第二十一話 「知っている。最初から、そう思っていた」
「――知っている」
アイゼンはそう言った。
俺は自分の耳を疑った。
「……え?」
「お前がこの世界の人間ではない、ということだろう」アイゼンは静かに繰り返した。「驚かんさ。最初からそう思っていた」
俺はぽかんと口を開けた。
これまで、何度この告白の場面を想像したか。そのたびに、最悪の反応を覚悟してきた。なのに、いざ蓋を開けてみれば、相手は眉一つ動かさずに、知っていると言う。肩透かしにもほどがあった。
予想していたどの反応とも違った。
驚愕でも、嘲笑でも、嫌悪でもない。まるで、とうに知っていた事実を確認しただけ、とでもいうような落ち着き。俺は言葉を失った。
拍子抜け、というのとも違う。覚悟を決めて崖から飛び降りたつもりが、足の下にいつのまにか地面があった。そんな、奇妙な感覚だった。身構えていた分だけ、力の行き場が、なくなった。
「最初からって……」
「初めて会った日のことを、覚えているか」アイゼンの口元が、わずかに緩んだ。「お前は、家格だ、領地だ、不干渉だと、利点を並べ立てて、契約結婚を申し込んできた。十六の令嬢がだ。あんな申し出を、あんな話し方でしてくる娘を、俺は後にも先にも見たことがない」
それは、確かにそうだろう。
「それからも、お前はずっと妙だった」アイゼンは続けた。「畑を耕し、厨房を変え、剣の型を見抜き、領地の諍いを、一手で解いた。物の見方が、考え方が、この国のどの人間とも違う。まるで――どこか、遠い場所のものさしを持っているようだった」
遠い場所のものさし。
言い得て妙だった。
俺は観念して、すべてを話すことにした。
前世のこと。三十二年、別の世界で、男として生きてきたこと。過労で死んだこと。気づいたら、この体にラヴィニアとして転生していたこと。そして――この世界が、俺の知る「物語」とよく似ていて、その筋書きの中でラヴィニアという令嬢が無残に処刑される運命にあったこと。
それを避けるために、王太子から離れ、無名の侯爵を選び、ここまで足掻いてきたこと。
無名で、無害で、面倒事からいちばん遠いと思って、あなたを選んだのだ――とまで、俺は正直に白状した。本当は、地味な脇役だと見くびっていた。それが、とんだ見込み違いで、王家に次ぐ武力を持つ危険人物だった。そのせいで、簒奪などという最悪のフラグを踏んでしまった。
失礼な話だった。面と向かって、あなたを見くびっていましたと告げるのだから。だが、ここで取り繕えば、これまでの誠実が台無しになる。俺はそれも隠さなかった。
アイゼンは、ふっと、息を漏らしただけだった。咎めもしなかった。
馬鹿げた話だと自分でも思う。だが、アイゼンは一度も笑わなかった。一度も遮らなかった。ただ、じっと俺の話に耳を傾けていた。時折、得心したように小さく頷きながら。
不思議だった。この、荒唐無稽な告白を、この男は長年の疑問の答え合わせでもするように聞いていた。畑も、厨房も、剣も、領地の裁定も。これまで、説明のつかなかった俺の「妙さ」が、一つの理由ですべて繋がる。アイゼンの中でばらばらだった点が線になっていく。その手応えを確かめるような聞き方だった。
話し終えたとき、俺はひどく疲れていた。三十余年、誰にも明かせなかったものを、全部吐き出した。その反動で体の芯が抜けたようだった。
「……信じて、くださるのですか」と俺は訊いた。「こんな突拍子もない話を」
「信じる」アイゼンは即答した。
「なぜ」
「お前が嘘をついていないからだ」
その一言が胸にまっすぐ落ちてきた。
「俺は」とアイゼンは言葉を継いだ。「お前が前世で何者だったかも、この世界の人間かどうかも、正直どうでもいい」
どうでもいい。突き放す響きは、なかった。むしろその逆だった。
「俺が、この数ヶ月ずっと見てきたのは、お前が嘘をつかない人間だ、ということだ。損得を隠さない。都合の悪いことも、誤魔化さない。今だってそうだ。黙っていれば、誰にも知られずに済んだ秘密を、わざわざ、俺に打ち明けた。助けを乞うために、自分がいちばん不利になる真実を、最初に差し出した」
「普通の人間は逆をやる」と、アイゼンは言った。「助けを乞うときこそ、自分をよく見せようとする。都合の悪いことは伏せる。良いところだけ並べる。……お前は、それをしなかった。いちばん信じてもらえない話を、いちばん最初に置いた。そういう人間が嘘をつくとは、俺には思えん」
アイゼンは椅子から立ち上がり、机を回り込んで俺の正面に立った。
「中身が何者か。そんなことはどうでもいい。俺にとって重要なのはただ一つ。お前が、嘘をつかない人間かどうか。……それだけだ。そして、その答えはもう出ている」
かつて、嘘の好意ですべてを欺いた女がいた。完璧な演技でこの男の心を踏みにじった女が。
俺は、その対義語だった。
あの女は、心にもない愛を完璧に演じて、この男を欺いた。匂いひとつ残さない嘘で。その結果、アイゼンは人を信じる力を奪われた。七年、誰も心に入れずに生きてきた。
その凍りついた男が、今、目の前で俺を信じると言っている。異世界から来た得体の知れない中身ごと。それがどれほどの重さを持つ言葉か。マレーナの傷の深さを知る俺には、痛いほどわかった。この男は、もう一度人を信じるという、いちばん難しい賭けに出ようとしているのだ。よりにもよって、俺などを相手に。
拙くても、不格好でも、嘘だけは、つかない。その一点を、この男は何より信じてくれた。中身が異世界から来た中年男だろうが構わないと。器の中身ではなく、その器が嘘で濁っていないかどうか。それだけを見てくれた。
目の奥が熱くなった。
三十余年。前世からずっと。本当の自分を、誰にも見せられなかった。見せれば、拒まれると思っていた。だから、隠して、取り繕って、一人で、生きてきた。
その俺の、いちばん奥のいちばん隠してきたものを。
この男は、まるごと受け止めて、なお信じると言った。
報われたと思った。
これまでのすべてが。畑で土にまみれたことも。厨房で出汁の引き方を説いたことも。嘘をつかずに損得を並べ続けたことも。一つひとつは、ただ、生き延びるための小さな足掻きだった。だが、その積み重ねがこの男の中に、確かな信頼を築いていた。気づかぬうちに。
誠実はすぐには報われない。だが、いつか、思いがけない形で返ってくることがある。前世ではついぞ味わえなかったその手応えを、俺は、今、噛みしめていた。
しばらく俺は何も言えなかった。
込み上げてくる何かを、必死で抑え込んでいた。ここで崩れるわけにはいかない。まだ何も解決していないのだ。
その様子を見て、アイゼンは表情を、改めた。
氷公の顔に戻る。だが、その奥にあるものは、もう出会った頃の凍てついた拒絶ではなかった。
「さて」と彼は低く言った。「では、本題だ」
「本題?」
「お前を殺そうとしている連中の話だ」
アイゼンの目に、静かな、底冷えのする光が宿った。それは、社交界の貴族たちを竦ませた、あの抜き身の刃の気配。国境で幾多の敵を退けてきた男の、戦の目だった。
ぞくり、とした。
味方として見ると、これほど頼もしいものはない。だが、もし、これを敵に回していたら。背筋が寒くなる。俺が「地味な脇役」と侮っていた男の、これが、本当の姿だった。隠しルートの最奥にいた男。王家でさえ容易には手を出せぬ独立の武力。その全部が、俺の側に、ある。
「簒奪の冤罪。クロワ公爵の離反。王太子の執着。――面倒な手札を、よくも揃えてくれたものだ」彼は、まるで盤上の駒でも数えるように言った。「だが、揃っているのは向こうだけじゃない」
そして、アイゼンは、はっきりと言い切った。
「お前を殺そうとしている連中は――俺が潰す」
その言葉に、迷いはなかった。
「閣下」と、俺は辛うじて声を出した。「これは、ライラック家にとっても、危険な戦いです。王家を敵に回すことになりかねない。私一人のためにそこまで」
「お前一人のためではない」アイゼンは即座に遮った。「いわれのない罪で俺の妻が殺されようとしている。それを、黙って見過ごせば、ライラックの名が廃る。これは俺の戦いでもある」
俺の妻。
さらりと口にされたその言葉に、不覚にも胸が跳ねた。例のあれだ。こんなときに。俺は、慌ててその動揺を奥へ押し込んだ。
守るでも助けるでもない。潰すと言った。これまで、ただ守勢に回るばかりだった俺の戦いが、その一言で攻勢へと転じた瞬間だった。
一人では無理だと思った。
だが、俺はもう一人ではなかった。
長く凍りついていたこの国境の盾は、今、俺の隣で誰かのためにその刃を抜こうとしている。
反撃の狼煙が上がった。




