『決着!?怠惰と憤怒』
「さいっこうよ……❤」
サタンは恍惚とした表情で低く呟くと、口元から流れる鮮血を手の甲で無造作に拭い去った。そして、すっと頭を下に向ける。
完全に静まり返る戦場。彼女から放たれる、これまでとは明らかに質の違う「本物の狂気」のプレッシャーに、さすがのベルフェゴールも額から一筋の冷や汗を垂らした。
サタンは下を向いたまま、両手を左右に勢いよく振る。
――その瞬間、彼女の両腕が肉体をドロリと変形させ、一瞬にして禍々しい「漆黒のチェーンソー」へと姿を変えた。
――ブゥゥゥゥゥン……!! ブン……! ブン……!
空気を震わせる凶悪なエンジン音が草原に鳴り響く。
それに呼応するように、先ほどまで先端だけ黒くなっていた彼女の白い長髪が、徐々に根元に向かって暗く染まり始めていく。そして、長い髪の半分ほどが漆黒に染まったその時、サタンはバッ! と乱暴に顔を上げた。
裂けんばかりに吊り上がった口元。その額には何本もの青筋が浮き出、まるで生き物のようにピクピクと脈打っている。
「――っ!?」
ベルフェゴールが初めて、驚愕に目を見開いた。
――ブンッ!!!
一瞬。文字通り一瞬にして距離を詰めたサタンが、ベルフェゴールの頭上から、激しく回転する両腕のチェーンソーを全力で振り下ろした。
本能的に反応したベルフェゴールが、両手を上にかざしてギリギリのところで魔法障壁を展開する。
――ギリギリギリギリギリッ!!!
火花を散らし、半透明の障壁を削り取るように回転し続ける漆黒の刃。
「あらあ? 得意の『怠惰』の魔法も、発動する前に切り刻まれちゃいそうだから使えないのかなあ? 弱ったわねえ、ベルフェゴール!」
「……は、や……すぎる……っ!」
ベルフェゴールがこれまでにないほど苦しそうな声を漏らす。サタンの速度が、彼女の脳の認識速度を完全に上回り始めているのだ。
そうしている間にも、激しい駆動音と共に、チェーンソーは少しずつ魔法障壁を食い破っていく。
「な、なんですかあのサタンの髪色……! 半分黒くなって、魔力がとんでもないことになってますけど!」
「あいつ、本当に理性をなくしてブチギレた時だけ、髪が黒くなるのよ。それに合わせて、あいつの『憤怒』の魔力も上限なしで無限に上がり続けるわ。……こうなったら、私でも止めるのは骨が折れるのよね」
ルシファーが珍しく嫌そうな顔で腕を組む。
「そ、それじゃあ……ベルフェゴールは……」
「もうジリ貧ね。時間の問題よ」
――ブォン! ブンブンブンッ!!
サタンの腕からエンジン音がさらに猛々しく鳴り響く。
――ガリガリガリガリ……パリーンッ!!!
ついに限界を迎えた魔法障壁が、激しい音を立てて完全に粉砕された。そして、その破壊の勢いのまま、サタンの凶刃がベルフェゴールの身体へと振り下ろされる。
――バァンッッ!!!
まるで爆発が起きたかのように、激しい土煙と砂煙が周囲に勢いよく舞い上がった。
煙の中から、なおも不気味に響き渡るチェーンソーの駆動音。それを切り裂くようにして、サタンが満足げに砂煙の向こうから姿を現した。
誰もが直撃を確信した、その瞬間。
「……ふう……危なかった……」
サタンのすぐ後ろ――いつの間にか、そこにベルフェゴールが何事もなかったかのように佇んでいた。
「チッ……。ちょこまかと、本当に鬱陶しい野郎ね……!」
サタンが苛立たしげに振り返る。
「で、出た! ベルフェゴールのリミッター外し(今からやる気出す)だ!」
「私を一度は戦闘不能にしたその超スピードで、一気にやっちゃいなさいベルフェゴール!」
僕が叫ぶと、完全復活したエヴァさんもマイクを握りしめて観客席から大声で応援する。
サタンとベルフェゴールは無言のまま、再びお互いに正面から向き直った。
そして――次の瞬間、二人の姿が完全に消失した。
人間の目では到底捉えきれない、空間そのものを置き去りにした超高速の戦闘。サタンの両腕からは絶え間なく凶悪な駆動音が鳴り響き、ベルフェゴールは紙一重のところでその刃を避けながら、戦場を縦横無尽に駆け抜ける。
「お互いに拮抗してますね……。いや、何も見えませんけど……!」
「そんなことないわよ〜、拓巳さん。よーく見てごらんなさい、サタンちゃんの方が少しずつ、確実に速度を上げているわ」
アスモデウスが鋭い目で戦況を見据える。
「そうね。悔しいけれど、あのアホストーカーの方がやっぱり純粋な近接戦闘力は上ね。ベルフェゴールが完全に押し込まれてるわ」
ルシファーの言葉通り、超高速の世界の中、サタンのチェーンソーが狂気的な密度で空間を埋め尽くしていく。
「さっさと細切れになって死になさいッ!!」
ベルフェゴールも超人的な反応でそれらを回避し続けてはいるものの、防戦一方で完全に攻撃の手を封じられていた。
そして、突如として異変が起こった。
その超高速の死闘の最中、ベルフェゴールが――コクリ、と一瞬だけ、本当に不自然に首を下に動かしたのだ。すぐにハッとしたように顔を上げ、サタンの動きに合わせようとしたベルフェゴールだったが、その刹那の隙は、このレベルの戦いにおいては致命的すぎた。
――ガガガガガガッ!!!
「ぐっ……!」
サタンの漆黒のチェーンソーが、ついにベルフェゴールの腹部を容赦なく捉えた。激しい火花が散り、そのままサタンが強烈な力で腕を振り抜く。
衝撃に耐えかね、ベルフェゴールの小さな身体が弾丸のように勢いよく吹き飛んでいき、草原の地面を激しく転がって激突した。
「ふうん。当たる直前、ギリギリで刃に『怠惰』の魔法をかけて、チェーンソーの運動エネルギーを殺したのね。じゃなきゃ今ので真っ二つだったわよ? ……でも、もう身体が限界そうね?」
ボロボロになって倒れたベルフェゴールの前に着地し、サタンが冷酷に見下ろす。
「ぐ……っ……」
なんとか立ち上がろうと、細い腕で地面を押すベルフェゴール。しかし。
――コクン。
またしても、彼女の首がガクリと下へと落ちた。
「ベルフェゴール……? どうしたんだ……?」
「限界ね。今日だけで2回も『怠惰』のリミッターを外しすぎたのよ。あの子の身体にかかっている反動の眠気が、もう尋常じゃないのよ」
ルシファーが呆れたように言う。
戦場では、ベルフェゴールがコクン……、コクン……と、何度も船を漕ぐように頭を下げては上げるのを繰り返していたが、ついに立ち上がるだけの気力すら底を突いたのか、そのまま地面に突っ伏して、ピクリとも動かなくなってしまった。
それを確認すると、サタンの髪色が、スウッといつもの綺麗な真っ白へと戻っていく。
彼女はいつの間にか両腕をチェーンソーから普通の手へと戻しており、機嫌良さそうに手を振りながら、観客席の僕へと向かって駆けてきた。
「拓巳〜❤ 終わったわよ〜! 私の勝ちね!」
「さ、サタンの勝ち……でいいのかな」
「だな。ベルフェゴールの負けだ。完全に寝てやがる」
蓮華さんがぶっきらぼうにそう言ったのを聞き、エヴァさんがようやくマイクを構えた。
「け、決勝進出、勝者! サタ――」
――その瞬間だった。
笑顔で僕に手を振っていたサタンの右脇腹に、突如として、何かが凄まじい質量で抉るように突き刺さった。
「ばほっ!?」
サタンはマヌケな悲鳴を上げながら、真横に向かってラグビーボールのように激しく吹っ飛んでいく。
「……え?」
僕を含め、その場にいた全員の思考が完全にフリーズした。
今、サタンがいたはずの場所。そこには――完全に目を閉じて熟睡したまま、右の拳を真っ直ぐ突き出しているベルフェゴールが、一本足でふらふらと立っていた。
「あ、あれ……? ベルフェゴール、起きてる……のか?」
「いや、これって……」
「ね、寝相だわ……」
あのアスモデウスすら、完全に呆気にとられた表情で呟く。
ベルフェゴールは、
「すぴー……。すぴー……」
と、信じられないことに鼻提灯を大きく膨らませながら、完全に「立ち寝」をキメていた。つまり、今の一撃はただの超強力な『寝返り(寝相)』である。
一方、完全に不意を突かれて数十メートル先へ吹き飛ばされたサタンは、草原の上で大の字になって倒れており、その頭上にはピヨピヨと幻の星が回っていた。完全な脳震盪によるノックダウンだ。
「こ、これって……どっちの勝ちになるんですかね……?」
エヴァさんが完全に困り果てた顔で、マイクを持ったまま僕たちを振り返る。
「おいおい……なんだこりゃ。……あーあ。なんだか急に、もの凄く面倒くさくなってきたわ。もうこの大会、ここで終わりにすっか〜」
蓮華さんが半眼で、心底どうでもよさそうに天を仰ぎながら呟いた。
「ちょっと待ちなさいよ! 決勝はどうするのよ! 私の出番は!?」
ルシファーがスマホをポケットに放り込み、ガタッと立ち上がって抗議する。
「あー? お前が不戦勝で優勝でいいよ、もう。めんどくせえ」
「な、なによそれ! ちょっとーーっ! 納得いかないんだけど!」
ルシファーが理不尽な幕引きに憤慨していると、その隣でマモンが優雅に腰を上げた。
「では、わたくしはこれにて人間界の滞在先へ帰らせてもらいますわ」
「え? 帰るって、マモンさんどこに?」
「そりゃあもちろん、拓巳さんのご自宅ですわよ」
「はあ!? ちょっと待ってください! ここ数日は確かに成り行きで住まわせてましたけど、もう大会終わったんだから自分の家に帰ってくださいよ!」
「嫌ですわ! 拓巳さんの周りからはもの凄く上質な『金の匂い』がしますもの! 居座るに決まっていますわ!」
「目が完全に金の亡者に戻ってる……。はあ、僕の静かで優雅なオタク生活が、またしても遠のいていく……」
僕が絶望の溜息をついていると、アスモデウスがくすくすと嬉しそうに微笑んだ。
「あらあら。じゃあ、今日もみんなで賑やかな夕食になるわね〜。帰ったらすぐに、たくさん準備をしなくっちゃ」
「えっ!? アスモデウスお姉様、私も微力ながらお手伝いにお供します!」
なぜかエヴァさんが大喜びでお手伝いを志願する。
「俺もめちゃくちゃ腹減ったぞ〜……。美味いもん食いに、早く拓巳の家に帰ろーぜ〜」
ベルゼブブもすでにお土産のポテチの袋をまとめ、帰る準備を始めている。
「はあ……。僕も精神的に限界まで疲れたから、早く帰ってコタツで寝よ……」
「お、王子様と……今日こそ一緒の布団で眠るだなんて……! 私、心の準備が……っ!」
レヴィアタンが一人で顔を真っ赤にしてモジモジしているが、僕はもうツッコミを入れる気力すら残っていなかった。
「ちょっと!! なんであんたたち、全員当たり前のように帰る準備をしてるのよ! 私の優勝は!? 景品の授与はどこにいったのよ!!」
ルシファーの必死の抗議を余所に、蓮華さんは、
「勝手にしろ。私はもう帰って酒飲むわ」
と言い残し、ポケットに手を突っ込んでさっさと一人で歩き去っていった。
「じゃあ、僕たちも行きましょうか。サタンとベルフェゴールも拾って帰らないとだし」
「そうね。今日のメニューは何にしましょうかしら〜」
僕を先頭に、悪魔たちがゾロゾロと広大な草原を後にし始める。
「ちょっとおおおぉぉぉーーーっ!! なんなのよこれぇぇぇーーー!!」
夕暮れに染まり始めた草原に、ルシファーの理不尽極まりない絶叫だけが、いつまでも虚しく響き渡るのだった。
こうして、『転移悪魔最強決定戦』は、ルシファーの不条理な不戦勝(優勝)という形で、なし崩し的に幕を閉じたのであった。
魔界の悪魔たちとの騒がしい日常は、まだまだ続いていく――!




