第二十話 笑わないで、聞いてください
夜が明けても、その考えは消えていなかった。
一人では無理だ。
アイゼンに頼る。それは、もう決めていた。問題は、どこまで打ち明けるかだった。
頼る、という決断そのものに、一晩かかった。三十余年、染みついた生き方を覆すのだ。簡単ではなかった。だが、夜が明ける頃には、腹は決まっていた。意地を張って一人で滅びるより、頭を下げて生き延びるほうがずっと賢い。前世の俺ならそう結論づけたはずだ。今さらその流儀を曲げる気はない。
決めてしまえば、あとは覚悟の問題だった。
政治の状況だけを話すこともできる。簒奪の嫌疑、父の離反、王太子の悪意。それだけでも、あの男は力を貸してくれるだろう。婚約者として家を守る義務もある。
いや、義務という以上に、あの男なら頼まれずとも動くだろう。妻に降りかかった火の粉を、黙って見過ごす男ではない。簒奪の嫌疑は、ライラック家そのものへの攻撃でもある。利害だけ見ても、共闘する理由は十分にあった。
だから、政治の話だけなら簡単だった。状況を説明し、共に戦ってくれと頼めばいい。それで事は足りる。
だが、それでは片手落ちだった。
なぜ、こんな状況に陥ったのか。その根を説明しようとすれば、どうしてもあの一点に行き着く。俺がなぜ、無名の侯爵を選んだのか。なぜ、簒奪のフラグだの、断罪の条件だのを知っていたのか。なぜ、起こる前から破滅を予見できたのか。
その問いに誠実に答えるには――俺がこの世界の人間ではないことを、明かすしかなかった。
話の辻褄を適当に合わせることもできたかもしれない。占いの心得があった、勘が働いた、誰かから聞いた――そんな作り話で煙に巻く。
だが、それをやった瞬間、俺はまた、嘘の沼に足を踏み入れることになる。一つ嘘をつけば、それを支えるために十の嘘が要る。やがて、自分でもどこまでが本当かがわからなくなる。前世でも、そうやって心をすり減らしていく人間を、嫌というほど見てきた。
前世の記憶、乙女ゲーム、転生、処刑される未来。これまで、命をかけて誰にも隠してきた最大の秘密。それを、アイゼンに話す。
迷いが、なかったといえば嘘になる。
話せば、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。あるいは、ユーリの言ったような「異物」として気味悪がられるかもしれない。せっかく築いた信頼が、その一言で崩れ去る恐れもあった。
黙っていればいい。そういう声も、胸の内にあった。政治の話だけして、肝心の中身は伏せておけ。これまでだってそうしてきたじゃないか、と。
だが――俺は首を振った。
この期に及んで、いちばん肝心なところで嘘をつく。それだけはできなかった。
アイゼンは嘘の匂いを嫌う。心にもない言葉で塗り固めたもっともらしい筋書きに、一度、致命的に裏切られた男だ。その男に命を預けて、助けを乞おうとしている。なのに、いちばん根っこの部分で、隠し事を抱えたまま手を差し出す。そんなものは、あのマレーナと同じだ。都合のいいところだけ見せて肝心を隠す。それでは、あの女と変わらない。
俺はあの女の対義語でいたかった。
あの夜、アイゼンは言った。お前のような損得を隠さない女がいちばん信用できる、と。その信用に応えたかった。応えるということは、都合の悪い真実からも目を逸らさない、ということだ。たとえ、それで信用そのものを失うことになっても。
筋を通す。それが、この男に対する誠意だった。
それに、と思う。本当に誰かに頼ると決めたなら、半分だけ預けるという頼り方はない。全部を晒す。みっともない中身も、信じてもらえないかもしれない真実も、丸ごと。それが、頼るということのはずだった。
三十余年、一人で抱え込んできた俺にはできなかったことだ。だが、今なら――あの男にならできる気がした。
なぜ、この男にならと問われても、うまくは答えられない。ただ、これまでの日々で、確かめてきた何かがあった。この男は、人を軽んじない。弱さを嗤わない。損得を隠さないことを、責めるどころか信用する。そういう相手になら――みっともない真実を預けてもいいような気が、した。
それが、ただの願望でないことを、祈るしかなかった。
その夜、俺は執務室へと向かった。
長い廊下を歩いた。一歩ごとに、決意が揺らぎそうになる。やめておけ、という声と、いや、行け、という声が、頭の中で、せめぎ合う。途中で、何度か、足を、止めた。それでも、引き返さなかった。引き返せば、また、一人に、戻るだけだ。一人では、もう、無理だと、わかっている。
扉の前に立つと、心臓が嫌なほど速く打っていた。
手のひらに汗が滲む。膝がわずかに笑っている。前世では大事な商談の前にも、こんなふうに緊張したものだった。だが、今夜のそれは比べものにならない。これから、自分という存在のいちばん奥底を一人の男の前に剥き出しにする。受け入れられるか、拒まれるか。やってみなければわからない。
最悪の場合を想像した。アイゼンが、俺を気味悪がる。距離を置く。あるいは、正気を疑って医者や教会を呼ぶ。これまで積み上げたものが、すべて無に帰す。
だが、と思い直す。それでも、隠したまま助けを乞うよりはましだ。拒まれるなら、拒まれればいい。少なくとも、嘘の上に築いた関係よりは、よほど誠実だ。
深く息を吸った。
そして、扉を叩いた。
「……アイゼン。私です。少し、お時間をいただけますか」
しばらくして、低い声が応えた。
「入れ」
扉を開けると、アイゼンはいつものように執務机に向かっていた。蝋燭の灯りが、その横顔を、半分だけ照らしている。彼は俺の顔を見て、わずかに眉を寄せた。
「……顔色が悪い」
見抜かれている。隠せない男だ。
「何かあったな」アイゼンは静かに言った。問い詰める調子ではない。ただ、事実を確かめる声だった。「弾劾状のことか。クロワ家のことも聞いている。……お前を放っておくつもりはない」
もう知っていたのか。当然だ。これだけの騒ぎだ、あの男の耳に入らないはずがない。そして、知ったうえで何も言わず、待っていてくれた。俺が自分から口を開くのを。
俺は扉を閉め、机の前まで進んだ。そして、まっすぐに彼の目を見て言った。
「聞いてほしいことがあります」
声が思ったより掠れた。
「これから話すことは……たぶん、信じられないような話です。馬鹿げていると思うかもしれません。頭がどうかしたと思うかも。それでも――どうか」
一度、言葉を切る。
「笑わないで、聞いてください」
アイゼンはペンを置いた。
そして、椅子の背にゆっくりと身を預けた。茶化すでも急かすでもなく。ただ、静かに俺の言葉を待つ姿勢だった。聞くというその一点に、全身を傾けてくれている。それだけで、強張っていた喉が少しだけほぐれた。
俺は何から話すべきか迷った。簒奪のことか。父のことか。だが、それらはすべて枝葉だ。根っこから話さなければ意味がない。
いちばん言いにくいこと。いちばん信じてもらえないこと。それを、最初に置く。
俺は覚悟を決めた。
膝の上で握りしめた手に力を込める。逃げ出したくなる足を、その場に縫いとめる。
頭の中をこれまでの日々が駆け抜けた。応接間で損得を並べた最初の日。畑の土。出汁の湯気。朝の剣。雨の夜の打ち明け話。馬車の中のあの距離。この男と過ごしてきたすべての時間。それを、これから話す一言で壊してしまうかもしれない。
それでも、と俺は思った。壊れるなら、それは最初からその程度のものだったということだ。本物なら壊れない。この男なら――きっと。
根拠のない確信だった。だが、その確信に賭けるしかなかった。そして、生まれて初めて――前世から数えて、誰にも一度も明かしたことのない、その言葉を。
俺は口を開いた。
「私は……」
声が震える。それでも続けた。
「私は、たぶん――この世界の、住人では、ないんです」
言った。
ついに、言ってしまった。
口に出してみると、その言葉は自分の耳にも、ひどく、突拍子もなく響いた。改めて、馬鹿げた告白だと思う。普通なら信じてもらえるはずがない。だが、これが紛れもない、俺の真実だった。
俺は息を詰め、アイゼンの顔を見つめた。
驚くか。笑うか。それとも、化け物を見る目をするか。どんな反応が返ってくるのか。心臓が痛いほど鳴っている。
言ってしまったものは、もう戻せない。賽は投げられた。あとは、この男がそれをどう受け止めるか。俺にできることは、もう何もなかった。ただ待つ。生殺与奪を、初めて他人の手に委ねて。
永遠にも思える、一瞬の沈黙。
その沈黙を破って、アイゼンが――静かに口を開いた。




