第十七話 「あの男に近づくな」と、彼は言った
帰りの馬車は、ひどく静かだった。
夜会の喧騒が遠ざかり、車輪が石畳を踏む音だけが規則正しく続いている。向かいの席に座ったアイゼンは、王宮を出てからずっと、ひと言も口をきかなかった。窓の外の闇をじっと睨んでいる。
俺は声をかけあぐねた。何があったのか、見当がつかない。夜会はうまく切り抜けたはずだ。貴族たちの探りも躱した。失態はなかった。それなのに、この男は、まるで苦い水でも飲まされたような顔をしている。
いつもの寡黙とは、何かが違った。
行きの馬車では、こうではなかった。夜会の段取りを、二人で淡々と確認した。誰に会うか、何を訊かれそうか、どう躱すか。仕事の打ち合わせのような、いつもの呼吸だった。それが、帰りはまるで違う。何かが、あの会場で、この男の中の静かな水面を波立たせていた。
纏う空気が硬い。眉のあたりに、かすかな険がある。長く一緒にいるうちに、この無表情な男のわずかな機嫌の起伏くらいは、読めるようになっていた。今のアイゼンは、明らかに不機嫌だった。
何か気に障ることでもあったか。夜会での俺の振る舞いが出過ぎていたか。心当たりを、いくつか並べていると、アイゼンが、ふいに低く口を開いた。
「……あの男に、近づくな」
あの男。考えるまでもない。王太子のことだ。
「ご忠告は、ありがたく」と、俺は答えた。「私も好きで近づいたわけでは。向こうから来たのです」
「わかっている」アイゼンは、硬い声で続けた。「だが、二度と、あの男と二人で話すな。あの目は……よくない」
俺は少し面食らった。アイゼンが、こんなふうに、声に何かを乗せるのは珍しい。普段の彼なら、危険な相手だ気をつけろ、と、淡々と事実だけを告げて終わりだ。なのに、今夜は、その声に隠しきれない棘が混じっていた。まるで、王太子が俺に近づいたこと、そのものが許せないとでもいうように。
その通りだった。あの王太子の執着めいた視線。俺自身危険だと感じていた。だから、忠告そのものに異論はない。
むしろ、ありがたい忠告だった。あの男の執着は、いつか必ず厄介な形で牙を剥く。そういう嫌な予感がする。アイゼンが傍で警戒してくれるなら、これほど心強いことはない。
ないのだが――妙だった。
「閣下」と俺は、訊いてみた。「なぜ、そこまで、気にかけてくださるのですか。私が王太子と何かあれば、政治的には面倒です。ですが、閣下のその仰りようは、なんというか……それ以上のような」
アイゼンの肩が、わずかに強張った。
「……それ以上とは、なんだ」
「私にもわかりません。ただ、損得の話をしているようには、聞こえなかったもので」
アイゼンは答えなかった。窓の外へ視線を逃がし、口を固く結んでいる。何かを言いかけて、その言葉が自分でも掴めずにいる――そんな、もどかしげな横顔だった。
この男は、たぶん、自分でもわかっていない。なぜ、こんなにも、王太子のことが気に障るのか。なぜ、これほど、俺があの男に近づくのを嫌うのか。その理由を言葉にできずにいる。
面白いものだな、と俺は半ば他人事のように思った。人の心の機微には聡いくせに――いや、聡いからこそか。この男は、自分自身の心の動きだけは、うまく、扱えないらしい。七年、感情に蓋をして生きてきた男だ。久しぶりに動いた何かをどう名づけていいのか、本人が、いちばんわかっていない。
俺は、それ以上追及しなかった。
代わりに、奇妙な感覚を噛みしめていた。
守られていると思った。
政治的な打算でも契約上の義務でもなく。この男は、ただ、俺を案じている。あの危うい男から遠ざけようとしている。不器用で、ぶっきらぼうで、理由すら言葉にできない、その案じ方で。
それが――悪くなかった。
いや、悪くないどころではない。
前世から数えて三十余年。俺は、ずっと、自分のことは自分で片づけてきた。誰かに守られた記憶など、ほとんどない。残業も、引っ越しも、病気も、全部、一人で。誰かが、自分のために理由もなく不機嫌になってくれる。そんなことは生まれて初めての経験だった。
前世の俺を思い出す。三十二年。誰かの重荷になるまいと、いつも気を張っていた。頼ることは迷惑をかけることだと、どこかで思い込んでいた。だから、何でも一人で抱えた。抱えて、抱えて――最後は、過労で、あっけなく死んだ。
その俺が、今、誰かに案じられている。柄にもなく、それを心地よいと感じている。皮肉な話だった。死んでからようやく、人に守られる味を知るとは。
胸の奥が、またざわついた。
例のあれだ。あの、彼が己の過去を語った夜の心臓の妙な動き。今夜も出ている。
……胃もたれ、ではないな。今夜は、まだ夕餉を食べていない。
働きすぎでもない。今日は、夜会で立っていただけだ。寝不足とも違う。じゃあ、何だ。原因のわからない不調ほど気味の悪いものはない。前世なら、とっくに医者にかかっている。だが、この症状をこの世界の医者にどう説明しろというのか。「殿方に案じられると胸が高鳴ります」――言えるか、そんなこと。
俺は、その「ざわつき」の正体に、また頭を悩ませた。だが、馬車の揺れと、隣に座る男の気配のせいで、どうにも、思考がまとまらない。
ふと、視線を上げると、アイゼンと目が合った。
彼は、すぐに、窓の外へ視線を逸らした。だが、その一瞬――凍りついた氷公の目に、いつもの冷たさとは、まるで違う、戸惑いのような色が揺れたのを、俺は見た気がした。
その横顔を、俺はしばらく見ていた。
夜会であれほど周囲を竦ませた、王家に次ぐ武力の持ち主。誰も正面から事を構えられない、抜き身の刃のような男。その同じ男が、今は、馬車の隅で、自分の感情ひとつ持て余して窓の外を睨んでいる。その不器用さが、なぜだか、ひどく放っておけなかった。
馬車が石畳の継ぎ目で、大きく揺れた。とっさに、アイゼンの手が伸びる。俺の肩を、支えようとして――だが、触れる寸前で、その手は宙で止まった。行き場をなくしたように、ゆっくりと引っ込められる。
触れていいのか迷ったのだろう。その逡巡が、かえって雄弁だった。
二人とも、何も言わなかった。言えなかった。
ただ、馬車の中の距離が、行きよりほんの少しだけ近くなったような――そんな夜だった。
屋敷に戻り、自室に入って、俺はようやく一人になった。
寝台に腰を下ろし、今夜のことを思い返す。
夜会の貴族たちとの応酬。王太子の暗い囁き。そして、帰りの馬車の、あの硬い横顔。
あの男は、俺を案じていた。理由も言えずに、ただ、不機嫌になるほどに。
そして、俺は、それを、悪くないと思った。胸をざわつかせながら。
……。
待て。
俺は、ふと、ある可能性に思い至った。
胸の動悸。相手を案じられて嫌でない気持ち。目が合うと逸らしたくなる、あの感じ。
これは、もしかして。
もしかすると、これは――。
「……いや」
俺は首を振った。
「ないない。ないない、それは」
声に出して否定した。
考えてもみろ。俺の中身は三十過ぎのくたびれた男だ。ガワは十六の令嬢。そして、相手はれっきとした成人男性。そんな組み合わせで、色恋もへったくれもあったものじゃない。
大体、俺はこの体に転生してから、ずっと、性別の感覚が宙ぶらりんなのだ。鏡に映る令嬢を、自分だとも、他人だともつかずに過ごしてきた。その状態で、恋だの愛だのと言われても、どの足場に立って、その感情を眺めればいいのかわからない。わからないものは、ない。ない、ということにする。それが、いちばん平和だ。これは、そう、戦友のような信頼だ。同じ問題を解いてきた仕事仲間への親愛の情。きっとそれだ。それに違いない。
うん。そういうことにしておこう。
俺は、無理やり話を打ち切って、寝台に倒れ込んだ。
天井を見上げる。胸のざわつきは、まだ、収まらない。
明日からは、やるべきことが山ほどある。王太子の執着。ユーリの警告。見えない、別のどこかの歪み。考えるべき厄介事はいくらでもあった。こんな、得体の知れない胸の動きに、かまけている場合ではないのだ。
それに、と俺は、自分に言い聞かせる。仮に――仮にだ。万が一、これが、その、色恋めいた何かだったとして。だとしたら、なおさら始末が悪い。俺とこの男は、生き延びるための契約で結ばれている。そこに、余計な感情が混じれば、判断が鈍る。守るべきものを見誤る。今の俺に、いちばん要らないのはそれだった。
だから、これはない。ないことにする。決定だ。
そう、自分に言い聞かせて、俺は目を閉じた。
窓の外では、夜が静かに更けていく。遠くで梟が、一声鳴いた。
目を閉じても、瞼の裏にあの硬い横顔が、浮かんでくる。理由も言えずに不機嫌になった、不器用な男の顔が。
——だが、その夜、なかなか寝つけなかったことだけは、誰にも言うつもりはない。




