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三国時代の蛮族生活体験記  作者: 雀舌一壺
第二章
39/55

第39話 コンビナート

 樊冑の屋敷から財産を運び出し、船に積み込み、僕らは宜都の町へ向かった。財産は、中型船で三隻にも上った。

 宜都の町からは曹操軍が去り、今度は孫権軍が進駐し、兵糧や飼葉を買い求める軍隊との交易でまた賑わっていた。


 僕らは、港にいくつもある商家で財宝を売り、布の材料や染料などを買い求めた。

 中型船一隻分の財宝で、宜都の町の布材料の在庫が全てなくなり、量も当然ながら中型船一隻で運べる量ではなかったので、商船で運んでもらうことにし、その後は材料を仕入れたら鐘離山に順次運んでもらうことにした。


 鐘離山に戻ってからの僕たちは、戦争が起こる前の平和な暮らしに、表面上は戻った。

 男たちは島の外に漁や狩りに出て、女たちは布を織る。



 変化といえば、まず人の出入りが多少あった。


 習珍しゅうちんさんたち元漢軍の兵士たち数十名と、馬容ばようさんたち元漢軍の捕虜たち数十名、その中の半分以上が故郷の荊北に帰り、三割くらいが鐘離山に留まっている。

 僕たちと一緒に江夏に行った張三さんと李四さんも、家族の消息が掴めたそうで、荊北に帰ってしまった。

 習兄弟は、兄の習珍さんが島の娘と結婚したこともあり、島で暮らしている。

 馬容さんは、僕の兄弟子の劉琦りゅうきから直々のお言葉を受け、かい先生の身辺のお世話をしている。


 馬容さんの蒯先生への接し方は、劉琦のところに行く前に比べ、目に見えて礼儀正しくなった。

 拝謁する時はまず叩頭し、話すときはなるべく視線を落として目を合わせず、頭は常に蒯先生の顔より低い位置にする。

 寝泊りするのも白虎堂で、水や食物なども馬容さんや仲間の元捕虜の人たちが行い、僕がお世話をする機会もなくなってしまった。



 江夏からの帰りの船の中で散々聞かされた話を思い出すと、馬容さんがこういう態度になるのも納得だった。

 蒯先生という人は、荊州の軍人にとって、伝説的で英雄的な人物だったそうなのだ。


 今江東で一大勢力を築いている孫権には、孫堅という父親がいて、十七年くらい前にその孫堅が襄陽城を攻め、あわや落城寸前というところで、蒯先生が計略を用い、孫堅を撃退したばかりか、殺害してしまったのだそうだ。

 それは、馬容さんがまだ八歳くらいの出来事で、自ら見知ったことではなかったけど、荊北の家庭ではそれが英雄譚のように子供に語られ、馬容さんも戦場でそういう卓抜した軍功を上げてみたいと憧れたという。


 それが何故、蛮族の拠点で代筆をする生活に落ち着いたのかは、馬容さんも知らず、ゴリさんも語ってくれなかった。

 これは想像だけど、大人の醜さが凝縮された嫌な話になってしまうんじゃないか。


 こういうわけで、馬容さんは、僕からすれば過剰な敬意を持って、蒯先生にかしずいた。

 それから僕も、蒯先生の存在はくれぐれも他言無用、ときつく注意された。

 孫権の陣営にその存在を知られれば、必ず攻めてくる、何しろ蒯先生は孫権にしてみたら親の仇なので、孫家の面子にかけて打ち取りに来るという。

 わずか数年前には、当時蒯先生とともに作戦を指揮して孫堅を殺した黄租という将軍が、その当時拠点としていた江夏を孫権軍に攻められて殺害され、江夏城内と周辺の田畑が略奪され尽くしたという。

 この時代において親の仇というのは、それほど執念深く狙われるらしい。



 馬容さん以外の漢人たちは、先頃の戦いで犠牲が出て、空家となってしまった島民の家に、分かれて住んだ。

 僕たちは、族長屋敷にそのまま住んだが、それも少し様子が変わった。そのことについては後で触れることにする。


 それから、漢人が島に住み着くのを嫌って、島を出ていった世帯もいくつかあった。

 その中には、ジェツの一家も含まれていた。

 ジェツの家は、父も祖父も曽祖父も筋金入りの漢人嫌いで、漢人の支配を一切認めず、税を払うことすら反対していた。

 その一家の薫陶を受けたジェツも概ね漢人嫌いだったが、同席したり口をきいたりはするので、一家の中では比較的普通な部類だった。


 しかし、僕たちは残念ながらジェツを引き止めることはできなかった。

 凛君族の集落は、荊南の広大な山地の中に無数に存在するので、そのどこかに腰を落ち着けるのだそうだ。

 何故そんなにかたくななのか、やはり僕には理解できず、この時代の人の感覚なのかも、といういつもの結論でお茶を濁した。



 それから、ゴリさんもいなくなった。

 僕らが鐘離山に帰還してから何日も経たない間に、いつの間にかいなくなっていた。

 僕らに挨拶もなしにだ。

 蒯先生から何か任務を帯びて出立したんだろうけど、どこに何をしに行ったのかは何も分からず、蒯先生に聞いても知らんの一点張りだった。

 そして、然るべき時に至ればまた会うこともあるだろう、という曖昧な言葉で、いつものように誤魔化されるのだった。


 思い返すとゴリさんという人も全く不思議な人で、家族はどこにいるのか、どんな活動をしてるのか、何故蒯先生のために働くのか、そもそも給金は出ているのか、など分からないことだらけだった。

 皮膚は長年の日焼けで赤黒く、全身が足の裏みたいに硬そうで、冬でも薄着で胸をはだけて平気なほど寒さに強く、ナタを振り回しながら獣のような声を上げて獣道を歩く姿が印象に濃かったので、普通の人間に対して抱くそんな当たり前の疑問も、ゴリさんに対してはなかなか抱けなかった。


 しかしゴリさんについては、永遠の別れというわけではなく、何らかの任務を背負ってのことなので、任務が終われば帰ってくるかもしれないし、森を歩いてれば突然出くわすような気もする。




 そんな変化があって、多少は寂しい思いもしたが、それらを忘れさせるくらい大きな問題が目の前に立ち塞がっていた。


 それは、やはり税の問題だった。

 夏までに、島全体で全長二十キロメートル弱もの布を織らないといけない。

 材料は揃ったものの、このノルマを達成するのは非常に厳しかった。


 機織り機を使える女性だけが布を織る作業を行うと仮定すると、一人あたり約七十メートルも織らないといけない。それも家事や子育ての合間にだ。

 さらに、島にはそんなに多くの機織り機はなく、今あるものだと二百台にも満たない。

 当然、布を織る工程に入るまでには、原料の麻から繊維を抽出して糸を紡ぎ、それを染料で染めなければならなかったが、糸を紡ぐのは機械が要らない手作業だし、さらに完成した糸を少なからず買うこともできていたし、染めるのは染料と天候と場所さえ整えば、人手は限られなかった。


 色々な条件を考えると、機織り機が使える女性にだけ相当な負担を強いることとなる。

 機械と熟練工の少なさが、このミッションを解決するためのボトルネックとなることは目に見えていた。



 この問題を最初に指摘したのは、ウーさんたち年配層の誰かだった。

 島では毎年決まった量の布を納めていたので、どれくらいの期間でどれくらいの量の布を織れるのかを、毎年見てきた彼らは計算できた。

 そして、現在の機織り機と女性の数だけを計算して、無理だと繰り返す。


 そこで漢人の中から出てきたのが、一台の機織り機を交代でなるべく長い間使ったらどうか、という意見だった。

 そして、使い手のいない家庭や、先の戦いで男手がいなくなり機織り機の運用に支障がある家庭などの機織り機は一箇所に集め、皆で協力して遊ばせてる機織り機が無いようにしよう、という方針にまとまった。


 そして、機織り機を集める場所として、シャムは族長屋敷を差し出した。


 一度焼け落ちた族長屋敷は、漢人の兵たちの手で修復されてはいたものの、家具や調度品はなくなり、以前会合を行っていた広間が使われずに無駄に広い空間を晒していて、これ以上広い部屋は島内には存在しなかった。

 さらに屋敷には、漢人の兵たちが帳幕を張るために整地した、り糸や布を干すのに適した広い空き地があり、空き地の隅には水場もあった。そして、完成した布の倉庫として使っていた鐘離山山頂にある白虎堂と、材料を荷揚げする港との中間に、族長屋敷は位置していた。


 つまり族長屋敷は、実は工場にとても適していた。



 この案を二十一世紀風に言うと、家内制手工業と工場制手工業の二元運営だった。


 まずは族長屋敷内に工場を開設し、紡績から染色、織布までを一括で効率よく行う施設にする。

 そして工場で効率よく作製された織糸を各家庭に配布し、なるべく長い時間機織り機を稼働させる。

 工場では、労働力を集約してタイムシフト制を敷き、限られた機材の有効活用を図るとともに、熟練工に監督させることで未熟な女工の作業レベルの底上げと熟練工の肉体的負担の軽減を同時に実現する。


 工場という作業専用の施設を作ることで、家事や育児に邪魔されずに作業に集中できる環境を整え、さらに食事時間に給食を提供することで、各家庭の家事の手間を省き、遅いシフトに入りやすくさせ、長時間の効率良い稼働を目指す。

 そして紡績から染色、織布までを一括で行うことの出来る施設を設置することで、工程ごとの運搬の負担を減らし、工程間の在庫管理も容易にし、製造の効率を高めるとともに、作業員の食事の一括管理も可能となる。


 そして、男たちは材料の調達、製品の運搬、及び食料の調達等の間接業務や、各家庭への材料の配布や完成品の回収、その他紡織作業に必要な力仕事をサポートし、島全体で紡織業務を運営していく。


 言わば、「鐘離山紡織コンビナート」の操業開始だった。


 これは、今夏という明確な期限、そして布千三百匹という明確な数値目標を確実に達成するための、人類の賢さ、偉大さが詰まった有効な一手だった。

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