第26話 県令
漢語 …「 」
凛君語…『 』
この話では上のように括弧を使い分けています。
「今回の件は、全く不幸なことで、我々の友好を妨げるような不適切な出来事で、ああいった方法が取られるなど、我々の誰にとっても、全く思いも寄らないことでした。」
僕らは何故かとても立派な部屋にいて、装飾の細かいとても立派な木の椅子に座らされ、前の壇上の中年男性の話を聞かされていた。
「いやだから、そういうあれは全て中央の役人が色々誤解して生まれたことで、何ともお詫びのしようもない。我々だって非常に困っているんですよ。税収は減る上に、駐屯軍の兵糧まで賄わさせられて……」
男は壇上でひときわ豪華な椅子に座り、金色に光った獅子が彫られた肘掛けに両肘を乗せ、上半身を前に乗り出して僕らの方に向かい大きな目を見開いて、悠然とした口調で話した。
男の名は樊冑といい、この長陽県の県令をしているのだという。
先祖代々荊北の名族で、彼の代に荊南に逃れてきて、武陵郡の郡守とも知り合いだったので、その伝手で今の地位に就いたらしい。
「我々の一存では何も決められないので、どうしようもなかったんですよ。あなた方を追い出したって我々の住める土地じゃないし、魚を捕ったり獣を狩ったりなんて野蛮なことはよく出来ないし、それこそ鐘離山に野盗が住み着いたりしたら、清江を安全に通れなくなります。」
樊冑の傍らには、凜君族らしき少女が直立し、樊冑の話す漢語を甲高い声で凜君語に訳していく。少女は化粧で顔を真っ白にし、地面と平行に強く引かれた眉は少しも動かさず、やけに赤い唇ばかりを早口で無感情に動かした。
化粧をした女性はこの時代に来て初めて見たからか、その少女の赤い唇ばかりが僕の印象に残った。
『こいつは一体何を話してるんだ?』
僕の隣の席に座っていたシャムが、僕の耳に口を寄せ、小声で聞いてきた。
シャムは、髭や髪をさっぱり整えて服も小綺麗なものに着替えており、さらに僕らに並んでゴリさんや馬容さんら何人かが座っている。
シャムは退屈しきった表情で、首を回したり指を曲げ伸ばししたり、暇つぶしの簡単なストレッチをしながら樊冑の話を聞いていたが、堪えきれなくなったようだった。
通訳の少女が凜君語に訳してくれてるし、通訳がなくてもシャムも漢語はある程度出来るので、語学的な意味で分からないと言っているのではなく、話の意図が分からないということだろう。
しかしそう聞かれても、僕にも分かるわけがなかった。
僕らは調査のため数人で長陽の町に入り、凜君族の商家を訪ねたところ、丁度県令からのお願い事があるとかで、突然ここに連れて来られたのだ。
その商家の人に裏切られた、役人に告げ口された、と思っていたところ、立派な部屋に通され、立派な椅子に座らされ、飲み物まで出されて歓待されているのだ。
県令の部屋は鐘離山の族長の家より立派で、綺麗に磨かれた鶴や亀の銅像や銅鑼や、今座ってる細かい透かし彫りの入った椅子だとかは、族長の家にはない精緻さがあり、僕が頭の中で思い描く中国の伝統的な部屋のイメージ通りで、僕も気持ちが昂ぶり、県令の話は正直に言うとあまり頭に入ってこなかった。
狐につままれてるような状況の中で、さらに狸に化かされているような状態だった。
「我々みたいな田舎の小県に住む者は、中央の思いつきで起草された疎漏な政策にいつも右往左往させられています。中央で起こった微風は、地方の末端に来た頃には暴風となって、我々の暮らしを乱して回るんです。我々は皆苦労させられているんですよ。」
樊冑の話は通訳の少女により、淡々とした凜君語に訳されていく。
こちら側では、シャムが僕に小声で話しかけたのを皮切りに、ざわざわとし始めている。
それでも樊冑の話は止まず、僕らが痺れを切らしたのを察したゴリさんが、漢語で恭しく言った。
「私たちにも分かるように短く簡単に話してください。」
ゴリさんの言葉は、自分たちが理解力に劣る智力の足りない民族だと言っているようにも聞こえ、ひどく卑屈なようにも捉えられるが、これがゴリさんの漢人と交渉するときの技なのかも知れなかった。
実際に樊冑も、それはそうだ、とゴリさんの言葉をすんなりと受け入れ、直接的なもの言いに変えてくれた。
その内容は、その時の僕らにとってはまさに渡りに船と言えるものだった。
「撤退の指令が下り、鐘離山からも多くの兵が引き上げていったが、一部の兵たちがまだ鐘離山に残っていて、そればかりか兵糧の催促をしてくる。当面は兵糧を渡してるが、引き上げる気配もないので、追い払って欲しい。武器も兵糧も船も十分な量を支給する。追い払ってくれたら、その後鐘離山に住むことも認めるし、今まで通り税を納めてくれれば、武陵へもうまく言っていいようにする。」
こういう内容だった。
渡りに船どころか兵糧も武器も付いてくるという、僕らにとっては話がうますぎて、何か裏があるんじゃないかと島の皆でさえ疑うような話だった。
「漢軍の兵は今島に何人残っているんだ。」
馬容さんは、軍人らしく戦いに関することを即座に聞いた。
「百人もいないはずだ。」
樊冑は目をやや細め、素っ気なく答えた。同じ漢人には少し冷たいようだ。
『抵抗してきたら殺すけど問題ないか?』
「軍令違反者は斬首と決まっている。むしろ皆殺しにしてくれると、こちらの手間も省ける。」
ダレルが凛君語で聞き、少女が通訳し、それに樊冑が漢語で答えた。にこやかな表情で随分残酷なことを言うな、と思ったけど、それがこの時代の役人の感覚なのかもしれない、とすぐに思い直した。
『武器と船を見せてくれ。』
続いてノックが聞いた。やはり皆も疑っている様子だ。
すると、樊冑は僕たちを先導し、武器庫の中と港に泊まった船たちを見せてくれた。そのどちらも申し分なく、船なんかは鐘離山の船よりも一回り大きく立派なものを八艘も用意してくれた。
シャムたちは、船や武器を実際に目にすると、目に見えて気持ちが高ぶり、槍や弓を手に取って、振り心地やしなり具合等を試していた。
僕も手持ち無沙汰に見えるのを避けるため、身近なところにあった長剣を鞘から出して振ってみたものの、だからと言って何の感触も得られなかった。
船着場に移動し、船も一通り見終わると、シャムは槍の石突で船底を小突きながら樊冑の方を睨みつけ、ゆっくりと漢語で言った。
「俺たちは、自分の島を奪い返しに行くだけだ。お前たちのお遣いで行くんじゃない。それから、お前たちに殺された仲間たちのことを思えば、こんな武器や船で俺たちの気持ちが収まるなどと思うな。」
樊冑は特に動じた様子もなく、微かに微笑みを浮かべつつ、言った。
「私もそれについては非常に残念なことだったと思っていますが、私たちのような辺鄙な県の権限ではどうしようもないんです。私も今後凛君族が漢人と有効な関係を築けるよう尽力します。どうか一旦話を持ち帰って、年配者の方々とも一緒に話し合ってください。」
僕はシャムの喧嘩を売るような態度に内心冷や汗をかいたが、樊冑が思いのほか温和な態度で返してくれ、少しほっとし、この人はいい人なんじゃないかと少し思ってしまった。
樊冑の言った言葉を後から振り返ってみれば、自分たちには責任がないと言い、さらにシャムを若輩者と小馬鹿にしてあしらったんだと分かるが、当時の僕ときたら、表面の態度だけを見て、言われた言葉の本当の意味なんて考えもしなかったのだった。
それから僕らは食料を持ち帰り、清江の対岸の集落で僕らの帰りを待つ島の仲間たちのところへ戻り、顛末を話した。皆が安堵の色を浮かべ、すでに鐘離山へ帰れたかのように喜びを表していた。与えられた食料は、粟と干し肉と漬物だけだったが、皆がとても美味しそうに食べていた。




