『悪魔たちの湯治は、気持ちよすぎて溶けていく』前編
「最高だったわね、拓巳!」
「……うん。冷たくて、すっごく気持ちよかった……」
砂浜で一通り波と戯れた後、俺たちは名残惜しそうに海を後にした。
ルシファーは相変わらず潮風に髪をなびかせて上機嫌だし、ベルフェゴールにいたっては、初めての『冷たい海』の余韻に浸るように自分の小さな手のひらをじっと見つめている。
「喜んでもらえて何よりです。……ですが皆さん、今日の『本番』はここからですよ?」
俺はズレたメガネを指先でスチャッと上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「ん?」
「なによ、もったいぶっちゃって」
二人が小首を傾げる目の前に、俺はその巨大な建物をドーンと指し示した。
「バーン! 次に君たちを連れてきたかったのは、ここです!」
「なによここ? ……『マクハリの湯』……?」
ルシファーが建物の看板に書かれた漢字を器用に読み上げる。
「ズバリ、温泉施設です!」
「おん……せん……?」
二人は揃ってパチクリと目を丸くした。
「あれ? 魔界には温泉ってないんですか? ほら、すっごく大きいお風呂のことです」
「え? お風呂……?」
ルシファーは一瞬きょとんとしたが、はっと何かに気づいたように顔を強張らせ、俺をキッと睨みつけてきた。
「まさか……あんた、また何かエッチなことを企んでるんじゃないでしょうね!?」
「なわけないでしょうよ! どんな邪推の仕方をしてるんですか!」
秒でツッコミを入れる。俺は紳士だ。健全なオタク大学生だ。
「……お風呂なら……お家でも……毎日入れる……」
ベルフェゴールが抱き枕をぎゅっと抱きしめながら、眠そうに呟く。
俺は人差し指をチッチッチと左右に振ってみせた。
「ノンノンノン! ベルフェゴールくん、温泉というものは家のお風呂とはスケールも効能も大違いなんだよなぁ」
「ふん、お風呂なんて湯船にお湯が張ってあるだけでしょ。どこも同じよ」
フンスと鼻を鳴らすルシファー。
「くっくっく。そう言っていられるのも、今のうちですよ……?」
俺はニヤリと意味深な笑みを浮かべ、二人をフロントへと促した。
「うっひょおぉぉぉぉーーー!!! これはすごいわっ!!」
大浴場に足を踏み入れた瞬間、ルシファーの声が天井の高い空間に響き渡った。
「大きい……お風呂……海みたい……」
ベルフェゴールも、湯気の向こうに広がるいくつもの巨大な湯船を見上げて、珍しく圧倒されている。
「ちょうど砂まみれになって汗もかいてたから、これは嬉しいわね! 拓巳のやつ、意外と気が利くじゃないの!」
ルシファーは「極楽極楽」とばかりに嬉々として体を洗い始めた。
その横で、一足先にシャワーを浴び終えたベルフェゴールが、ルシファーの肩をちょんちょんと叩く。
「ルシファー……あそこ……!」
「ん? なあに? ――えっ!?」
ベルフェゴールが指差した先。それは、メインの広い浴槽の横で、ゴボゴボと激しい泡を立てて波打っている『ジェットバス』の湯船だった。
「あれは……まさか、魔界の第百五十層にあると言われている、あの伝説の……『溶岩風呂』……!?」
「人間の……世界にも……あった……」
ベルフェゴールがコクコクと深く頷く。
「そういえば、あんた魔界にいた頃、よくあそこに行って寝込んでたわよね」
「あそこは……泡がポコポコしてて……気持ちよく……寝てられるから……」
「あんな地獄の業火みたいなところ、普通の悪魔が入ったら一瞬で溶けて消えてなくなるのよ……。あんた、やっぱりどこかおかしいわ……」
ルシファーが引き気味に身震いする。
「ルシファー……早く洗って……。早くあの溶岩風呂に入ろう……」
「へ? あんた、もう体洗ったの?」
「……ぶい」
ベルフェゴールは水滴を滴らせながら、誇らしげにピースサインを決めてみせた。早い、早すぎる。
「私は髪を洗うのにもう少し時間がかかるから、先に入ってていいわよ」
「……ん」
トボトボと小さな足取りで、ジェットバスへと歩いていくベルフェゴール。
その後、ルシファーも念入りに全身を洗い終え、「さて、あの子はどうなったかしら」とジェットバスの様子を見に行くと――。
「ひぎゃあぁぁぁぁぁぁぁーーー!!!???」
ルシファーの絶叫が大浴場に木霊した。
そこには、激しくぶくぶくと泡立つジェットバスの水面に、まるで『ペラペラの紙』のようになったベルフェゴールが、力なくぷかぷかと浮いていたのだ。
「えええええ! だ、大丈夫!? ベルフェゴール、本当に溶けてない!? 原形留めてないわよそれ!?」
「……あ。ルシファー、やっときた……」
ペラペラ状態のまま、ベルフェゴールがパチリと目を薄く開けた。
「……ここ。……気持ち良すぎて、本当に溶ける……」
「ええっ!? やっぱりそんなに熱い過酷な溶岩なの!? そんな危険なもの、人間はどんな肌をして入ってるのよ!」
「……これ。溶岩じゃない……。熱くない……」
「え? じ、じゃあ……」
ルシファーは恐る恐る、隣のジェットバスの浴槽へと足を踏み入れた。
チャポン……。
「っ!?!?!? な、なにこれぇぇぇぇ……っ! 気持ち良すぎて……私も溶けていきそう……っ!」
お湯に浸かった瞬間、ルシファーの全身の力が一一気に抜け、彼女もまたベルフェゴールと同じように湯船で『ペラペラの紙』のようになって浮かび上がった。
「なによこの、まるで宙に浮いているかのような浮遊感は……! それに、背中にピンポイントで当たるこの水流が、凝り固まった体をほぐして、気持ち良すぎる……! 最高、最高だわ……!」
二人の上位悪魔は、完全に人間の文明の利器によって骨抜きにされていた。
しばらくジェットバスの泡に癒された二人は、次に屋外へと通じる扉を開け、露天風呂へと向かった。
「外にあるなんて、寒くないのかしら?」
「……急に、体……冷えてきた……」
ガチャリ、と重いガラス扉を開けて外に出る。
その瞬間、二人の目の前には、先ほどまで自分たちが遊んでいた広大な海が、夕暮れのグラデーションに染まりながら一面に広がっていた。
「……す、すごい! なんていい眺めなの……!」
ルシファーが思わず息を呑み、感動に目を輝かせる。
「いい景色……でも……」
「「寒いっっっ!!!」」
流石に秋の夕方の外気は冷たい。二人はガタガタと震えながら、目の前にある大きな岩造りの露天風呂へと同時に飛び込んだ。
バシャンッ!!!
温かい湯に全身を包まれた瞬間、二人はたちまち、この世のものとは思えないほどの恍惚の表情を浮かべた。
「はあぁぁぁぁ……なにここ、天界……? 私たち、ついに寿命を迎えて天に召されたのかしら……」
「……悪魔は……逆立ちしても天界にはいけない……」
「知ってるわよ、そんなのマジレスしないでよ! 例えよ、例え! でも本当に最高だわ……」
ルシファーは湯船の縁に頭を預け、うっとりと目を閉じる。
「ここ……。ふかふかのベッドの上よりも……何倍も気持ちいい……」
ベルフェゴールも首まで湯に浸かり、心地よさそうに小さく息を吐いた。
しばらくの間、二人はゆっくりと、茜色から紫へと移り変わっていく水平線を眺めながら、静かに露天風呂を楽しんでいた。
ふと、ルシファーが静かに口を開いた。
「ねえ、ベルフェゴール」
「……ん?」
ベルフェゴールが湯面から目を向ける。
「あんた……これから先、この人間の世界でどうしていく気なの?」
「……どうするって……拓巳のお家で……ずっと、いっぱい寝る……」
いつもの怠惰な回答。しかし、ルシファーの表情は少しだけ真面目だった。
「あんたはそうやってずっと寝てられるだろうけど……それじゃ、拓巳にずっと迷惑がかかるわよ。私たちは居候なんだから」
「……ん……」
ベルフェゴールはきゅっと唇を結び、お湯の中に顔を半分沈めて下を向いてしまった。
「……ルシファーだって……毎日、アイドルの動画、ずっと見てる……」
下を向いたまま、ベルフェゴールが小さな声で反論する。
「くっ……! それは、そうだけど……分かってるわよ……」
図星を突かれたルシファーが、気まずそうに視線を泳がせる。
「でも、この世界に転生てきても、私たちには大した目的もないじゃない。そりゃあ、拓巳のありえないほどの優しさに、甘えっぱなしなのは自覚してるわよ」
「……ずっと、このままじゃ……いられないよね……」
ポツリと、ベルフェゴールが寂しそうに呟いた。
下を向いたままのベルフェゴールを横目で見て、ルシファーは「はぁ……」と大きく息を吐き、自分の前髪をバシャバシャと水面で濡らした。
「やめやめ! 折角のいいお風呂なのに、こんな湿っぽい話はナシよ!」
「……でも、本当にこれから、どうするの……?」
「うーん……。あ、そうだわ!」
ルシファーが何かを思いついたように、ぽんと手を叩いた。
「なに……?」
「あとで、拓巳の『願い事』でも、何か一つ叶えてあげましょっか。いつもお世話になってるお礼にさ」
「……ん。拓巳の、お願い……。叶える……」
ベルフェゴールも、その提案には賛成のようで、湯船の中で小さくコクコクと頷くのだった




