第46話 夕日の崖
僕は港を離れ、人気の少ない鶏頭岩の方へと歩いた。
鶏頭岩は、港近くの鋭く張り出した崖で、舟に乗って側面を見上げると、鶏の頭に見える。
鶏頭岩の上は見晴らしがよく、夕刻になると西に真っ直ぐ伸びる清江の先に落ちる夕日がとても綺麗に見える場所だ。
この時も、夕日が薄雲に半身を隠しながら、西の空を綺麗なオレンジ色に染め上げていた。
夕日が反射して輝く川面を眺めながら、今日は朝あそこの浅瀬の仕掛けを見に行ったっけな、明日は晴れそうだから畑か柴刈りか、なんてことを考えていると、後ろから人が近づく気配がした。
軽いから子供かな、でもラオにしては落ち着いた足音だな、と思っていると、鈴を優しく揺らしたような声音がして、誰だか分かった。
「綺麗に晴れたね。」ミウさんの声だった。
振り返ると、ミウさんが軽く息を弾ませながら歩いてきていた。
ミウさんは、僕の手前で立ち止まり、僕の肩越しに崖向こうの風景を覗いた。高いところが苦手な様子だった。
「見て、江豚が遊んでるよ。」と言って、ミウさんは夕日が沈む方向を指さした。
指で指された方を振り返ると、遙か向こうでの江豚らしき点が二つ、川面に影を作っていた。
僕らにとって江豚は、清江の恵みを奪い合う敵同士だ。定置網を荒らすし、頭がいいので釣り針にもかからない。
僕は、そんな思いを隠しつつ、そうだね、と曖昧に相槌を返すと、ミウさんは、夫婦かな、子供いるのかな、家に帰るところかな、と広がる妄想を止めどなく発信し始めた。
「あんなふうに川の中を自由に泳げたら、楽しいんだろうなぁ。」
ミウさんは、川向こうの二つの点を見ながら、優しく言った。
それがどんな感情から出た言葉なのか察しかねて黙っていると、さっき舟に乗ってたときすごく怖かった、やっぱり舟は怖い、と言うので、あれはシャムが悪いんだよ、他の人はあんなに乱暴に漕がないよ、となだめた。
するとミウさんは、正しく僕の方に向き直り、微笑みながらこう言った。
「でも、ありがとう。ツカサのおかげで川に落ちずに無事に帰って来れた。」
瞳を輝かせて僕に語りかけるミウさんの顔は、白い肌が夕日に照らされて黄金色に輝いて、とても綺麗だった。
ミウさんの瞳にも夕日が反射し、オレンジ色に輝く川面が黒目の中に鮮やかに映っていた。
黒目に反射して見える川面の奥には、虹彩の筋が、夕日に照らされ一本一本鮮やかに見え、そのどんなに高級なガラス細工より精美な造作に、人体の尊さみたいなものを感じ、どのくらいの時間か暫く見とれていた。
やがて我に返り、変わらずに見つめてくるミウさんの視線を意識し、急に恥ずかしくなった。
そして今のこの状況を思い返し、夕日に向かい夕日を見ながら語らう不純な男女の不純な夕暮れではないか、と思い至った。心臓の鼓動が急に速まったように思った。
「やっぱりツカサは特別な人だった。島の人たちを助けるために白虎堂から川に飛び降りたって、みんなが噂してた。どんな人なんだろうってずっと思ってた。でも話すととっても優しくって。やっぱりそんな無茶しそうにないな、ただの噂だったんだな、って思ってたら、助けられたの。」
ミウさんは、僕から視線を離さずに、早口だけど嬉しげに、息継ぎもあやふやに喋り続けた。
僕は、自分の顔が熱くなるのを感じたが、幸いなことに、僕の顔は日陰になっていて、どんなに赤く染まってもミウさんには分からないと思われた。
しかしそんなものは気休めにもならず、ミウさんは、喜びにあふれた顔で、僕の情緒を容赦なく掻き乱していった。
「これからもずっと、私のこと守ってね。」
『え?』
話がいきなり飛躍した、と思い、聞き間違いかと思って聞き直した。
ミウさんの瞳に、初めて影が差した。
ミウさんは、少し不安な面持ちになり、僕に言った。
「私たち、夫婦になるんだよね?」
『え?』という言葉しかやはり出てこなかった。
僕の脳の中は、魚籠の中のナマズのように乱れ回った。
何がどうしてこういう話になったのか、全く分からなかった。
この島に来て以来の記憶をたどっても、ミウさんの家に初めて布を回収しに行って以来の記憶をたどっても、全く身に覚えがない。
シャムと義兄弟になったから族長一家の何らかのしきたりに巻き込まれたのか、それとも一緒に舟に乗ったからなのか、または、古代中国の女性はとても保守的で、結婚前には人前に姿を見せなかったというから、布を回収しに家に入った時点でもう決まってたのか、いくら思い返しても分からなかった。
そればかりか、目の前のミウさんが、色々考えを巡らす僕を見てどんどん不安が広がっている様子で、悠長に記憶をたどっている余裕はなさそうだった。
ミウさんは、相変わらず僕を見つめていたが、彼女の瞳の光は涙に潤んで大きく波打っていた。
僕は彼女を見ていられなくなり、思わず目をそらした。
突然の現実に迫られ、どう答えて良いのか全くわからなくなった。
周りの風景は、相変わらず西日のきつい崖の上だった。下流から吹き付ける川風が、僕を崖の方へ送り出そうとする。
つまり、この数ヶ月この島でのうのうと暮らしていたツケを払わされたんだ、と僕は解釈した。
この時代でどう生きるか決めかねていて、色々決断しないといけないことがあったはずなのにそれを後回しにして、呑気に日々を過ごしていた間に溜まっていたツケだった。
習珍さんや熊五郎さんをはじめ、皆が変わっていく中、自分自身が変わらなければ大丈夫だと思い込んでいたら、周りの自分を見る目は着実に変わっていたのだった。
ミウさんは僕を島民として扱い、島民の常識でもって僕に話してくれた。
ところが僕は、島民として生きていく覚悟もなく、かと言って島を離れてクラスメイトの手がかりを捜すでもなく、中途半端な気持ちで過ごしていて、そのおかげでミウさんを涙目にさせてしまった。
こんなに善良な娘がこんな辱しめを受けるなんて、あってはならないことだし、その原因が僕だなんて、もっと考えたくないことだ。
時は残酷だった。僕の成長を待ってくれない。
ミウさんの涙は、「モラトリアム」なんていう言葉で許されるものではない。
時間を巻き戻せないものか。どこで失敗したんだろう。この時代に来たときみたいに、よくわからない力で前の時間に飛ばしてくれないだろうか。
そのとき、ふとミウさんの言った言葉を思い出した。
『舟で島を一周するの。無事に一周できれば、その男女は幸せになれるの。でも舟から落ちちゃうと、幸せになれないらしいよ。』
もしかして川に落ちてたら、こんな話にはならなかったかも、ということは、今からでも川に落ちれば、少しは挽回できるかも、と閃いた。
後から考えると、妙なこじ付けだったのだが、その時の僕は、その場を何とか脱しようとして、その素晴らしい閃きに飛びついたのだった。
「僕と一緒になったら、幸せになれないよ。」
僕は、瞳の表面を波打たせてこちらを見つめるミウさんを見て言った。
そして、何かを言いかけるミウさんを視界の外に押しのけ、崖の向こうへと思い切り走った。
そして、川の彼方の沈みかける夕日に向かって大股で飛びついたが、体はすぐに崖下に落ちていった。
重力で内臓や血液が浮き上がり表皮が総毛立つ感覚に襲われ、苦しくなって目をつむり、次の瞬間には全身が冷水の中で、上下左右の感覚を失い、大量の水を飲んだ。
それから、どうやって岸に上がったかは、覚えていない。
気がついたら、港で這いつくばって水を吐いていた。
周りでは、ラオやシャムなどが見守っていて、その周りを野次馬が遠巻きにしていた。
僕は気持ちが悪くなり、ノックに背負われて族長屋敷へと帰った。
途中、遠目にミウさんの姿も見えた。
ミウさんは、相変わらず涙を浮かべてじっとこちらを見ていたが、近寄ってくることはなかった。
僕もそれに対して声をかける気力もなく、ノックの背に揺られて素通りした。
ミウさんにはきっと、崖から飛び降りるのが好きな変人と思われているだろう。
そう思われてもいいや、弁解の余地ないし、と気持ち悪くて何も考えられずにヤケクソな結論をつけ、僕はノックの背の上で目を閉じた。




