『恐怖の洋館と、中位の悪霊:餓鬼』
「ねえ……。あんた、いつまで食べてる気?」
エヴァが半ば呆れ、半ば苛立ちの混じった声で、ローテーブルのお菓子を吸い込み続けている赤髪の悪魔を睨みつけた。
「ん? あのおじちゃんが無限にお菓子くれるしな。出てこなくなるまで食うぞ!」
もぐもぐ、と口いっぱいに高級クッキーを頬張ったベルゼブブが、リスのように頬を膨らませて堂々と言い放つ。
「あのー……。お祓いの依頼は、一体いつになったら……」
部屋の隅で、依頼人の鈴木さんが不安そうに手を擦り合わせながら声をかけてきた。
「あっ! す、すいません! このバカあく……じゃなくて、うちの仲間たちが、その、緊張をほぐすために栄養を補給しておりまして……!」
エヴァは一瞬でビジネス用の可愛い営業スマイルを作り直すと、ベルゼブブの首根っこをガシッと掴んだ。
「ほら! さっさと行くわよ、この大食い!」
「あががっ! 待て、まだマドレーヌが!」
無理やりベルゼブブを引きずりながら、エヴァはソファで丸くなっている金髪悪魔を振り返る。
「あんたも、その寝てるバカを早く連れてきなさい!」
「わ、わかったわよ……! ……怖くない、怖くない、私は悪魔、あんなのただの人間がちょっとバグっただけ……」
ぶつぶつと怪しい呪文のように自分に言い聞かせながら、ルシファーは熟睡しているベルフェゴールをひょいと肩に担ぎ上げた。
「では……こちらの階段を上がった突き当たり……。その部屋に妻がおりますので……」
鈴木さんが指差した階段は、昼間だというのに明かりが一切ついておらず、その奥からはおどろおどろしい、どす黒い雰囲気がぷんぷんと漂ってきている。
「ありがとうございます。さっそく行ってきますね〜!」
エヴァが頼もしく微笑む後ろで、ベルゼブブが鈴木さんに手を振った。
「なあなあおじさん、依頼終わらせたらまたあのお菓子くれよな!」
ベシッ!!!
「バカ! 早く行くわよ! ほら、あんたらも遅れないで!」
ベルゼブブの頭を容赦なく引っ叩きながら、エヴァが階段へ最初の一歩を踏み出す。
ギィィィィィィ……。
古びた木が軋む不気味な音が、静かな洋館に響き渡った。
「ひいぃっ!?」
ルシファーが短い悲鳴をあげる。
「いちいち驚かないでよ、めんどくさいわね」
「お、おどろいてないわよ! ちょっと喉が鳴っただけよ!」
「なぁ? そんなことよりさっさと登って依頼を終わらせようぜ。なんかお腹空いてきたぞ」
クッキーをあれだけ詰め込んだ直後だというのに、ベルゼブブはガシガシと恐れる様子もなく階段を登っていく。
「ベルゼブブの言う通りよ。あんたたちもさっさときなさい」
エヴァもそれに続く。
「スゥー……ハァー……。……よし。行くわよ」
ルシファーは深く深呼吸を一つすると、ベルフェゴールを担ぎ直して、意を決したように不気味な階段を登り始めた。
二階に上がると、そこには長い廊下が伸びており、その一番奥の突き当たりに、何枚もの太い木の板がこれでもかと雑に打ち付けられた扉があった。
「ひいっ……! なによあれ、バイオハザードの世界じゃない……」
ルシファーが顔を引きつらせる。
「おそらく、鈴木さんが奥さんを部屋から出さないようにやったのね」
「あれじゃ、中にいる奴はご飯も食べられないぞ?」
ベルゼブブの至極真っ当な疑問に、エヴァが真面目な顔で答えた。
「悪霊に取り憑かれた人間は、ご飯を食べなくても死なないのよ。あんたらだって、実際は人間界のご飯を食べなくても死にはしないでしょ?」
「え? 俺は食べないと死ぬぞ?」
「あんたの胃袋がおかしいだけよ」
エヴァが冷たく切り捨てる。
「……で、どうするのよ? あの板、一枚ずつ剥がしていくわけ?」
ルシファーがおっかなびっくり尋ねると、エヴァは顎に手を当てた。
「そうね。それしか方法が――」
「えー。めんどくさいから、扉ごとぶち破ろうぜ」
「バカ。依頼者の家を破壊するわけにいかないでしょ」
エヴァがベルゼブブを嗜めた、まさにその時だった。
バギィ!!! バギィ!!! ボコッ!!!
「――っ!?」
目の前の扉の向こうから、凄まじい質量がぶつかるような衝撃音が鳴り響いた。
「な、なによこれ!?」
悲鳴混じりに叫ぶルシファーに、エヴァの顔が引き締まる。
「あんたたちの魔力を感知したのね……! 剥がさなくても、あっちから出てくるかも!」
会話をしている間にも、扉はさらに激しく軋んでいく。
バギィィィ!!! バキバキバキッ!!!
ガタガタと音を立てて、大量に打ち付けられていた木の板が床へと剥がれ落ちていく。
そして――。
パアァァァンッ!!!!
凄まじい破裂音と共に、扉が内側から吹き飛んだ。
「ヒィィィッ!!!」
お約束のように本日最大の悲鳴をあげるルシファー。
しかし、壊れた扉の奥は、ただただ真っ黒な闇が広がっているだけだった。
「……な、なによ……誰もいないじゃない……」
ルシファーがホッと胸をなでおろしかけたが、エヴァの目には冷や汗が浮かんでいた。
「……いや、来るわ」
コツン。コツン。
静まり返った廊下に、重々しい足音が響く。
闇の中から、ぬるりと、その『異形』が現れた。
額からは禍々しく伸びた二本の角。
老婆のものとは到底思えない、皮膚を突き破らんばかりの筋骨隆々とした巨体。
目は不気味に白濁し、口元は裂けるように高く釣り上がり、その奥には鋭く尖った牙がびっしりと並んでいる。
『ケケケ……やあっと出られたぜぇ。なんだか、美味そうな魔力が外から溢れてきてなあ……!!』
男のような野太い、地獄の底から響くような声。
それを見たエヴァの顔から、完全に血の気が引いた。
「……これは、ちょっとやばいかも……」
「? なにがだ?」
ベルゼブブが不思議そうに首を傾げる。
「あれは、悪霊の中でも中位に存在する【餓鬼】と呼ばれる悪霊よ! 地獄の結界の隙間から、たまに這い出てくる凶悪なやつなんだから!」
冷や汗を流しながらエヴァが警戒態勢をとる。その時、餓鬼の白濁した目がエヴァたちを捉えた。
『おっとぉ? すげえ魔力の姉ちゃんたちがいるなあ……。……じゅるり。涎がたまらねえ。早く喰わせろやぁぁぁ!!!』
ドォンッ!! と床を爆破するような勢いで、餓鬼がもの凄い速さで突っ込んできた。
「しまっ……速い!? 何の準備も――!」
エヴァが防御姿勢を取ろうとした、その横を。
一筋の金髪が、スッと前に出た。
「なによ。ただの餓鬼じゃない」
面倒くさそうに呟いたルシファーが、眼前に迫った筋骨隆々の餓鬼の額に向けて、人差し指を親指に掛け――ピン、と軽く『デコピン』を放った。
ズガァァァァァンッ!!!!
『おぶふぅぅぅぅぅぅーーーっっっ!!!???』
凄まじい衝撃波と共に、餓鬼がまるで放り投げられた紙切れのように廊下の遥か彼方へと吹っ飛び、壁に激突して何回転も床をゴロゴロと転がっていった。
「…………え?」
エヴァの思考が完全に停止した。
「どうしたんだエヴァ? ただの餓鬼だろ?」
ベルゼブブが不思議そうに聞く。
「いやいやいやいや!! あれ結構な強さの悪霊よ!? エクソシストが数人がかりで結界張って倒すレベルよ!?」
「あんな雑魚、ハエみたいなもんよ?」
さっきまでインターホンの声にすらビビり散らかしていた金髪悪魔は、どこへ行ったのか。ルシファーはふんと鼻を鳴らし、完全に勝ち誇った顔をしている。
『……き、きさまらぁ……。この俺様を、なめやがって……!』
壁の瓦礫の中で、餓鬼がフラフラと立ち上がろうとした。
だが、その瞬間。
『うぐっ!? うがっ……アガがガガガががが……っっ!!』
餓鬼が突如として、自分の喉を掻きむしりながら激しく苦しみ始めた。
ルシファーがその場から、すっと右手を伸ばして何かを掴むようなジェスチャーをしていた。
「奥さんから、その悪霊の本体だけを消滅させればいいんでしょ? ほら」
ルシファーが一気に右手を上へと跳ね上げる。
すると、苦しむ老婆の体から、青白く光るドロドロとした怨念の塊のような何かが、にゅるっと引きずり出された。
本体を引き抜かれた奥さんは、そのまま床へ意識を失って倒れ込む。
宙に浮いた青白い悪霊の本体は、『やめろおおおおおおお!!!』と絶叫をあげたが、時すでに遅し。
その下では、ベルゼブブが「あーーーん」と大口を開けて、今か今かと待ち構えていた。
しゅるっ。パクッ。
「うーん……。あんまり美味くないなあ。なんか湿気た煎餅みたいな味がする」
ベルゼブブはモグモグと悪霊の本体を咀嚼し、ペッと床に唾を吐き捨てた。
「ほら? 終わったわよ、エヴァ」
ルシファーが髪をさらりとかき上げる。
「……え? え? なによこれ。何が起きたの……?」
エヴァの目からハイライトが消えかかっている。
「はぁ……。なんか凄い怖いものが出てくると思って損したわ。ほら、ベルフェゴール、あんたいつまで寝てんのよ」
ルシファーは肩に担いでいた青髪の幼女のオシリを、ペシペシと叩いた。
「……んぅ……。……おわった……?」
ベルフェゴールがようやく薄い目を開ける。
「終わったぞ! 美味しいものじゃなくて残念だったけどな!」
ベルゼブブが笑う。
「なっ……なっ……なんなのよこれぇぇぇぇーーーーーっっっ!!!!」
静まり返った不気味な洋館に、常識を木っ端微塵に打ち砕かれたエヴァの絶叫だけが、虚しく響き渡るのだった。




