『怠惰悪魔は初めての海に、傲慢悪魔は塩水に溺れる』
「チュン、チュン、チュン……」
窓の外から、朝の訪れを告げる小鳥たちの可憐な鳴き声が聞こえてくる。
カーテンの隙間から差し込む光は柔らかく、絶好の秋晴れを予感させた。そして何より、素晴らしいことに今日は大学の講義が一つもない完全なオフ。
(嗚呼、素晴らしい朝だ……。小鳥たちも俺の休日を祝福してくれているみたいだ。こんな最高の日には、隣町のちょっとオシャレな美味しいパン屋に足を伸ばして、焼きたてのクロワッサンでも食べながら、優雅に大好きなラノベの新刊を読みたいなぁ……)
俺――神代拓巳は、ベッドの中でそんな最高の現実逃避を思い描きながら、幸せな微睡みに身を委ねていた。
直後。
「キャァァァァァァァァァァッッッ!!! ゆめのん!!! さやっち!!! あいりーーーーんっ!!!」
隣の部屋(元・俺の部屋)から、地獄の底から響くような地鳴りじみた悲鳴と、壁をズンドコと揺らす大音量の重低音ミュージックが炸裂した。
「うるせえええええええええよ!!!!!」
俺は跳ね起きると、怒りのままに自分の部屋の扉をズパァン!!! と激しくぶち開けた。
「あ、拓巳! おはよー!」
そこには、俺のベッドの上にあぐらをかき、ペンライト(このあいだのアキバで買ったやつ)を両手に握りしめたルシファーがいた。
「なに普通に『おはよー』とか言ってるんですか! 今何時だと思ってるんですか!? 朝の七時ですよ! バカなんですか!?」
「なあに朝からキレ散らかしてんのよ〜、うるさいわね。いま『くりいむsoだ』の限界突破幕張ライブ映像を見てるんだから、邪魔しないでよね」
画面の中のアイドルに向かって「ゆめのん尊い……」と限界化している悪魔を、俺は般若の顔で見下ろした。
「うるさいのはあんたでしょうが!! 毎日毎日、狂ったようにアイドルの動画ばっかり見やがって!」
あの日、俺が秋葉原の地下アイドル劇場に連れて行ってからというもの、ルシファーは完全に『沼』に落ちていた。寝ても覚めてもアイドルの動画を漁り、今や部屋の主権は完全に彼女と画面の中の美少女たちに握られている。
「仕方ないでしょ!? 人間のアイドルって本当に可愛くて、まるでお人形さんみたいなんだから! なのにお人形さんみたいなのに、歌や踊りは魂が震えるほど力強くて素晴らしいのよ! ギャップ萌えよ、ギャップ萌え!」
「……何が仕方ないだ! この居候ニートめ!!」
俺たちが朝から全力で口論を展開していると、背後からずるずると足を引きずる音が聞こえた。
「……ちょっと……うるさいよ……二人とも……」
目をこすりながら、眠気でフラフラのベルフェゴールが俺の背中からひょっこりと顔を出した。勝手に取られている僕の等身大美少女枕を器用に脇に抱えている。
「「いや、あんたは寝すぎっ!!!」」
俺とルシファーのツッコミが見事にハモった。
こうして、俺の優雅でラノベちっくな(予定だった)朝は、悪魔たちの手によって無惨にも粉砕されたのだった。
「……ですからね? 朝から晩まで大音量で叫ぶの、本当にやめてくださいよ。近所迷惑で引っ越す羽目になりますから」
ダイニングテーブルでトーストを齧りながら、俺はぐちぐちと説教を続ける。
「良いでしょ別に、ケチケチしないでよ」
ルシファーは口いっぱいにご飯を含んだまま、もぐもぐと喋る。行儀が悪い。
「それとも拓巳、あなたはこの世界に来て右も左もわからない、幼気で可憐な悪魔を見殺しにする気?」
「アンタはずっと部屋でポテチ食いながらアイドルの動画見てるだけでしょうが! どこが幼気だ!」
「しょうがないじゃない、拓巳が全然あの劇場に連れて行ってくれないんだから。現場に行けない在宅オタクの気持ちがあなたに分かる!?」
「はあ……。これならベルフェゴールみたいに、一日中ずっと寝ててくれた方がマシですよ……」
俺がガックリと肩を落とすと、隣の席でスープに顔を突っ込みそうになりながらウトウトしていたベルフェゴールが、ハッと目を覚ました。
「……ぶい」
口いっぱいに白米を頬張ったまま、なぜかカメラ目線でドヤ顔のピースサインを決めてくるベルフェゴール。
「あんたは逆に寝すぎなのよ! 少しは動きなさいよ!」
「だって……眠い……から……」
ベルフェゴールのマイペースっぷりにルシファーが声を荒げる。俺はふと気になって、ベルフェゴールに尋ねた。
「ベルフェゴールは、睡眠以外に何か好きなことってないんですか?」
「……ない」
即答だった。清々しいほどの怠惰である。
「この子は魔界でもずっとこうだったからね。寝る、食べる、寝る、のループよ」
「うーん、まあ、暴れられるよりは寝ててくれた方が手はかからないんですけどね……」
「じゃあさ! ベルフェゴールにもアイドルの良さを布教するために今日の午後からアイドルの劇場に――」
「それはルシファーが行きたいだけでしょ!!」
すかさずツッコミを入れると、ベルフェゴールがトーストの耳をモグモグしながらぽつりと呟いた。
「アイドル……ルシファーがいつも流してるから……聞いてる。嫌いじゃないけど……ハマってはない……」
「な、なんですってぇ!? あの良さがわからないなんて……まったく、これだから怠惰の悪魔は……!」
大真面目にため息をつくルシファーに、俺は白目を向けた。
「ルシファーが異常なだけです。……あ、そうだ。ベルフェゴール、じゃあちょっと外を歩いてみません? 天気も良いですし」
「眠いから……パス……」
「ですよね〜」
まあ、そう言うと思った。大人しく家で寝かせておくか、と思ったその時。
「……でも……拓巳と一緒なら……少しだけ……」
ベルフェゴールが、俯きながら俺のシャツの裾をきゅっと掴んだ。
「「えっ……!?」」
俺とルシファーの声が綺麗に重なる。まさか外出の誘いに応じるなんて、天変地異の前触れか。
そうして、初めて『起きた状態』で人間の世界の外に出ることになったベルフェゴールを連れ、俺たちは家を出た。
「ねえ拓巳、今日はどこに連れて行ってくれるのかしら? 『くりいむsoだ』のショップ?」
「なんで……ルシファーも……いるの……。拓巳と二人がよかった……」
俺の右側で目を輝かせるルシファーと、左側でトボトボ歩きながら不満げなベルフェゴール。
「別に良いじゃない! 私の方が人間の世界のことは先輩なんだから!」
「あなた、アイドルとジャンクフードしか知らないですけどね。……ええと、僕の住んでいるこの町は、実は海が近くてですね。少し海でも見に行きましょうか」
「うみ……!」
ベルフェゴールが、今日一番の力強い声で呟いた。少しだけ目がぱっちり開いている。
「魔界にも海ってあるんですか?」
「あるわよ。ただ、熱すぎて普通の悪魔は近づかないけどね」
「……ん? 熱い?」
俺は歩きながら、その聞き覚えのない不穏な表現に思わず聞き返した。
「え? 海って、ぐつぐつしてて熱いものでしょう?」
「そう……海は……赤くて、どろどろで……ぐつぐつ……」
ベルフェゴールが小さな手で身振り手振りを加える。
「ん? んんんー……? それ、地球では『マグマ』って言うんですよ……」
魔界の過酷な環境に戦慄していると、次第に風が強くなり、どこか懐かしい、独特な香りが鼻腔をくすぐった。
「なによこの匂い……。なんだか風も強いし、肌がベタつくわね」
「海が近くにあるので、潮の香りが漂ってきてるんですよ。ほら、あそこ! 見えてきましたよ!」
俺が前方を指差すと、視界が一気に開けた。
視界の奥一面に広がっていたのは、昼下がりの太陽の光を浴びて、ダイヤモンドを撒き散らしたかのようにキラキラと輝く、どこまでも青い水平線。
「うわぁぁぁぁ……!!!」
ルシファーがその壮大な景色に思わず声を上げた。
「……すごい……」
ベルフェゴールも、歩みを止めて、ぽかんと口を開けたまま青い海を見つめている。
そんな二人の様子に俺が満足げな笑みを浮かべていると、ルシファーが「何してるの! はやく行くわよ!」と、砂浜に向かって一目散に駆け出していった。
「はやく……拓巳……」
ベルフェゴールも、珍しく急かすように俺の袖をぐいぐいと引っ張る。
「う、うん、行こう!」
平日の昼間、おまけに少し肌寒い時期ということもあって、砂浜にはほとんど人がおらず、貸し切り状態だった。
「さいっこうね、ここ! 砂がサラサラしてて気持ちいいわ!」
先頭を走っていったルシファーが、水際でスカートを抑えながらはしゃいでいる。
「……私の知ってる『うみ』じゃない……。赤くないし……煙も出てない……」
ベルフェゴールは波打ち際に立ち、押し寄せては引いていく透明な波を不思議そうに見つめていた。
「これが人間の世界にある海ですよ。ほら、せっかくだからその水、触ってみてください」
「うん……」
言われた通り、ベルフェゴールは恐る恐る小さな手を伸ばし、優しく流れてくる波に触れた。
「……っ!?」
次の瞬間、ベルフェゴールがビクッと体を震わせ、言葉にならないような驚愕の表情を浮かべた。
「……つめたい……っ!?」
「そうなんですよ。マグマじゃないですから」
「すごい……冷たくて……気持ちいい……」
ベルフェゴールは、生まれて初めて触れる『冷たい水面』の感触に、心底感動したように何度もパシャパシャと水を弄んでいる。その顔には、いつもの眠気は一切なく、少女らしい純粋な笑顔が咲いていた。
「ちょっと! すごいわねこの海! こんなに大量に水があるなら、これでもう飲み物には一生困らないじゃない!」
興奮したルシファーが、何を思ったか両手で器を作って、海水をすくい上げた。
「あ、おいっ!!」
俺が叫んで止めようとしたが、悪魔の行動力の方が一歩早かった。ルシファーは躊躇なく、その水を口に含む。
「――ぶーーーーーーーーーーっっっ!!!!!」
ルシファーは盛大に海水を噴射した。
「なによこれぇぇぇぇぇ!!! めちゃくちゃしょっぱいじゃないのよぉぉぉ!!!」
ペッペッと舌を出しながら、涙目で口の周りを拭うルシファー。
「だから海ですからね! 塩水なんですよ!」
「最悪だわ! こんなに綺麗なのに、罠だなんて……これじゃ飲めないじゃないのよぅ……」
トボトボと砂浜に座り込み、悲しそうに愚痴をこぼすルシファー。その様子がおかしくて、俺は思わず吹き出してしまった。
「……拓巳」
ふと、隣から袖を引かれる。見上げると、ベルフェゴールがじっと俺の目を見つめていた。
「ん? どうしました、ベルフェゴール?」
「……また、今度も……海、連れてって……?」
少しだけ上目遣いに、恥ずかしそうに、でも真っ直ぐにそうおねだりしてくる怠惰の悪魔。
その破壊力抜群の可愛さに、俺の心臓は一瞬で撃ち抜かれた。
俺は満面の笑みを浮かべ、彼女の頭を優しくポンと叩いた。
「――はい! もちろん、またいつでも連れてきますよ!」
隣で「口の中がまだ塩辛いわよぉ!」と騒ぐルシファーの声をBGMに、俺たちの静かで賑やかな休日は、穏やかに過ぎていくのだった




