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第十六話 夜会で、王太子に耳元で囁かれる

 王宮の夜会はまばゆかった。


 無数の蝋燭が、磨き上げられた大理石の床に金色の影を落としている。着飾った貴族たちが、扇の陰で囁き合い、酒杯を傾け、探るような視線を絶え間なく交わしている。建前と腹芸の渦巻く海。久しぶりに足を踏み入れる、宮廷という名の戦場だった。


 逃げ出したはずの場所に、自分から戻ってきている。皮肉なものだ。ここは、原作のラヴィニアが、悪役令嬢として嫉妬と陰謀を繰り広げ、破滅へと転がり落ちていった舞台。一歩、足の運びを誤れば、いつ、あの筋書きに引き戻されるかわからない。気を抜けなかった。


 俺は久々に、深窓の令嬢の鎧を隙なく着込んでいた。背筋を伸ばし、所作の一つひとつに磨いた優雅さを乗せる。胸の内では「俺」が舌打ちしていても、表に出すのは「わたくし」だ。ここはそういう場所だった。


 奇妙なものだ。この鎧を着ること自体は、もう、苦でもなかった。ラヴィニアの体は、十六年かけてこの所作を覚え込んでいる。微笑み方も、扇の扱いも、視線の流し方も。考えなくても、勝手に優雅に動く。だが、その優雅さの内側で、損得を測り、相手の出方を読んでいるのは、紛れもなく、前世のくたびれた中年男の頭だった。深窓の令嬢の皮と、おっさんの中身。その奇妙な二人羽織で、俺はこの戦場を渡っていく。


 そして、その隣にはアイゼンがいた。


 黒の正装に身を包んだ氷公は、社交の場にあってもまるで剣のようだった。微笑みもせず、世辞も言わず、ただ静かに俺の傍らに立っている。エスコート役として。


 会場に足を踏み入れた瞬間、空気が、わずかに変わった。


 ざわめきが、一拍止む。視線がこちらに集まる。だが、それは俺に向けられたものでは、なかった。


 アイゼンだ。


 「……ライラック侯爵が、夜会に?」


 「珍しいこともあるものだ」


 「あの方が王都に出てこられると、それだけで、きな臭くなる。国境の盾が持ち場を離れているということだからな」


 囁きが、さざ波のように広がっていく。その声音には、好奇だけでなく、明らかな警戒が混じっていた。中には、アイゼンと目が合うなり、そそくさと顔を背ける者もいる。


 近くで初老の貴族が、連れに小声で言うのが聞こえた。


 「あの侯爵が本気を出せば、王都の常備兵などひと月と保つまい。だからこそ、誰も正面から事を構えたがらん。触れれば斬れる抜き身よ」


 ひと月と保つまい。物騒な品定めだった。だが、誰もそれを大袈裟だとは、笑わなかった。むしろ、当然の前提として頷き合っている。


 俺は内心で、その光景を観察していた。


 妙だ。


 「地味で、無害で、面倒事から最も遠い侯爵」――俺が、そう見立てて選んだ男に、宮廷の権力者たちが、ここまで神経を尖らせている。まるで、抜き身の刃を前にしたような空気。これは、ただの辺境領主に向ける反応ではない。


 そういえば、と思い出す。あの婚約のときの手際の良さ。父の権力でも覆せなかった、あの電光石火。いつか聞いた「王家に次ぐ武力を持つ家」という言葉。点が、また一つ線で結ばれかける。この男は本当に、俺が思っていたような無害なモブなのか――。


 だが、その疑問を深く掘り下げる暇はなかった。早速、最初の刺客が近づいてきたからだ。


 扇を口元に当てた、年かさの貴婦人だった。値踏みするような目で、俺を上から下まで眺め、それから、甘ったるい声で口を開いた。


 「まあ、あなたが噂のクロワ公爵令嬢。お会いしとうございましたわ。……畑をお耕しになるとか。なんてお珍しい」


 刺だった。貴族の令嬢が土いじりなどはしたない。遠回しにそう嗤っている。


 周囲の貴婦人たちが、くすくすと追従するように笑った。


 だが、俺はこういう腹芸がいちばん苦手で、いちばん得意だった。苦手なのはやるのが。得意なのは潰すのが。


 「ええ」と、俺は、にこやかにまっすぐ返した。「自分の食べるものを、自分で作る。とても、豊かなことだと思っております。奥様も、一度、土に触れてごらんになっては。心が洗われますわ」


 貴婦人の扇の動きが止まった。


 嗤いを嗤いとして受け流さず、正面から「豊かなことだ」と肯定で返される。さらに、「あなたもどうぞ」と、にこやかに勧め返される。腹芸には腹芸で応じるのが作法のこの場で、ただ一人、誰も嘘をついていない言葉をど真ん中に置かれて、その貴婦人は二の句が継げなくなっていた。


 別の貴族が、助け舟のつもりか横から口を挟んだ。


 「しかし、ライラック侯爵とのご縁はずいぶん急だったとか。……何か、よほどのご事情でも?」


 含みのある問いだった。訳ありの結婚に違いないと探っている。


 「事情ならございます」と、俺は、あっさり認めた。「わたくしが、宮廷の煌びやかさより、静かな暮らしを好んだ。それだけの単純なお話ですわ。閣下とは、互いに損のない、良いお取り決めをいたしました」


 貴族は、勘繰る糸口を自分から差し出されて、肩透かしを食ったような顔をした。隠し立てしている、と踏んで突けばぼろが出る。だが、最初から全部開いて見せられると、突きどころがない。


 建前の応酬は建前で受けるから続く。直球を笑顔で投げ込まれると、腹芸の達人ほど、かえって何も返せなくなる。


 その後も何人かが、似たような探りを入れてきた。氷公との仲はどうなのか。打算の婚約だと聞くが本当か。宮廷を捨てて辺境に引っ込むとはよほどの事情があるのでは。


 俺は、そのことごとくに、嘘のない直球で応じた。打算の婚約です、ええ、互いに損のない良い契約ですわ。辺境は静かで、暮らしやすうございます。隠すことがないと、人はこんなにも強い。建前で武装した相手は、丸腰の真実に、なぜかたじろぐ。


 気づけば、俺の周りには言葉を失った貴族たちが、輪を作っていた。隣で、アイゼンが、ほんのわずかに口の端を動かした気がした。


 笑ったのかもしれない。あの、無表情な男が。


 後で聞いたところでは、社交界に通じた者ほど、この夜の俺を見て舌を巻いたという。海千山千の貴族たちを、嫌味の一つも言わず、ただ正直なだけで、片端から黙らせた令嬢。なるほど、これは噂になるわけだと。


 目立たないようにと思っていたはずなのに。また、やってしまった。


 そのときだった。


 人の輪が、自然と左右に割れた。


 現れたのは、若い男だった。豪奢な衣装、整った顔立ち。誰もが、頭を垂れる。


 王太子アルベリク。


 間近で見る王太子は、確かに、絵に描いたような美丈夫だった。本来なら、この男が、ヒロインと結ばれて国を継ぐはずだった。だが、その整った顔の奥で、今は、得体の知れないぎらついたものが揺れている。ステラの手紙にあった、あの「燃えるような目」。空虚を、何かで埋めようとして、埋めきれずにいる者の目だった。


 俺は、優雅に礼をした。表向きは完璧な臣下の所作で。だが、内心の「俺」は、最大限に警戒していた。物語の中心を失い、空虚を抱えた危うい権力者。近づいてはならない相手の筆頭。


 「面を上げよ」と王太子は言った。「そなたが、ラヴィニアか。……噂以上だ」


 その目が、俺を舐めるように見ていた。値踏みでも好奇でもない。もっと、執着めいた、粘ついた視線。何かを惜しむような。


 形ばかりの言葉を、二つ三つ交わした。だが、王太子は、なかなか、俺の前から離れなかった。やがて、彼はふいに、一歩距離を詰めてきた。


 周りに、聞こえぬほどの低い声で。耳元に囁いた。


 「君は――僕のものに、なるはずだった」


 背筋がぞくりとした。


 それは、未練でも、口説きでもなく、もっと、暗いものだった。自分の手に当然あるべきものが、こぼれ落ちた。その喪失を許せずにいる者の声。奪われたと思っている。誰に。俺の隣の氷公にか。それとも、俺自身にか。


 原作のラヴィニアは、この王太子の婚約者候補だった。あの男の世界では、俺は最初から、自分のものになるはずの女。それが、勝手に他家へ嫁ぎ、宮廷を捨て、あまつさえ、社交界で型破りな評判まで集めている。手に入れ損ねたものほど、人は執着する。そして、執着が裏返れば、それは、たやすく憎しみに変わる。


 俺は何も答えず、ただ、もう一度深く礼をした。


 王太子はしばらく俺を見下ろしていたが、やがて踵を返して人の輪の向こうへ消えていった。


 その背中を見送りながら、俺は、確信した。


 この男は危ない。そして――俺は、たった今、この男の中で何かの「役」を勝手に、割り当てられた。


 断罪の引き金は避けてきたつもりだった。ヒロインをいじめてもいない。婚約者の特権で、誰かを陥れてもいない。覚えている二つの破滅は、きちんと迂回してきた。


 なのに、目の前のこの男は俺を見る目の奥に、はっきりと刃を隠していた。


 ユーリの言葉が、またよみがえる。知らないうちに、別のどこかで何かを歪めている、と。――まさか、これが、その「別のどこか」の入口なのか。


 いい役でないこと、それだけは確かだった。

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