『天使!?堕天!?僕の日常がぁ!』
「な、な……なんですか、これ……」
冷や汗が背中を突き抜け、僕は引きつった声をなんとか絞り出す。
それに合わせるように、首元に当てられた鋭利な刃と思われる冷たい感触が、じわりと皮膚に食い込んできた。
「王子様ッ!」
運賃箱の上にいたレヴィアタンが、子猫の姿のまま今にも襲いかからんばかりの勢いで身構える。
「おおっと! 下手に動かない方がいいわよ? この人間がどうなってもいいのかな?」
僕の後ろから響く、冷徹で愉悦に満ちた声。
それを言われ、レヴィアタンはピタリと動きを止めた。牙を剥いたまま、手出しができずに全身を震わせる。
車内に落ちる、息のつまるような膠着の時間。
そのまま30秒ほどが経っただろうか。
――ドッ!
「うおっ!?」
いきなり背中に衝撃を受け、僕は前方に勢いよく蹴り飛ばされた。フラフラと前のめりに倒れ込む。
「王子様っ!」
一瞬で元の華奢な美少女の姿に戻ったレヴィアタンが、滑り込むようにして倒れてくる僕を受け止めてくれた。
それと同時に――ズバァァァンッッ!!!
信じられないような断空音が響き、僕たちと襲撃者の間を遮るように、乗っていたバスがまるで紙のように真っ二つに叩き斬られ、爆風とともに左右へ裂けて割れた。
「うわぁぁぁぁっ!?」
いきなりの崩壊に、僕はレヴィアタンに必死に抱きつきながら叫ぶ。
「あっ……お、王子様……っ!」
こんな絶体絶命の状況だというのに、抱きつかれたレヴィアタンは顔をポッと赤らめて僕を力強く抱きしめ返してきた。
なんとか体制を立て直し、立ち上がった僕は割れたバスの切れ目から後ろを振り返る。
そこに立っていたのは、神聖な白い服を身に纏い、背中から神々しく輝く真っ白な羽を生やした、美しくも冷酷な瞳をした金髪ロングの美女だった。
そして、半分にへし折れたバスの残骸と舞い散る土煙の中――。
立ち上がるその金髪の美女を、殺意を隠そうともせずに鋭い眼光で睨みつけているサタンの姿があった。
「あらあ? 悪魔の『憤怒』自らが現れるなんて意外ね!」
金髪の女はわざとらしく驚いて見せ、クスリと口元を歪める。
「それはこっちのセリフだわ。まさか気取った天使様が、こんな下界にまで落ちて現れるなんてね〜」
サタンが不機嫌そうに吐き捨てる。
「サ、サタン……? この人は、知り合いなんですか……?」
僕が尋ねると、サタンは視線を前に向けたまま答えた。
「知り合い? そんな生ぬるいものじゃないわ。あいつらは『天使』……私たち悪魔とは対極に生きる、気取り屋の不愉快な連中よ。……というか! なんで私を置いて先に家を出ていくのよ〜! レヴィアタン、拓巳から今すぐ離れなさいっ!」
「ダメです! 王子様がまだ危険です!」
「あんたから先にブチ殺さなきゃダメみたいね!」
サタンは怒り狂い、右手を鋭利な刀へと変形させてレヴィアタンに向けた。
「ちょ、ちょっとサタン! 今はそんなことしてる場合じゃ――」
僕の言葉と同時に、カアアアンッ!! と甲高い金属音が鼓膜を突いた。
僕たちが話している最中であるにもかかわらず、サタンの後ろにいた金髪の天使が、手にしたナイフのような武器を閃かせ、無慈悲にサタンの首元へ襲いかかっていたのだ。
サタンは振り向きざま、手に作った刀でギリギリその刃を受け止める。
「随分と余裕そうね。それとも、野蛮な悪魔は相手が誰であろうと構わず暴れたいだけかしら?」
聖剣をググッと押し込みながら、金髪の天使が冷たく微笑む。
「うるさいわね! あんたなんかより拓巳の安全の方が百倍大事なのよ!」
サタンが力任せに刀を振り払い、天使の身体を強引に弾き飛ばした。
それに合わせて、金髪の天使は軽やかに後方へと滞空し、白い羽を優雅に羽ばたかせる。
「ふふふ。本当はもっとこの下等な悪魔どもと遊びたいけれど、今日のところは引き上げてあげるわ」
「ちょっ! 逃げる気!? 待ちなさい!」
サタンが地を蹴って追いかけようとした瞬間、彼女の足元に数本の真っ白な羽が矢のように突き刺さり、その足を止めた。
「安心しなさい、もう少ししたらあんたたち悪魔も全員まとめて滅してあげるから。今日はほんの挨拶代わりよ。――そこの人間」
金髪の天使が、冷徹な青い瞳で僕をまっすぐに見下ろす。
「え? 僕ですか……?」
「そうよ。次はあなたもしっかり滅してあげるわ。人間の身でありながら悪魔と深入りし、その存在を容認している罪……完全に『天界法』に抵触しているもの。あなたたち悪魔と、そこの人間。……そして、あの忌々しい裏切り者――ルシファー。六大天使が1人、ガブリエルの名において……近いうちに審判を下すわ」
そう言い残すと、ガブリエルと名乗った天使は翼を力強く羽ばたかせ、一瞬にして空高くへと飛翔し、雲の彼方へと消え去っていった。
ガブリエルの姿が完全に目に見えなくなると、サタンが急速に武装を解除し、ハッとしてこちらに振り返って走ってきた。
「大丈夫!? 拓巳っ!」
ドスッ! と胸に飛び込んできて、僕の身体を強く抱きしめるサタン。
「うわっ! ちょ、サタン……!?」
「ちょっと! 王子様から離れてください!」
レヴィアタンも横から嫉妬を露わにしてサタンを引き剥がそうとする。
だが、サタンは僕の服に顔を埋めたまま――。
「拓巳! 拓巳……っ! ……拓巳ぃぃぃ〜〜っ!!」
急に子供のように大声をあげて泣き始めてしまった。
「え? え? ちょっと!? サタン!?」
「心配したのよぉぉ! あなたに何かあったらどうしようって……うわぁぁぁん!」
ボロボロと大粒の涙を流して叫ぶサタンに、僕は面食らいながらもその背中をそっと撫でた。
「大丈夫ですから! 傷一つありませんよ、安心してください」
「……うん。よかった……無事で、本当によかった……」
サタンはぐっと涙を拭うと、今度は冷ややかな涙目で横にいるレヴィアタンを静かに睨みつけた。
「……あんた。なんで拓巳をこんな危険に晒したの?」
底の底から響くような、低い低音の声。
「……ッ! ……ごめんなさい」
レヴィアタンは言い返すこともできず、唇を噛み締めてうつむいた。
「……あんたには、拓巳を守る資格も能力もないわ。二度と勝手な真似をして拓巳を連れ出さないで」
「ちょっと、サタン……そこまで言わなくても――」
「いいえ……。サタンの言う通りです、王子様……っ!」
レヴィアタンは溢れ出そうになる涙を必死にこらえながら、僕をまっすぐに見つめた。
「私、修行してきます! 今度は……今度こそ、何が起きても王子様を絶対に守れるくらい強くなって戻ってきますから……っ!」
叫ぶなり、レヴィアタンは一目散に走り出し、道路の向こうへと去っていってしまった。
「えっ!? ええっ!? ちょっと待って! レヴィアタン!?」
僕の声も届かず、レヴィアタンは一度も振り返ることなく遠くへと消えてしまったのだった。
こうして僕たちは、『ガブリエル』と名乗る天使の突然の襲撃を受けることになったのだった。
その日の夜。
「……で? あんたはまんまと言い訳をして、ガブリエルを取り逃したってわけ?」
リビングのパイプ椅子の上で偉そうにあぐらをかき、腕を組んだルシファーが冷ややかに言い放つ。
「しょうがないでしょ! だいたいあんたが朝から挑発するようなことばかり言うから、私が拓巳にしっかりついて行けなかったんじゃないの!」
「はあ? あんたが朝からくだらない理由で突っかかってきたからでしょうが!」
「ちょっと二人とも! 今はそんな不毛な喧嘩をしてる場合じゃ――」
僕がなだめようとした、まさにその時。
――バンッ!!!
白米が山盛りに盛られたお茶碗が、壊れんばかりの勢いでテーブルの上に叩きつけられた。
それを置いたのは、完璧なまでの満面の笑みを浮かべたアスモデウスだった。
その「笑顔(圧力)」を一目見た瞬間、ルシファーもサタンもぴたりと口を閉ざして冷や汗を流す。
「……みんな無事だったんだし、今はせっかくの夕飯の時間なんだから、不仲な喧嘩はおよしなさい?」
「……わかったわよ」
「ふんっ!」
ようやく静かになった食卓で、マモンがお味噌汁を啜りながら静かに口を開いた。
「天使……。おそらくわたくしたち悪魔がこの人間界に留まっていること……。そして拓巳さんがわたくしたちと深く関わっていること……。それと何より、ルシファー、あなたの存在が原因ですわね」
「厄介ねえ。今回ばかりは冗談抜きで、拓巳さんの身が本当に危険だわ」
アスモデウスがいつになく真剣な表情で溜息をつく。
「そ、そんなにヤバいんですか……?」
「……天使……しかも最高幹部の『六大天使』……危険度は計り知れない……」
クッションを抱いたベルフェゴールがボソリと呟く。すると、お肉を頬張っていたベルゼブブが妙案と思いついたように口を開いた。
「でもさ、天使の狙いの1番はルシファーなんだろ? だったらルシファーだけあいつらに差し出せば、俺たちは無罪放免でなんとかなるんじゃね?」
「ぐっ……!」
図星を突かれ、ルシファーが絶句する。
「そうね〜! その堕天使サマを大人しく天界に差し出せば一件落着ね!」
サタンがここぞとばかりにニヤニヤと乗っかる。
「くぐぐ……っ!」
「ちょ、ちょっと待ってください! なんでルシファーが一番悪いことになってるんですか? ルシファーは一体何をしたんですか?」
混乱する僕に、アスモデウスがどこか哀しげな目を向けた。
「あら、拓巳さんはまだ聞いていなかったのかしら? それはね――」
「……いいわ、私が自分の口から説明する」
アスモデウスの言葉を遮り、ルシファーが静かに立ち上がった。
いつもの傲慢な態度は消え、どこか遠くを見るような瞳で僕を見つめる。
「簡単に説明するとね……。私はここにいる他の悪魔たちとは違って、元々はあいつらと同じ『天界の天使』だったのよ」
「ええええええっ!? ルシファーが天使!?」
僕が素で叫び声を上げる中、ルシファーは自虐的にフッと口元を緩めた。
「『堕天』……。神に背き、天使の地位を捨てて悪魔へと堕ちること。それが私の背負う最大の罪。天界法で言えば、この世で最も重い絶対死罪に値する罪なのよ」
こうして、ルシファーの衝撃的な過去と告白を聞くことになった僕。
堕天とは一体何なのか。そして、僕たちの前に立ちはだかる天界の刺客『天使』とは――。
レヴィアタンが修行に出てしまい、最大の危機が迫る中、僕たちの波乱に満ちた日常はどうなってしまうのだろうか。




