であり続けるよりはよほど。
そのときだった。
応接間の扉が開いた。
アイゼンが立っていた。いつから聞いていたのか。立ち去ろうとするクロワ公爵の前に、彼は静かに立ちはだかった。
「クロワ公」
低い声が応接間に響いた。
「貴公の娘――いや、私の妻にいわれのない冤罪をかけ、あまつさえ、駒として使い潰そうとした。その罪は軽くない」
アイゼンの声は静かだった。だが、その静けさの底に、抜き身の刃のような怒りが満ちていた。応接間の空気が、ぴんと張りつめる。供の者たちが、思わず後ずさった。
アイゼンの目が、底冷えのする光を宿した。
「ライラック侯爵家は、ここに宣言する。我が妻を陥れた者すべてを、王太子派であろうと、クロワ家であろうと、容赦はしない。――これは、我が家の戦だ」
クロワ公爵の顔から、血の気が引いた。王家に次ぐ武力を持つ男の正式な宣戦。その重みを理解しない貴族はいない。
俺はその横顔を見上げていた。
「私の妻」。アイゼンはその言葉を口にした。契約上の形ばかりの妻。そう思っていたはずなのに。この男がその言葉を口にするたびに、なぜか、胸の奥がざわつく。
……今は、いい。それどころではない。だが、いつか、ちゃんと向き合わなければ。この得体の知れない気持ちと。
父は何も言い返せぬまま、逃げるように屋敷を後にした。
その去り際の惨めな背中を、俺は見送った。長年、俺を――いや、ラヴィニアを縛りつけてきた家という鎖。その鎖のいちばん太い一本が、今、断ち切られた。心はもう揺らがなかった。むしろ、清々しいくらいだった。
後ろ盾を失った。だが、代わりに手に入れたものがあった。誰の駒でもない、自分自身という足場だ。
俺の隣に、アイゼンが立っている。
守勢は終わった。ここから攻勢が始まる。




