『高貴な悪魔は小さくならない』
「ん? これ美味しいわね! なんて言うのよ?」
翌朝。ダイニングテーブルの椅子にふんぞり返ったルシファーが、口いっぱいに食べ物を頬張りながら聞いてきた。
「それは『味噌汁』と言って、日本の伝統的なスープです」
「へえ……。じゃあ、こっちのネバネバしたやつは? 見た目も臭いも完全に悪魔的だけど……ん、味は悪魔的においしいわね!」
「それは『納豆』と言って、これまた日本の……。あのー、ルシファーさん? それ、僕の分の朝ごはんまで食べてるんですが」
俺がジト目で指摘すると、ルシファーは箸を持ったままパチクリと目を瞬かせた。
「え? これ全部、私の朝食じゃないの? その割には随分と量が少ないと思ったけれど……」
「いや、そっちのお盆は僕のなんです! というか、居候の身で『少ない』ってどの立場で言ってるんですか!」
朝の七時半から、我が家には俺のツッコミが大音量で響き渡る。
「えー。魔界にいた頃は、朝起きたらお抱えの料理人が最高級の魔獣の肉を準備してくれてたし、もっと豪華だったわよ?」
「質素で申し訳ございませんねえ! って、ここはあなたの城じゃないですからね! 普通の日本の一般家庭ですから!」
「あー! もう、うるさいわね朝から! 拓巳のツッコミって声が響くのよ!」
「全部あなたのせいでしょうが!」
朝からエネルギーを使い果たしてハァハァと息を切らす俺を、ルシファーは完全に無視して、椅子にもたれかかりながら退屈そうに髪を弄り始めた。
「ねえ拓巳、なにか果物はないの? メロンとか、魔界の完熟マンゴーみたいなやつ」
「ありませんっ!」
ピシャリと言い放ちつつも、俺の視線はルシファーの体に釘付けになっていた。
(う、うわ……。ルシファーの体のライン、エロすぎでは……?)
俺は内心、すけべ心でいっぱいになってゴクリと生唾を飲み込む。
ルシファーは現在、昨日現れた時のフリル付きのゴスロリ服ではなく、俺の親の部屋のタンスから発掘してきた『シースルーのパジャマ』を着用していた。薄手の生地越しに、彼女の白くしなやかな肌の輪郭がうっすらと透けて見えている。
「なによ。変なこと考えてないでしょうね?」
俺の熱い視線に気づいたルシファーが、ジト目で睨みつけてくる。
「いやいや、断じて! ルシファーにそのパジャマは悪魔的だなんて……これっぽっちも思っていませんよ!?」
「はあ……。あんた、本当に分かりやすいスケベね。まあいいわ、この寝巻き、軽くて可愛くて素敵だもの。しばらく寝るときはこれ借りるわね」
「それはいいですけど……。というか、今日からどうするんですか?」
俺が人差し指でメガネをクイッと直しながら本題に入る。
「どうするって、なにがよ?」
「これからどう生活していくんですかって聞いてるんですよ。僕はこれから大学の講義があるので、そろそろ家を出ますけど」
「うーん、そうね……。じゃあ、その『だいがく』ってところに、私も連れて行ってくれないかしら?」
「はあ!? あんた、ここの学生じゃないんだからダメに決まってるでしょ!」
「えー、いいじゃない。この世界のことをもっと知りたいし……。ダメ……?」
ルシファーが少し顔を傾け、潤んだ瞳で上目遣いに俺を見つめてくる。
普段が傲慢なツンデレ美少女なだけに、不意打ちの「おねだりモード」の破壊力は凄まじい。
(うっ……! この顔をされると、オタクの防衛本能が……!)
激しい精神的葛藤の末、俺は盛大なため息と共になびいた。
「はあ……分かりましたよ。あなたをこの家に一人で置いておくのも、それはそれで怖いですからね。ですが! 外では絶対に僕の言うことを聞いてくださいよ!」
「やったあ! うん、聞く聞く!」
かるーい返事で、ルシファーは嬉しそうにその場でくるりと一回転した。薄いパジャマの裾がひらりと舞い、俺の心臓に再びダイレクトアタックが決まる。……本当に大丈夫なのだろうか、この悪魔。
「そういえば、ベルフェゴールは起きてこないですね」
「ああ、あいつは起きてる時の方が珍しいから気にしなくていいわよ」
「いやいや、あの危険物が家で一人で寝てられる方が怖いんですが……」
「そんなに心配なら、あいつも連れて行けばいいじゃない」
「いや、寝てる人をどうやって連れていくんですか……」
――などという、一悶着が、数十分前にあったわけだが。
現在の舞台は、ガタゴトと小刻みに揺れる、路線バスの車内である。
「ねえ! 見て拓巳、あの建物! あ! あっちの看板も凄いわ!」
窓ガラスに顔をこれでもかと引っ付け、黒色の尻尾をブンブンと振り回しながら大はしゃぎしているルシファー。
「あのー、ルシファーさん? 少し落ち着いてもらえませんか……」
「何を言ってるのよ! 初めて見るものばかりなんだから、興奮して当然じゃない!」
「いくらこの時間帯の車内が、僕たち以外に誰も乗っていないとはいえ、危ないですから!」
「ほんっとうに、拓巳は小言が多いわねー……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、ルシファーは意外と素直におとなしく座り直した。その様子を見ながら、俺は心の中でため息をつく。
(はあ……。ルシファーも、ベルフェゴールみたいに『使い魔化』してくれれば楽なのに……)
「嫌よ。私みたいな高貴な悪魔が、そんな屈辱的な姿になるわけないじゃない」
こちらの心を読んだかのように、ルシファーがふんっと鼻を鳴らした。
そう、遡ること、家を出る直前の会話である。
『私たち悪魔はね、【使い魔化】と言って、魂のサイズに合わせて体を小さく変化させることができるのよ。まあ、私は絶対にしないけど』
『さすが悪魔、ファンタジーの定番システム……って、そんな便利なことができるなら、あんたも今すぐそれやってくださいよ!』
『嫌よ! 使い魔化なんて、雑魚悪魔が上位の悪魔に恭順を示すときにすることなのよ! 私みたいな魔界のトップがするわけないでしょ!』
『はいはい。じゃあ、ベルフェゴールはそんなことしてくれるのか?』
『ああ、あの子はするわよ。寝れれば姿なんてどうでもいいタイプだから』
そんな会話を経て、俺たちはベルフェゴールを回収するため、両親の寝室へと向かった。
キングサイズのベッドは、大きな掛け布団が中央でボコッと山のように膨らんでいる。頭まで完全に布団に埋もれているようだ。
『おーい、ベルフェゴール? ちょっといいかー?』
……しーん。返事がない。
『おーい、ちょっと起きてくれないか?』
……しーん。ただのしかばねのようだ。
俺が再び声をかけようとした、その時。
『あーもう、じれったいわね!』
しびれを切らしたルシファーが、ガバッと勢いよく布団を剥ぎ取った。
そこには、白いドレスのような寝間着を身にまとい、無防備にもほどがある細い太ももを大胆に曝け出して、すやすやと眠るベルフェゴールの姿があった。
『お……おお。これは……眼福……』
間近で見る美少女悪魔の寝顔と生足に、思わず見惚れて呟く俺。
パチンッ!!!
『あだっ!?』
『そんなことしてる場合じゃないでしょ、変態!』
ルシファーに容赦なく頭をぶっ叩かれ、俺はズレたメガネを直しながら「あ、そうだった」と気を取り直す。
『おーい、ベルフェゴール? ちょっと起きてくれないか?』
俺はベッドに近づき、彼女の華奢な肩に手をかけて優しく揺さぶってみた。
『んん……ん……。うるさ、い……』
ベルフェゴールがもぞもぞと不快そうに身悶えした――次の瞬間。
バゴォォォォォォォンッ!!!
空気を切り裂くような凄まじい衝撃音と共に、俺の視界が超高速で後ろへと流れた。気がついた時には、俺の身体は寝室の壁に全力で激突していた。
『おぶっ!!!』
文字通り、口から内臓(または血反吐)が飛び出るかと思った。壁にヒビが入るほどの、まさに悪魔的な威力。
『ん……? ……あれぇ? なんで、みんな、いるの……?』
目をこすりながら、ぽやぽやと上体を起こすベルフェゴール。
『うう……ベルフェゴール、さん……なに、を、やっ……て……』
俺は壁に張り付いた状態のまま、ガクッと意識を失った。
『……っと! ちょっと、拓巳! 起きなさいよ! しっかりして!』
直後、ものすごい勢いで身体を前後に揺さぶられる。
うっすらと目を開けると、視界が涙で歪んでいた。
『……うぅ……身体中が痛みで……あれ……? なに、この綺麗な美少女……。俺……ついに死んで、天国に……?』
『何バカなこと言ってんのよ! シャキッとしなさい!』
パチーーーーンッ!!!
ルシファーの強烈な張り手が俺の頬に炸裂した。
『うげえええええええっ!!!』
脳天を突き抜ける痛みで、今度こそ完全に覚醒する。
『あら? 正気に戻った?』
『いや、あのー、今の一撃でほぼ死にかけてたんですけど……!』
『生きてたんだから良かったじゃない。ベルフェゴールの【寝返り】を至近距離で喰らって生きてるなんて、人間としては奇跡よ?』
『……なんか、ごめんね……?』
ベッドの上で、ベルフェゴールが本当にいたたまれなさそうな顔をして、ペコリと小さな頭を下げてきた。
『だ、大丈夫です……。それより……』
俺は半分粉砕してヒビが入ったメガネをクイッと直しながら、命がけで本題を切り出した。
『ちょっとこれから外に出るので、【使い魔化】……っていうの、やってもらえませんか?』
『使い魔化……? ……うん、いいよぉ……』
ベルフェゴールが小さく呟いた瞬間。
ぽんっ!
という小気味いい破裂音と共に、ベッドの上の美少女が消え――代わりに、そこには手のひらサイズの、なんとも愛らしい『ぬいぐるみ』のような生き物が転がっていた。青い毛並みの、デフォルメされた不思議な小動物だ。
『か、かわいい……! なにこれ、マスコットキャラクターか何かですか!?』
『ふん、そんな不細工なぬいぐるみの何がいいのよ。私だって、やろうと思えばそれくらいできるんだからね!』
なぜかめちゃくちゃ悔しそうな顔をしてルシファーが張り合ってくる。
『あんたは「高貴だからやらない」んでしょうよ』
俺が横目で睨みつけると、ルシファーは顔を真っ赤にして、
『そうよ! やらないわよ、そんな恥ずかしいこと! ふんっ!』
と腕を組み、ぷいっと顔をクイッと上へ向けた。本当にわかりやすいやつだ。
『拓巳……私、まだ眠いから……このまま連れてって……』
ぬいぐるみの姿になったベルフェゴールが、ぽよぽよと重力を無視して宙に浮かび上がり、俺の元へと引き寄せられてくる。
『あ、ああっ、じゃあカバンに括り付いといてくれ』
『……ん』
ベルフェゴールは小さく同意すると、俺の通学カバンのストラップに、自らぽすっとくっついて、そのまままた寝息を立て始めた。
――と、そんな壮絶なバトル(?)を経て、現在に至る。
「ねえ! いつになったら拓巳の『だいがく』ってところに着くのよ!」
隣の席で、ルシファーが再び窓の外を見ながら急かしてくる。
「えーっと、バスであと二十分くらいじゃないですかね」
「そんなに!? 人間の移動手段って、本当に不便ねぇ……」
「不便で悪かったですね。それまで大人しくしててくださいよ」
「はあ……分かったわよ」
意外にも、ルシファーはすんなりと引き下がって座り直した。
横に座り、退屈そうにまた窓の外を眺め始めたルシファー。
その横顔を盗み見ながら、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。
(……こうして黙って窓の外を見てると、本当に、めちゃくちゃ綺麗な女の子なんだけどな……)
整った目鼻立ち、透き通るような肌、サラサラと揺れる金髪。
そんな俺の熱視線を察知したのか、ルシファーがギロリとこちらを睨みつけてきた。凄まじい美貌から放たれる、物理的な圧力が首筋を襲う。
「なによ? 人の顔をジロジロ見て」
「なんでもないですっ!!!」
俺はマッハの速度で首を正面へと向け直した。
こうして、満身創痍のオタク大学生・神代拓巳と、パジャマ姿の傲慢悪魔ルシファー、そしてカバンにぶら下がった怠惰悪魔ベルフェゴールによる、前代未聞の「大学登校ミッション」が幕を開けたのだった。




