第33話 骸骨
僕が目を覚ますと、そこは寝台の上だった。
右足首に若干の痛みを感じ、見ると布が巻かれていた。
蛇に噛まれて気を失い、それを誰かが治療してくれたようだ。
僕が寝ていたのは壁が木で作られ床が土むき出しの簡素な家の中で、窓の外は陽の光でとても眩しかった。
家の中には、金槌で粘土を叩くような鈍い音が、トン、トン、とゆっくりした一定のリズムで響いている。
外の光で明るさに慣れた目を再び暗い屋内に慣らすと、家の真ん中の辺りで、こちらに背を向けて胡座をかいて俯いている人がいた。
この人が救けてくれたのかな、と思い、お礼を言いながらその人に近づいた。
その人は灰色の地味な着物を着て、暗い部屋の中で坊主頭が白く光っていた。
この時代にもお坊さんがいたんだ、と思いつつ近づいていくと、僕の声が聞こえたのか、その人がこちらを振り向いた。
その人の眼窩は不気味に黒ずみ、口と鼻は大きく四角く白い布――マスクで覆われていた。
骸骨がマスクをしている!と僕はとっさに思った。
マスクをつけた骸骨が、棍棒のようなものを片手に振り上げ、こちらを見ている。
三国時代の次は異世界に迷い込んだのか、不味いぞこの状況は!夢であってくれ!と僕は混乱し、動けずに身構えるばかりだった。
すると、骸骨が棍棒を持ってない方の手でマスクを下げ、何かをしゃべった。
「ようやく目が覚めたか。足に痛みはないか?」
骸骨がしゃべったのは普通の漢語で、マスクの下は鼻も唇もあり、落ち着いて見ると痩せ気味の普通のお年寄りだった。
ここは現実の三国時代だったか、と少し安心し、だけどまたおかしな事に気付いた。
何でこの人はマスクをしているんだ、何でこの時代にマスクがあるんだ、と。
もしかしてこの人も二十一世紀から転移してきたのかも、と思い、『あなたも日本人ですか。』と日本語で聞いた。
その骸骨に似た人は、片側の眼窩を歪ませて怪訝な表情を作り、日本語が分からない様子を見せた。
その反応は、過去に僕の日本語を突然聞いた漢人たちの反応と同じだったので、僕もようやく冷静に立ち返り、最初に言うべきことに思い至った。
「ありがとうございます。あなたが私を治療してくださったのでしょうか。」
「礼には及ばんよ。それより傷口に痛みはないか。」
老人は、僕の感謝の言葉を間髪入れず遮断して逆に質問を返した。
僕が、ほんの少し痛みます、と言うと、じゃあまだ寝てなさい、と言って、作業に戻った。
見ると、お椀に入った植物か何かを杵で潰していた。聞こえていた音は、これだった。
「今、傷口に塗る薬を作ってる。作り終わったら塗ってやる。」
老人は無愛想ながらも説明してくれた。
お椀の中からは、薬草が潰された苦みと爽やかさが入り混じった香りがしてくる。
お椀の傍らには、草と苔のあいのこみたいな奇妙な植物があったので、手を伸ばすと、触るな!と強く叱られた。
「それは、貴重な薬草だ。九死環魂草といい、蛇の毒によく効く。でもそれだけだと効き過ぎるので、白芷や防風や蓬蒿などと一緒に搗いているのだ。」
僕は急いで手を引っ込めたが、この時代に来て初めて見た、この時代の医者らしき人物に興味が尽きなかった。
周りを見ると、部屋の端の方に机と椅子があり、水瓶やら小物入れやらが置いてあり、小皿の上には黒豆のようなものがいくつか入っていた。
その黒豆のようなものをつまみ上げると、老人が僕に言った。
「それは、気付け薬だ。一日につき一粒飲むとよい。だが、決してそれ以上飲むなよ。それは、見血封候という劇毒で作ったものだ。戦さでは鏃に塗って毒矢に使うのだ。多く飲んだら命はないぞ。」
毒だ、という言葉を聞いて、僕はそれをすぐに皿に戻し、手を引っ込めた。
窓の外を見ると、空は明るく、太陽が空高く上がっていた。
地面を見ると、雪が薄く積もって白く染まっていて、これが反射して窓の外がやけに明るく見えたんだな、と思った。
そう言えば、僕が気を失ったときは雪なんか降ってなかったな、と思い、ここはどこなのか、僕はどのくらい気を失ってたのか、と老人の方に振り返って聞いた。
そして、老人が顔を上げて、マスクを下げて答えようとしたところで、一番大事なことを聞いてないことを思い出した。
「その『マスク』は、どこで手に入れたんですか?」
マスクを指さして質問すると、老人は大きな隈に囲まれた目玉を大きく見開き、杵を置くのも忘れてこちらに迫ってきて、唾がかかるかという勢いで、僕に聞いた。
「少年はこの物が何だか知っているのか?」
老人は、マスクを外して僕に差し出し、僕はそれを受け取り間近で見たが、やはり僕たちがよく知ってるマスクだった。
僕は、これがマスクという名で、風邪を引いたときに口に当てて使うんだと説明し、しかしこの人はそもそも正しく使ってたし、こんな説明いらないんじゃないかと思い至り、どこでマスクの使い方を知ったのかと質問した。
「奇妙な患者がいて、その者がつけていたのだ。」
老人が答えた。その患者は、両手両足と胴体が筒状になった真っ黒な服に身を包んでいて、その口にはこのマスクが付けられていたのだという。
その言葉を老人から聞き、僕はあまりの興奮に、あっ!と大声を上げ、それから自分がどこを向いているのか、どういう体勢なのかが分からなくなった。
老人は僕を支えて椅子に座らせてくれ、お椀にお湯を注ぎ、気付け薬を一粒差し出し、飲めと言ってくれた。
薬を飲んでお湯で流し込むと、不思議と胸がスッキリした。
僕は呼吸を整え、気を落ち着けた。
マスクをつけて風邪を引きながら修学旅行に参加したクラスメイトは、僕の隣に座っていた青山君ただ一人だった。
つまり、この老人が言っている患者とは、間違いなく青山君のことだった。
僕は緊張しながら、その患者は今どうしているのか、と老人に聞くと、老人は溜息交じりに低い声で言った。
「この世を去ったよ、私が診てからすぐに。もう何ヶ月も前のことだな。」
この世を去った、という表現は、僕の耳にはひどく他人事のように響いた。この時代からいなくなって元の時代に戻ったのかも、というぼんやりとした希望のようなものを抱かせてくれた。
そして老人は、その当時のことを説明してくれた。
老人は、名を張仲景と言い、荊州の北にある宛という町で、医者をしていたという。自他共に認める漢方医学の大家で、特に流感には一家言持っているらしい。
ある日、書斎で書き物をしていると、曹操軍が押し入ってきて、上意であると張老人を連行し、張老人は馬車に乗せられ、この烏林まで連れてこられたのだという。
烏林では疫病が蔓延していて、その原因ではないかということで見せられたのが、学生服を着てマスクをつけて横たえられた青山君だったという。
彼は、ひどい高熱にうなされ、脈が乱れ、呼吸もひどく乱れていたので、老人がマスクを外して水を飲ませてやったが、その水も喉を入っていかず、その日の夜遅くに、老人が手を施す間もなく、息を引き取ったのだという。
その後、感染していた周囲の兵士も次々に死んでいき、老人は、その生涯を費やして編み出したあらゆる手段、あらゆる投薬を試みたが、その甲斐は全くなく、その後も、兵士たちはどんどん死んでいった。
張老人は、曹操軍の幹部たちから見限られ、司令部では祈祷師を呼んでお祓いなどをしたようだが、それも意味がなかったらしい。
そして、疫病の猛威に耐えられなくなった曹操軍は、ついに撤退した。
張老人は、自分の一生の研究をフイにしたこの流感がどうしても許せず、その治療法を突き止めるべく、烏林に留まり、治療法につながるヒントを探し回っているのだという。
張老人の話は、妙に詳しく話す部分と端折ってしまう部分とがちぐはぐで、理解しづらかったが、まとめると大体こういう内容だった。
僕は時折張老人に質問しながら話を理解していく中で、この人は確かに青山君の最期の数刻を看取ったのだ、ということを確信した。
そして、青山君はこの時代を去ったのではなく、死んだのだ、という事実が僕の心の中で形になっていった。
僕は、その患者と一緒にいたこと、彼は確かに風邪を引いていて、他人に移さないようにマスクをつけていたことを張老人に話した。
張老人はいちいち深く頷き、やはり普通の流感だったのだ、呪いや天罰のようなものではないのだ、と独りで呟いた。
そして、何故老人がマスクをつけているのかと聞いてみたら、こんな返事が帰ってきた。
「その流感に罹ってみれば何か分かるのではないかと思い、流感に罹りたくて、かの者が身につけていたこの面具をつけて過ごしてみたのだが、これが一向にかからないのだ。」と言い、張老人は手に持ったマスクを伸ばしたり縮めたりした。
張老人は、変な人だった。
風邪が引きたいからってマスクを訳も分からず何ヶ月もつけている人など、いくら二十一世紀の日本人がマスク大好きでも、そんな人は一人もいないだろう。
僕は、この人は変な人だと思うことで妙に安心し、もしかしたら青山君も死んでないのかも、という期待が再び頭の中で僅かに芽生えた。
それで、聞いてみた。患者だった人は、今どこにいるんですか、と。
すると、張老人は、黒ずんだ眼窩の中の暗い目で僕の後ろの何かを見つめ、指さしながら言った。
「そこにいるよ。」
僕は驚いて急いで振り返ったが、何もいなかった。
また張老人の方を向くと、張老人は相変わらず同じ方を指さしていた。
指さす方向を目で追うと、部屋の端の方に大きな葛籠があった。葛籠は、縮こまればひと一人入れるほどの大きさだった。
僕は妙な胸騒ぎを覚えながらその葛籠に急いで近づき、蓋を開けた。
蓋を開けると同時に香気があふれ出し、それが葛籠の中でいくつかに分けて束ねられた薬草から発したものだとわかった。
見ると、いくつかの薬草の束とともに、土色の素朴な壺が一つあり、壺には、木板でできた蓋が載っていた。
そっと持ち上げてみると意外に軽く、後ろから、そう、それだ、という声が聞こえたので、壺を取り出して机に置いて木蓋を持ち上げると、白くて丸いものが入っていた。
その白くて丸いものを持ち上げてみると、それは人間の頭蓋骨だった。




