第十九話 簒奪の冤罪、そして「一人じゃ無理だ」
ユーリの予告は、数日と置かずに現実になった。
その朝、王宮からの早馬が侯爵邸の門を叩いた。
恭しく差し出された一通の書状。だが、その中身は、招待でも要請でもなかった。弾劾状だった。
封蝋を見た瞬間から、嫌な予感はしていた。王宮からの早馬が吉報を運んでくることなど、めったにない。まして、こんな夜明けすぐの時刻に。
俺は、その場で文面に目を走らせ――息を呑んだ。
クロワ公爵令嬢ラヴィニアは、ライラック侯爵を篭絡してその武力をもって、王位の簒奪を企てている。よって、王太子アルベリクの名においてこれを糾弾する――。
簒奪。
あの夜、俺自身が紙に書きつけたあの二文字。それが、今、王家の公印を捺された紙の上で、俺をまっすぐに指していた。
手が、わずかに震えた。
覚悟していた、つもりだった。あの夜、簒奪という言葉に行き当たったときから、いずれ、こうなることは予感していた。だが、頭で予感するのと、現実に王家の名で罪を突きつけられるのとは、まるで違う。紙の重さが、そのまま首にかかる縄の重さに思えた。
知らせは、王宮で、公の場で宣告されたのだという。
マリアンヌが青ざめて運んできた噂と、出入りの商人の話を繋ぎ合わせると、おおよその様子が見えてきた。
王太子は満座の貴族たちを前に、声高に言い放ったらしい。あの女は宮廷を捨てたのではない。国境の武力を手に入れるために、辺境へ嫁いだのだ。クロワの血筋とライラックの兵。その二つを束ねて、いずれ王家に弓を引く気だ、と。
質の悪いことに、それは、まったくの出鱈目ではなかった。
言いがかりなら笑い飛ばせる。だが、これは違った。あの夜、自分で気づいて戦慄したあの配置。高位貴族の血筋と国内最強の独立武力の結合。それが、外形として、すでにそこにある。王太子は、ありもしない罪をでっち上げたのではない。すでに揃っていた薪に、火をつけただけだった。
だから重い。
聞いた貴族たちも、半信半疑ながら否定はしきれなかったという。たしかに、あの婚約は不自然だった。たしかに、ライラックの武力は危うい。たしかに、火種はある――そう囁き合った。
これが、ただの讒言なら、宮廷の誰かが一人くらいは庇い立てしたかもしれない。馬鹿馬鹿しい、証拠もないのにと。だが、誰もそうはしなかった、できなかった。なまじ、外形が整っている。否定しようにも、その材料がすべて、向こうの手に揃っている。
うまく嵌められた。いや――嵌められた、というのも正確ではない。罠の大半は、俺が自分で組み上げたものだった。
俺は弾劾状を握ったまま、しばらく動けなかった。
意図の有無は関係ない。俺に簒奪の気がないことなど、誰も問題にしない。問われているのは「そう見えるか、どうか」。そして、そう見える材料を、俺は自分の手で完璧に揃えてしまっていた。
追い打ちは、その日の午後に来た。
今度は、クロワ公爵家からの使者だった。
俺は、嫌な予感を抱えたまま、その口上を聞いた。
使者は、慇懃に、しかし冷ややかに告げた。クロワ公爵は此度の一件について、王太子殿下のご賢察に全面的に同意する。娘ラヴィニアの軽率かつ独断の婚約は、家門の意にまったく添わぬものであった。よって、公爵家は当人といっさいの関わりを断つ――。
縁を切る、と言ってきたのだ。
使者は言いたいことだけを言うと、こちらの返事も待たずに慇懃に一礼して去っていった。引き止める理由もなかった。
残されたのはしんと静まった応接間と、足元からじわじわと這い上がってくる、寒さのような感覚だけだった。
予想はしていた。していたが、いざ言葉にされると、足元が抜けるようだった。
あの父が娘を庇うはずがない。それはわかっていた。かつて、強引に婚約を覆そうとして果たせなかった、あの男だ。娘への、というより、自分の意に背かれたことへの、私怨。それを、晴らす好機と見たのだろう。王太子派にいち早く尻尾を振る。それが、クロワ公爵という男の選択だった。
娘が無実の罪で処刑されるかもしれない。それでも、あの男は保身を選んだ。我が子を切り捨てた。原作のラヴィニアがあれほど歪んだのも、こういう父の下で育ったからかもしれない、とふと思った。誰にも本当に守られたことのない娘。その空っぽの器を、今、俺が引き継いでいる。
これで、後ろ盾は完全に消えた。
俺は自室に戻り、あの夜に広げたあの紙を、もう一度、取り出した。
簒奪、の二文字の隣に。
俺は震える手で、もう一つの言葉を書き足した。
孤立。
覚えていなかった、破滅の条件のもう一つ。クロワ家の後ろ盾を失い、誰にも守られぬ身となること。原作のラヴィニアは、これによって、修道院へ送られた末、声を上げる者もなく処刑された。後ろ盾があれば、修道院送りで済んだかもしれない。だが、孤立すれば、庇う者が誰もいなければ。
簒奪と孤立。
二つの歯車が、今、かちりと、噛み合った。
皮肉なのは、この孤立すら、半分は俺が自分で招いたものだということだった。実家との縁切り。あの婚約のとき、俺はそれを「好都合」だと思っていた。うるさい父から、解放される。クロワ家の駒として使われずに済む。せいせいすると。
その「好都合」が、今、後ろ盾の喪失という致命傷になって返ってきた。守ってくれるはずの実家を、自分から突き放していた。簒奪の薪を積み、孤立の穴を掘る。破滅への舞台装置を、俺は生き延びるためと信じて、せっせと整えていたのだ。
ユーリの言った通りだった。簒奪だけなら、まだ、疑いで済んだかもしれない。だが、それを庇う後ろ盾が消えたとき、疑いは容赦なく断罪へと転がり落ちる。
その夜、俺は眠れなかった。
寝台の上で、天井を見上げて考え続けた。どうすれば、この状況を覆せるか。盤面をひっくり返す一手はないか。
だが、考えれば考えるほど出口は塞がっていた。
簒奪の疑いは、外形が成立している以上、言葉では晴らせない。後ろ盾は消えた。実家は敵に回った。王太子は明確な悪意で、こちらを潰しにかかっている。
一つひとつ、対処法を考えてみる。
簒奪の疑いを晴らすには、その意図がないことを証明するしかない。だが、ないことの証明は悪魔の証明だ。後ろ盾を取り戻すには、父に、頭を下げる? あの男が、今さら聞く耳を持つはずもない。王太子を説得する? あの執着した目を思えば、言葉が通じる相手とも思えない。どの道も塞がっている。一人で打てる手は、もう残っていなかった。
逃げるという手も、頭をよぎった。すべてを捨ててどこか遠くへ。だが、すぐに打ち消した。逃げれば、簒奪の疑いを認めたことになる。アイゼンにも累が及ぶ。あの男を巻き込んで置き去りにする。それだけはできなかった。
……できなかった?
自分の感情に、ふと、引っかかる。なぜ、あの男のことがこんなときまで頭から離れないのか。だが、今は、それを掘り下げている場合ではなかった。
前世から、ずっとそうだった。どんな厄介事も、最後は自分一人で片づけてきた。残業も、トラブルも、人間関係も。誰かに頼るくらいなら、徹夜してでも、自分で何とかする。それが、俺の生き方だった。
頼るということを、俺は負けだと思っていた。借りを作ること、弱みを見せること、誰かに自分の命運を預けること。そのどれもが性に合わなかった。一人で完結していれば、裏切られることも、失望することもない。前世で、人付き合いに幾度も痛い目を見てきた俺は、いつのまにか、そういう生き方に凝り固まっていた。
だが――。
今夜ばかりは、いくら頭を捻っても、答えが出なかった。一人で動かせる範囲を、はるかに超えた大きな力が、四方から押し寄せている。手駒も、後ろ盾もない。情報も足りない。
俺は、暗い天井に向かって、生まれて初めてその言葉を胸の中で呟いた。
――これ、もう、俺一人じゃ無理だ。
認めるのは悔しかった。情けなくもあった。三十余年、一人で立ってきたその矜持が、音を立てて崩れていく。
だが、崩れてみて初めて、わかったことがあった。
その矜持は、ずっと、俺を守ってきたものだったが――同時に、ずっと、俺を独りに縛りつけてきたものでもあったのだ。
だが。
その言葉を認めた瞬間、不思議と、視界が少しだけ開けた気がした。
一人で無理なら。
誰かと二人なら。
ふと、あの領地の諍いを収めた日のことを思い出した。アイゼンが裁定を下し、俺がその穴を埋めた。二人で一つの問題を解いた。あのとき感じた奇妙な手応え。一人では届かないところでも二人なら手が届く。
今度の相手はあのときの比ではない。命がかかっている。だが、もし、誰かと組んで、この盤面に立ち向かえるとしたら。その相手は、一人しか思い当たらなかった。
俺の脳裏に、一人の男の無愛想な横顔が浮かんでいた。




