『悪魔たちの湯治は、気持ちよすぎて溶けていく』後編
露天風呂で少しだけ将来の真面目な話をしたルシファーとベルフェゴールは、十分に温まった体をバスタオルで包み、大浴場を後にした。
脱衣所で髪を乾かし、施設指定の館内着に身を包んで休憩スペースへと向かう。
すると、そこには一足先にお風呂から上がっていた拓巳の姿があった。
「あ゛あ゛あ゛ぁぁ゛ぁ゛……あ゛、そこ、そこですぅ……っ、うあ゛あ゛あ゛……」
拓巳は休憩室の隅に鎮座する最新型の高級マッサージチェアに深く体を埋め、機械の激しい振動に身を任せながら、この世の終わりみたいな変な声を漏らしてガタガタと震えていた。
「……ちょっと、あんた何してんのよ……」
ルシファーが、文字通りのジト目で憐れむように拓巳を見下ろす。
「おっ! お二人とも、良いお湯でしたか? ルシファーにベルフェゴールもどうです、これ? めちゃくちゃ気持ちいいですよ」
マッサージの揉み玉に背中をドカドカと小突かれながら、拓巳がガタガタと声を震わせて勧めてくる。
「なによこれ、ただの椅子じゃない」
「……ルシファー。これ……ヤバい。悪魔的……な、オーラを感じる……」
隣でベルフェゴールが、すでに別のマッサージチェアにちょこんと腰掛け、自動で始まった揉みほぐし機能に「はふぅ……」と一瞬で骨抜きになっていた。
「あんたいつの間に!? ……そこまで言うなら、私も試してあげようじゃないの」
ルシファーもふん、と鼻を鳴らして隣のマッサージチェアに深く腰を下ろし、スタートボタンを押した。
直後、強力なメカニカルアームが彼女の凝り固まった肩と腰をガシッと容赦なく掴み、ググッと力強く押し込む。
「なにこれ! んぎもぢぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ!!!」
静かな休憩室に、ルシファーの限界突破した艶めかしい絶叫が響き渡った。
「あのー……ルシファーさん……。公共の場ですので、その、声のボリュームとトーンはちょっと……アレです……」
周囲の他のお客さんからの視線(本日二回目)を察知した拓巳が、顔を引きつらせて小声で嗜める。
「はっ……!?」
ルシファーは一瞬で顔を真っ赤に染め上げ、慌てて両手で口を抑えた。
「しょ、しょうがないじゃないっ! 想像以上の破壊力だったのよ、この椅子!」
恥ずかしさをごまかすように拓巳にキーキーと怒鳴るルシファーだった。
「はい。これ、お風呂上がりの水分補給にどうぞ」
マッサージチェアの誘惑をなんとか振り切った三人は、温泉施設内にある食事処のテーブル席に移動していた。拓巳がカウンターから冷えたガラス瓶を二つ、二人の前にコトッと置く。
「なによこれ、茶色くて甘そうな液体ね」
「コーヒー牛乳です」
「こーひー? ぎゅうにゅう……?」
ルシファーとベルフェゴールは、不思議そうに瓶の蓋を見つめた。
「あれ? 魔界には牛って生息してないんですか? ほら、これですよ」
拓巳はズボンのポケットからスマホを取り出すと、画面にのどかな牧場で草を食んでいる一般的な白黒模様の『乳牛』の画像を表示して二人に見せた。
画面を見た瞬間、ベルフェゴールがガタッと椅子を鳴らして目を丸くした。
「……ミノタウロス……!」
「そうね、これ完全にミノタウロスじゃない……。人間の世界では、こんな凶暴な魔獣がその辺をのほほんと歩いているの?」
ルシファーが戦慄したように顔を引きつらせる。
「いや、これただの大人しい牛(家畜)なんですけどね。で、牛乳っていうのは、この牛から絞り出したお乳のことです」
「乳……? ミノタウロスから……?」
その瞬間、ルシファーとベルフェゴールの頭上に、禍々しい角を生やした二足歩行の巨大な魔獣ミノタウロスが、頑丈な縄で柱にガチガチに縛り付けられ、その豊満な(?)胸を人間の手でこれでもかと激しく揉みしだかれ、涙目で乳を搾り取られているという、あまりにもディストピアで破廉恥な妄想のイメージ図が浮かび上がった。
「そんな薄汚くて破廉恥なものじゃありません!!」
拓巳は二人の頭上の妄想イメージをバシーン! と両手で叩き割るようにツッコミを入れた。
「コホン、えー。そして、この『コーヒー』というちょっぴり苦い飲み物と、その『牛乳』を最高の黄金比率でブレンドしたものが、このコーヒー牛乳です! 日本では昔から、お風呂上がりにはこれが一番って決まってるんですよ」
「ふーん……なんだかよく分からないけど……ええい、ままよっ!」
ルシファーは意を決したように瓶を掴むと、腰に手を当ててグイッと豪快に喉に流し込んだ。
「……おお」
それを見ていたベルフェゴールが、パチパチと小さな手で可愛らしく拍手を送る。
ゴク、ゴク、ゴク……ぷはぁっ!
「なによこれ……! 悔しいけど、悪魔的に美味しいわ……っ!」
「ですよね!」
ルシファーの絶賛っぷりを見て、ベルフェゴールも意を決して瓶に口をつけ、グイッと一気に飲み干した。
「……! ……すごく、おいしい。あまい……」
ベルフェゴールも大満足のようで、口の周りにうっすらと白いひげをつけながら微笑んでいる。
「よかった〜。この日本の伝統的な良さが、悪魔のお二人にも無事に通じて」
拓巳はホッとしたように自分のコーヒー牛乳を飲み、笑った。
しばらくテーブルで冷たい飲み物を楽しみながらゆっくりしていると、ルシファーがふとグラスを置き、少しだけ真面目なトーンで口を開いた。
「今日は……その、楽しかったわ」
「喜んでもらえてよかったです。ベルフェゴールはどうでした?」
拓巳が話を振ると、ベルフェゴールは満足げにコクコクと頷いた。
「……楽しかった。……お家で、一日中ずっと寝てるのと同じくらい……」
「お、おう、寝るのと同格か。……いや、でもベルフェゴール基準ならそれ最高のほめ言葉ですね!」
ベルフェゴールが寝る事以外でそこまで喜んでくれたことが嬉しくて、拓巳の表情がパッとひまわりのように明るくなった。
「よっしゃ! ベルフェゴールが喜んでくれたぞー!」
拓巳が子供のように無邪気にガッツポーズを決めると、ベルフェゴールはそれを言われて少し照れくさそうに、館内着の襟元をいじりながらふいっと下を向いてしまった。
「ふふっ。……ねえ、拓巳」
その様子を微笑ましそうに見ていたルシファーが、髪を耳にかけながら拓巳の顔を覗き込んできた。
「さっきね、お風呂の中でベルフェゴールと二人でちょっと話したんだけど……あなた、何か私たちにしてほしいこととか、叶えてほしい『願い事』ってある?」
「え?」
拓巳は思わず素っ頓狂な声を上げた。
あの、プライドの塊のようなルシファーと、生きることすら面倒くさそうなベルフェゴールが、自分に対してお礼をしたいなどと言い出すなんて。
(まさか、この二人がそんな殊勝なことを言うなんて……。明日、俺の頭の上に隕石でも落ちて死ぬのか……!?)
本気で世界の終焉を疑って硬直している拓巳に、ルシファーがじれったそうに机をコンコンと叩く。
「ちょっと、何よその顔は! ねえ、なんかないの!?」
「……なんでも……する……。寝るの、手伝う……?」
「いや寝る手伝いって何!? ……あ、いや、うーん。正直、僕は今の生活にめちゃくちゃ満足してますしね。うーん、願い事と言われても……」
拓巳は腕を組んで本気で悩んだ。そして、少しだけ照れくさそうに頭を掻きながら、まっすぐに二人の悪魔の目を見つめた。
「僕は……。僕は、ルシファーとベルフェゴールがいる、この騒がしくてちょっとおかしな日常が、今は本当に楽しいんです。だから、二人がそのままで、ずっとうちにいてくれれば、他には何もいりません」
「――っ!」
拓巳のあまりにも直球で純粋な言葉に、ルシファーとベルフェゴールは同時に息を呑んだ。
そして、二人の綺麗な顔が、まるで沸騰したかのように一瞬で真っ赤に染まっていく。
「そ、そ、そこまで言うなら、付き合ってあげなくもないわよ! 別に、あんたのためにここにいるわけじゃないんだからね! 勘違いしないでよね!」
ルシファーは猛烈な勢いでツンデレの教科書通りのセリフをまき散らしながら、ブンブンと顔を背けた。
「……じゃあ……拓巳のために……明日からも……いっぱい寝る……!」
「うん、それはいつも通りですね。ぜひそうしてください」
拓巳は優しく微笑んだ。だが、彼のオタクとしての本領はここからだった。
「だ、け、どっ! 願い事は要りませんけど、共同生活のルールとして、言うべきことは言わせてもらいますよ!」
拓巳はメガネのブリッジをクイッと押し上げ、一転して厳しい表情になった。
「まずルシファー! あなたは夜中と早朝に大音量でアイドルのライブ映像を観て叫ぶの禁止! 近所迷惑です! あとポテチは一日一袋まで! これ以上太って衣装が入らなくなっても僕は知りませんからね! 次にベルフェゴール! あなたは朝昼晩、しっかり布団から起きてご飯を三食食べること! それから僕が寝る時に僕の敷布団と掛け布団を完全に占領して奪い取らないこと! あとは、洗濯物を出すときはちゃんと裏返しを直してから洗濯カゴに入れること、それから、部屋の漫画を読んだら元の本棚の巻数の順番通りに綺麗に戻すこと、それからそれから――」
息継ぎすら忘れたような、オタク特有の恐ろしいほどの限界早口で、これまでの不満をマシンガンのように説教に変えて連射し始める拓巳。
「……」
だんだんと、ルシファーの額に青筋が浮かび、顔が怒りで引きつっていく。
隣のベルフェゴールにいたっては、早口の呪文をBGMに、すでにコックリコックリと船を漕ぎ始めていた。
「――を、徹底すること! あとは……ええと、それから……」
数十秒間喋り続け、さすがに拓巳が次の言葉に少しだけ詰まった、その一瞬の隙。
「――注文が多すぎだろコノ野郎っっっ!!!!!」
「ぶふぇっ!?」
ルシファーの、怒りの魔力が込められた綺麗なグーパンチが、拓巳の顔面のド真ん中にクリーンヒットした。
「あ痛ぁぁぁぁぁぁ!! 何するんですか暴力反対!!」
「うるさいわね! 折角こっちが可愛い態度で聞いてあげたのに、調子に乗るからよ!」
鼻を押さえてのたうち回る拓巳と、フレンチトーストみたいに真っ赤になって怒るルシファー。そして、その横で完全に眠りについたベルフェゴール。
結局、いつもの騒がしい日常へと引き戻されながら、三人の夜は更けていくのだった。




