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第一章:静かなる水底 (一)

 その声が、最初にやってきた。明確な言葉ではない。脳裏でかすかに脈打つ残響――まるで内側から何度も叩き、彼の意識を無理やり引き戻そうとするかのような響きだった。


 ノクトは荒い息を吐きながら目を覚ました。まるで海底から強引に引き揚げられたかのように、胸が激しく上下している。


 視界に飛び込んできたのは、繊細な彫刻の線が施された白い天井だった。壁のランプが淡い黄金色の光を放っていたが、悪夢から完全に冷めやらぬ瞳には、それでも刺すように眩しかった。ノクトはゆっくりと瞬きを繰り返し、散らばった意識をかき集めようとした。


 周囲からは、静かに稼働する共鳴機器の微かな駆動音が聞こえていた。ベッドの脇にあるレゾナンス・グラフ・パネルの光の線が、穏やかで規則正しいリズムを刻み、遠くから聞こえる微かな足音と混ざり合っている。空気中にはスタビライザー(安定剤)の臭いが満ちていた。


 病院だ。


 ノクトは眉をひそめ、心を落ち着かせようと試みた。しかし、この部屋に漂う安定剤の臭いと、グラフパネルが発する機械音は、むしろ彼を不安にさせた。昔から、いつもこうだった。


 ノクトは小さな痛みが走るまで奥歯で頬の内側を噛み締めた。やがて、じわりと口の中に広がる血の鉄の味が、彼の呼吸をようやく正常に戻した。「ここはただの普通の病院だ」と、彼は自分に言い聞かせた。


 彼は包帯に覆われた自分の手を持ち上げた。いつからか、手が震えている。白い包帯が両手首から上腕まで隙間なく、丁寧に巻かれていた。いつの間にか着せられていた長袖の患者着の奥に、決して完全に消えることのない古い傷痕を隠すように。


 心臓の鼓動が速くなる。胸の奥に、奇妙な感覚があった――息苦しさ、冷たさ、そして理由の分からない理不尽な恐怖。自分がどれほどの時間、意識を失っていたのかノクトには分からなかった。分かっているのはただ一つ、またあの夢を見たということだけだ。


 暗い通路の夢。鎖の夢。そして、無視するには近すぎ、手を伸ばすには遠すぎる悲鳴の夢。そのすべての中で、いつも、優しくも儚い一つの声が自分の名前を呼んでいた。


「ノクト」


 彼はそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。その名前だけが、彼が持つ唯一のものだった。過去はない。記憶もない。素性もない。ただその名前と、自分が何か……とても大切なものを失ってしまったという奇妙な感覚だけが残されていた。


 部屋の扉が静かに開き、計算されたような規則正しい足音が近づいてきた。


「ノクト」


 大人の女性の声が、優しく彼を呼んだ。


 ノクトは目を開けた。扉の向こうに一人の女性が立っていた。彼女は静かに扉を閉めると、ノクトが横たわるベッドへと歩み寄った。


 長い茶色の髪を低い位置で結び、ライムグリーンの瞳が彼を温かく見つめている。シンプルなシャツの上から白い医療用白衣を羽織り、首からは身分証がぶら下がっていた。カードには、彼女の所属先である聖域ヴィレリン《サンクトゥム・ヴィレリン》の文字が刻まれている。


「気分はどうですか?」女性が尋ねた。


 ノクトは身体を起こそうとしたが、身体が鉛のように重かった。「最悪だ」と、彼は掠れた声で答えた。喉が酷く渇いているせいで、声がうまく出ない。


 女性は小さく頷いた。「無理もないわ。あなた、丸二日近く気絶していたのよ」


 彼女はノクトが身体を起こして寄りかかれるよう手伝おうと近づいたが、ノクトはその助けを拒むように身を引いた。その小さな拒絶に、女性は一瞬だけ動きを止めた。数秒の沈黙の後、彼女はすべてを察したように優しく微笑んだ。


「いいのよ、気にしないで」


 ノクトは視線を落とした。「……すまない」彼は静かに呟いた。


 結局、彼は女性の助けを借りることなく、自力で身体を起こしてベッドの背もたれに寄りかかった。それを見て、女性は再び近づき、彼に水の入ったグラスを手渡した。医者である彼女は、ノクトが水を飲む様子をじっと観察しながら、次にどんな言葉をかけるべきか考えているようだった。


 水を半分ほど飲んだノクトは、グラスをベッドサイドに置いた。彼は少しうつむき、手の中のグラスを見つめながら、躊躇うように親指でグラスの縁をなぞった。


「何か……覚えていることはありますか?」彼女が尋ねた。


 ノクトは首を振った。「いや」彼は虚空を見つめたまま答えた。覚えているのは、悪夢の名残と、説明のつかない痛みだけだった。


「ノクト……」女性は静かにその名を呟いた。


 彼女の眼差しには、まるで壊れやすいものを守るかのようなニュアンスが含まれていた。その瞳は、彼の深い漆黒の眼の奥に何が隠されているのかを読み解こうとしていた。「じゃあ……私が誰だか分かりますか?」


 ノクトは答えるのを躊躇うように、しばらく沈黙した。それから、ゆっくりと口を開いた。「エララ・ヴィレイン」


 その言葉を聞くと、女性の顔から焦燥感が消えていった。彼女は、その答えが何か重大な意味を持っていたかのように、安堵の溜息をついて頷いた。


「良かった。覚えているのね」彼女は優しく言った。「それから、次はファミリーネームじゃなくて、名前で呼んでちょうだい。私たち、もう長い付き合いでしょう?」


 ノクトは黙って頷いた。


 《サイレント・ヒーラー》エララ・ヴィレイン。彼女は医師であり、聖域ヴィレリン《サンクトゥム・ヴィレリン》のシニア医療スタッフでもあった。そこは多くの人々に保護と治療を提供する場所として知られている。


 エララは幼い頃からこの場所で育ち、この組織が掲げる理念に従って、自分の全能力を尽くして誰をも救うと誓っていた。彼らの理念はシンプルだった。「私たちは世界のために癒やすのではない。彼らが生き続けるために癒やすのだ」


「どこか特に痛む場所はありますか?」エララはボールペンの芯をカチリと押し、ノクトのカルテに健康状態を記録する準備をしながら尋ねた。


 その質問を予期していたかのように、ノクトは機械的な声で答えた。「少し目眩と吐き気がする」


 エララはすぐにそれを書き留め、再びノクトを見た。「それだけ?」


 ノクトは頷いた。「それだけだ」


 彼は少しの間目を閉じ、気分を落ち着かせようとした。薬の臭いと、この部屋にあるすべてのものが彼の胃をかき乱していた。その表情と状態を察したエララは、小さく溜息をついた。


「ノクト……あなたがこういう場所にいるのを不快に思うのは分かっているわ」彼女は優しく言った。「でも、もう少しだけ耐えてくれる? この医療報告書が書き終わったら、すぐに別の部屋へ移動させるから」


 ノクトは答えなかった。彼は再び身体を横たえ、もう一度目を閉じた。その沈黙を了解の返事と受け止め、エララはベッドの近くから椅子を引き寄せて腰掛けた。


「分かったわ、ノクト。この医療報告書を早く終わらせて、あなたの専用室へ連れて行くわね」


 ノクトは低く呟いた。「その必要はない。ここから出してくれれば、それだけで気分が良くなる」


 エララには本当は言いたいことがたくさんあったが、結局は何も言わずに飲み込んだ。いくつかの考慮の末、彼女はノクトの退院の要求を受け入れることにした。本来なら、どのような医療手順においても許されないことだったが、エララはその懸念を優しい微笑みで覆い隠した。


「今すぐここから出すというのは……医療手順の上、できないわ」彼女は言った。「でも、先にあなたの専用室へ移動しましょう。定期検査は継続するけれど、少しだけ我慢してね。一日だけでいいから」


 彼女は微かに微笑んだ。「もし一日経って、レゾナンス・ドロップ(共鳴低下)の兆候が見られなければ、退院を許可するわ。どうかしら?」


 ノクトは、その提案を吟味するかのようにしばらく答えなかった。しかし最終的には、同意の意を込めて頷いた。「分かった」


 エララは再びボールペンをカチリと鳴らした。「他に痛むところは? 頭だけ?」


 ノクトは頷いた。


「本当に他には何もない?」


 ノクトは静かに首を振った。


「本当ね?」


 ノクトはそれ以上答えなかった。これ以上話すことは時間の無駄だとでも言うように。このような状況に直面すると、エララの顔にいつも浮かんでいる天使のような微笑みさえも消え失せることがある。彼女は溜息をつき、ボールペンの端で自分の額を軽く叩いた。


「気絶する前に、最後に自分が何をしていたか覚えている? 報告書の作成を手伝うわ」


 ノクトはしばらく沈黙し、記憶を辿ろうとした。彼は底なしの深淵のような黒い瞳を開け、目の前の虚空を見つめた。「俺は……『アセンダント』による異常事態に関する、グループ任務を言い渡されていた……」


 彼は長い間沈黙し、最後の記憶を掘り起こそうとした。エララが助け舟を出した。「提示された任務のキーワードは、『マイナー・アセンダント(下級超越者)の暴走』よ」


「指令は、標的の確保、鎮静、あるいは無力化だった」ノクトはゆっくりと続けた。「提供されたデータによると、そのアセンダントの能力は風と共鳴しており、都市の境界付近で暴走していると報告されていた。いくつかの建造物も被害を受けていた」


 その誘導によって、ノクトの記憶が徐々に蘇ってきた。


「俺のチームが現地に到着した時……リーダーに選ばれた奴が、その三つの方法すべてを試すべきだと提案した。あいつは最初に鎮静を試み、次に無力化、最後に確保という順でいきたがっていた。だが、他の奴らが反対した。発生している被害の規模から見て、鎮静の選択肢は現実的ではないと一蹴したんだ。それから口論になった。確か……『すべての方法を試す価値はある。なぜ試しもせずに結論を急いだ?』とか、そんな内容だった」


 エララは頷きながら、すべてを書き留めた。彼女が今使っている紙は、任務報告書の用紙だった。ノクトの身体がまだ衰弱しているため、エララが代わりに記述していた。


「その後は……」ノクトは言葉を止めた。「覚えていない」


 エララの手が止まり、視線が用紙からノクトの顔へと向けられた。「覚えていないの? 少なくとも、自分が気絶した原因すら?」


 ノクトは再び頷いた。


 エララは小さく溜息をついて立ち上がった。「分かったわ。それしか覚えていないなら、仕方がないわね。この報告書は、あなたの主任教官に提出しておくわ。少しここで待っていてね。どこにも行っては駄目よ」


 エララが本当に部屋を出て行こうとする直前、ノクトが彼女を呼び止めた。「これを着せたのは……」


 エララは足を止め、少し振り返った。「何?」


「誰が傷の手当てをして、この患者着を着せたんだ?」


 エララは一瞬だけ瞬きをしたが、やがて小さく吹き出した。「あら……それのこと?」彼女は、不意に顔に浮かんだ悪戯っぽい表情を隠そうともせず、腕を組んだ。「誰だと思う?」


 ノクトはただ無表情に彼女を見つめ返した。エララは目を細め、明らかにこの青年をからかう瞬間を楽しんでいた。しかし、からかわれている当の本人が彫刻のように硬直して黙り込んでいるため、エララはついにクスクスと笑声を漏らした。


「分かったわ、分かったわ。もうからかわない。私がやったのよ。だから、心配しないで」


 その言葉を聞いて初めて、ノクトの顔の緊張が和らいだ。彼は頷き、再び目を閉じた。その穏やかな顔を見て、エララはもう一度からかってやりたい衝動に駆られたが、思い直してそれをやめた。


 彼女はしばらくノクトを見つめた後、ついに部屋の静寂の外へと足を踏み出した。


 扉が静かに閉まる。部屋に再び静寂が戻った。


 そしてしばらく時間の経った後、ノクトは極めて小さな声で呟いた。


「嫌いだ、この部屋は」

作中に登場する外国語・固有名詞のアルファベット表記

・レゾナンス・グラフ・パネル = Resonance Graph Panel

・スタビライザー = Stabilizer

・レゾナンス・ドロップ = Resonance Drop

・アセンダント = Ascendant

・マイナー・アセンダント = Minor Ascendant

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