第38話 悪党
「こんなもの、認められるか!」
樊冑は、調度品の賑やかな長陽の町役場の一室で、美しい装飾の施された木机の上に同じ印章の押された文書をいくつも広げ、呼吸を乱して少し出た腹を上下させながら、それらの文書を見比べて、ひとり呻いていた。
それらの文書の最後には、全て同じ『荊州牧印』という文字の印が押してあり、その中の一つには、僕らが先日江夏に赴き劉琦に書いてもらった、凛君族の清江流域の支配権を認める文書もあった。
「印章も本物だと分かっただろう、それは、新任の荊州牧劉琦様直筆の正式な免状だ。」
習珍さんが、樊冑を追い詰める。
「劉琦様がこう仰る以上、清江流域にあるこの長陽の町も、こいつら凛君族のもんだ。」
そう言って、習珍さんは、横に居る僕たち――僕、シャム、ダレル、ウーさん――を指し示した。
樊冑は隣に、相変わらず濃い化粧の通訳の娘を侍らせている。漢語での会話が続くので、娘は暇そうに自分の髪の毛を弄んでいた。
「凛君族の領地に漢人はみだりに入ってはならないと決められた以上、この町にも漢人が留まることは出来ない、凛君族が認めた者を除いては。」
習珍さんが、芝居がかった言い回しで、樊冑から血の気を奪っていく。
「凛君族の朋友たちも、この町で暮らす漢人たちには世話になってるし、出て行って欲しいとは思ってない。ただ、樊冑――あんたは別だ。」
そう言って習珍さんは樊冑を指差し、語気を強めた。
『俺たちはな、税の中抜きだけして、いざという時何もしない、お前みたいな役人が大っ嫌いだ。そればかりか、俺たちを騙して、お前にとって邪魔な者を始末させようとした。その性根がとてつもなく気に入らない。』
今度はシャムが、ずいと前に出てきた。その身に羽織った白虎の毛皮が暗めの屋内に映える。
通訳の娘が、早口で淡々とシャムの凛君語を漢語に訳していく。
「長陽県は武陵郡に所属している、武陵太守の辞令でなければ任命も罷免も有り得ない、それを無視して荊州牧の免状を見せて出て行けなんて、こんなやり方は全く大漢帝国の法を逸脱している、無茶苦茶だ!」
樊冑は、娘の通訳を聞き流しながら、免状を見つめて一人つぶやいている。
そうだった、正しく僕らは無茶を承知で横車を押しにやって来ていたのである。
事の起こりは、僕らが江夏から鐘離山に帰って来たときに遡る。
荊北での任務を終え、僕らは約一ヶ月ぶりに鐘離山へと帰った。
季節は、暖かい南風が吹く日がだいぶ増え、族長屋敷の庭先の梅の木は満開に花を咲かせ、草は芽吹き動物たちは冬眠から目覚めようとする、そんな季節に差し掛かっていた。
鐘離山には、ラオとラビが無事長陽の町から連れ戻されていて、旅塵にまみれた僕らを出迎えてくれた。
小虎のアイスも元気に出迎えてくれた。こちらはまた少し体が大きくなったようだった。
シャムも塩泉の占領を無事終えたようだが、こちらは浮かない顔だった。
曹操軍が撤退する時に、他の者に利用されないように、井戸を埋め立てて建物も破壊して行ったらしく、塩水が採取できなくなっていたという。
シャムとは対照的に習珍さんはさらに朗らかで、幸せな新婚生活を送っていることを隠そうともしなかった。
鐘離山に留まっている元漢軍の兵士たちは、前の戦いで主が戦死して空家となった民家に分散して居住し、習宏さんらの指示の下、島民の手伝いなどをして暮らしていた。
僕らが鐘離山へ帰還してすぐ、鐘離山の頂上にある白虎堂で、話し合いが行われた。
話し合いには、シャムやダレルやウーさんや島の主だった面々に加え、新たに住民となった習兄弟や馬容さんやその他漢人が数人、そして蒯先生と僕が参加した。
白虎堂の中は数ヶ月前に比べてとても広く、それもその筈、端っこに沢山積まれていた布が全てなくなっていたのだった。
この時の話し合いも、主にそのことについてだった。
凛君族を含む、漢人に五渓蛮と呼ばれる部族は、布で税を納めている。
税額は、大人一人につき布一匹、約十五メートルあまりで、子供はその半分を納めなければならない。
鐘離山の島民は、その年に納める布を、島の頂上にある白虎堂に貯め、年末にまとめて長陽の町役場に納めていた。
その一年間貯め込んだ布が、侵略してきた巴蛮族に全て持って行かれてしまったのだという。
税の布の件については、習珍さんやダレルがラオたちを回収に行ったときに、樊冑に釘を刺されている。去年の税がまだ納められてないから早く納めろ、と。
そして、前年の税については、前年の年初の人口に基づいて納めなければならないという。
元々は全部で千五百人くらいだった人口が、先の戦いで百人弱の成人男子が犠牲となり、その分も現在の島民が負担しなければならない。
それを、夏までに納めろというのは、原材料の麻の収穫も終わった冬の今では、もはや不可能なことだった。
来年まとめて納めるという案は、樊冑が頑として認めなかった。
お前たちは依然として反乱分子だ、それを私の恩情で武陵太守に取り次いでやろうというのに、恭順の証である税物が無くては、取り次ぐ元手もない、と樊冑はその内容に反して楽しそうな表情で言ったそうだ。
このことは、島民たちを大いに困らせた。
時間もないし、人手もないし、材料もない。
シャムなどは、『税なんて納めなくてもいいんじゃないか。また攻めてきたら今度こそ返り討ちにしてやる。』と考えるのを早々に放棄したという。
もちろんそんな乱暴な意見でまとまる段階でもなく、ウーさんたち年配層の提案で、とりあえず周りの集落から余った麻をかき集め、夏までに出来るだけ布を織って、それで当面は許してもらうよう樊冑にお願いしよう、ということに落ち着いたそうだ。
シャムたち若年層は、樊冑に頭を下げるのは嫌だと主張した。
巴蛮族の本拠地の巴都に殴り込んで、布を奪い返す、という意見も出たらしいが、今の凛君族には兵力も兵糧もなく、鉄の産地を持つ巴蛮族の方がよい武器を持っているのも知っていたので、誰も賛同しなかったという。
そして、その他にいい案もなかったので、仕方なく年配層の提案に従ってたところ、劉琦からもらった免状を携えた僕らが帰還した、という状況だった。
白虎堂の堂内で僕らは車座になり、劉琦の免状を真ん中に置き、鐘離山のこれからについて話し合った。
と言っても、凛君語で話す集団と漢語で話す集団とで分かれてバラバラに話すだけで、訳しまとめる人もいない雑談のような形で話し合いは進んだ。
しかしそもそも、凛君族の人たちはこのような免状を目にすることがなく、何が書いてあるのか、何を意味しているのか、を含めた説明をゴリさんが行った。
まず、この免状がある限り、我らは清江の魚を好きなように漁れるし、清江を挟む山々の獣を好きなように狩れるし、作物を好きなように採ることもできる。塩井の塩だって我らの自由にできる。漢人は入ってきて猟を行えない。
ゴリさんがこう説明したとき、凛君族の面々は、声を上げて床を叩いて喜んだ。しかし次に、でも税は免除されない、と説明されると、今度は分かりやすく不満の声を上げた。
僕らも帰りの船の中で検討したが、残念ながら、この免状では税は免除されない。『免賦』という文言がどこにも入っていないからだ。
劉琦との面談の際、そこまで頭が回れば書いてもらえたかも知れなかったが、考えが及ばなかったし、そもそも潘濬が見守る中でそんな過剰な要求を出すことは出来なかっただろう。
そこに、黙って免状を見つめていた習珍さんが、この免状によると、清江流域に漢人が住むには、凛君族の許しがいるようになるんだな、と言った。
馬容さんが、そうだな、と肯定すると、習珍さんは、そいつはいい、と言い、笑い声を上げた。
そして習珍さんは、この免状を使って樊冑からひと財産巻き上げようぜ、と言って、ドラマの悪役でもやらなそうな悪そうな笑みを浮かべた。
それから僕らは若干の打ち合わせをして、話し合いを終えた。
習珍さんとシャムと蒯先生は、性格が悪いのだろう、悪巧みの打ち合わせをしている時はとても楽しげだった。
「こんなのは大漢帝国の法を逸脱している、無茶苦茶だ!」
樊冑の呟きは全く耳に入らなかったかのように、習珍さんは続けた。
「さあ早くここから出て行け、でもこの屋敷の物は全て置いていけよ、清江流域の物は全て凛君族のものだからな。」
さらに追い打ちをかける習珍さんに対し、樊冑は食い下がる。
「このような横暴、武陵太守様は決して許さないぞ、今度こそお前たちは滅ぼされ、青史から消されるぞ。」
すると習珍さんは、最後通牒を渡すかのように、重々しく言い渡した。
「劉琦様の後ろ盾には、豫州牧の劉備様がいるのは知っているだろう、あの、皇帝陛下に叔父上と呼ばれた、あの劉備様だ。つまり、我らの後ろ盾は、劉備様だ。この免状に反抗するということは、劉備様に刃を向けるのと同じだ。お前が頼みにする、武陵太守様とやらは、戦になったら劉備様に勝てるのか?百万の曹操軍をも撃退した劉備軍に、一介の武陵郡の田舎城主が勝てるのか?」
樊冑は萎れてその場にしゃがみこみ、うなだれた。
実際は、劉備が後ろ盾なんてハッタリもいいところで、江夏では免状の存在が関羽に気付かれないように逃げ出してきたくらいだったが、このハッタリは樊冑にはよく効いた。
樊冑が萎れたところからは、蒯先生の描いた台本によれば、僕らの出番だった。
僕が、うなだれた樊冑にすっと寄り添い、抱き起こす。そして、言う。
「顔をお上げください。私達も決して争いは望みません。お互いに話し合って、穏やかに解決しましょう。」
そして、免状の最後の一項を指し示し、さらに言う。
「劉師兄、いや劉琦様も、漢人と凛君族がお互いに歩み寄って話し合って解決することを望んでいます。」
そこで、馬容さんが間に入って説明する。
「この者は、劉琦様と同門の兄弟弟子で、兄、弟、と呼び合うとても親密な関係なのです。この免状も、この者の面子によるところが大きいのです。」
すると、樊冑が顔を上げ、僕の服の裾にしがみついて泣訴する。
「少年、いや若君、この哀れな小役人をお救いください。このまま一文無しでこの町を追い出されては、行き場もありません。どうかご慈悲を!」
人の変わり身の速さというか、乱世における役人の立場の不安定さというものをまざまざと見せつけられる思いだった。
前に会った時には僕らを小間使いのようにあしらった人間が、今は泣いて慈悲を願っている。
そんな樊冑を、シャムが無理やり僕から引き剥がす。
『俺たちは先の戦いで大勢死んでるんだ、お前たち漢狗に殺されてな。そんな涙で許されるものか。まずはお前から血祭りに挙げて、この清江から漢狗どもを全て駆逐してやる。』
シャムは、いかにもドスの効いた声で、樊冑を脅しにかかる。ドスが効き過ぎて、笑いをこらえるのも大変なくらいだ。
少女はいつの間にか僕らの側に立ち、赤い唇をハキハキとよく動かして、シャムの言葉を樊冑に向かって訳した。
樊冑は少女の訳した漢語を聞いてまた怯えたが、そこに僕が素早く樊冑のそばに寄り、言った。
「そんなことはしません、劉師兄とその免状に誓って。ただし、樊冑さんも協力してください。劉師兄の治めるこの荊州で師弟の私が法を犯すことは、劉師兄の面子を潰すことになるので、税は元より治めるつもりです。しかし、用意していた布を奪われ、材料の麻もなく、先立つものが一切ないのです。なので、漢人と凛君族の友好のため、樊冑さんの寄贈におすがりしたいのです。」
こう言って、座り込んだ樊冑の目線まで恭しくお辞儀をする。
「そんな、差し上げるものなど……」と樊冑が言うのを遮り、「この部屋にだって沢山あるじゃねえか。」と習珍さんが言い、金の肘掛け椅子とか翡翠の玉環とか青銅の水差しとかに目をやった。
『ないとは言わせないぞ。この部屋だけではない、この屋敷にある金目のものは全部いただいていくからな。』
シャムは羽織った白虎の毛皮を翻し、着物の袖をまくって刺青を顕にして凄んでみせた。もはや族長なのか組長なのか分からない。
シャムの、やっちまえ、という号令を合図に、樊冑の屋敷の金目のものを、皆で運び出した。
樊冑が呆然と見送り、その横で僕が励ます。
「樊冑さんの善行は、私がしっかりと劉師兄に伝えます、これは投資です。劉師兄が荊南の実権を握った暁には、何倍にもなって返ってきます。」
樊冑が僕の手を離すまいと握ってくるが、それで投資した分が返ってくると約束される訳もなく、僕は悪役にも良い役にも成りきれずに、ただ曖昧に笑って樊冑に手を握られるままになっていた。
しかしそれでよかった。
悪役に徹せられない僕を見抜いて、蒯先生は僕にこの役目を与えた。
樊冑も、僕が彼に少し同情を寄せているのを見抜き、手を握ってくる。
素人の芝居だった。本心から出る感情が混ざらないと、真実味が伴わない。
偽善者というのは正しく今の僕のことだった。
運び出しを見てるとき、通訳の女の子が擦り寄って来て、島に帰りたい、と言ってきた。
県令のジジイがダサくてカッコ悪くて、落ち目だなと思ったし、久々に故郷も見てみたい、というような内容を凛君語で口汚く言ってきたので、知るか!と大声で言ってしまった。
確かに僕はこういう文明にかぶれて擦れた女性は好きではなかったが、何だかすっきりしない気持ちの八つ当たりをしているようで、我ながら格好が悪かった。




