第七話 闇の中の泣き声
『……お…て……。起きてシュウゴ……』
何だか誰かが俺を起こしているような気がする、いつの間にか寝てしまったようだ……。
『こんな所で寝ちゃ駄目……、早く起きて……』
どうやら俺は寝たらいけない場所で、夢も見ない程の深い眠りの底に居たらしい、きっと誰かが気を使って起こしてくれたんだろうと思う。
そう俺は考えて、優しく起こす声へ、未だに眠気に包まれた頭を動かして返事を返す。
「すまん……、いつのまにか寝てたみたいだよ……」
いつから寝ていたのかも思い出せない位、頭の中にかかった眠りのモヤは晴れないが、それでも折角起こしてくれたのだからと思い、眠気で重たい瞼をなんとか開いてみた。
だが、開いた目に映るのは闇だけで、その状況に俺の口が答えを求め、疑問を誰かに投げかける。
「こ、こは……?」
寝ぼけ頭でも今を奇妙な状況だと思い、胡乱だ頭で前後を思い出そうとするが、疑問を塗りつぶすような眠気が襲ってきて意識は滲み、そんな事など気にせずに寝てしまいたいと瞼が重くなっていく。
『眠ってはダメ、眠っては駄目なの、貴方は彼女の幸せを願い、呪から救うと決めたのでしょう?』
遠くに居る誰かが、自らが願い己が成そうとした事を成せと語った声が耳の中で響いて消えると、昏い薄靄で彩られた眠りの世界へと、ゆっくりと沈もうとする意識は、その言葉の意味を考えた。
『貴方が彼女を救うの、他ならぬ貴方自身の為に……』
「俺が、願い……、救う……」
俺を起こそうとする誰かが告げた言葉を口にした瞬間、眠りに沈みかけた頭に何かが掠めた気がして、脳内でその姿を追いかけ、追いついた先には品の良いお仕着せに身を包む女性の姿があった。
「セラー……、ネ?」
その瞬間、俺は自らがどうしても救いたいと願った孤独な女性が、黄昏の内で呪の腕に囚われて泣き崩れる姿を鮮明に思い出した。
瞼の裏に映しだされ映像が、衝撃となって脳内を駆け巡り、意識は激しく揺さぶられ一気に覚醒し、自らが救おうとした女性の名前が焦りと共に喉の奥から飛び出した。
「セラーネッ!クソっ、ここは一体何処だ?!」
辺りは真っ暗で何も無く、 叫ぶと同時に闇に伸ばした手は、彼女の姿を探すが虚しく空を切る。
自らが置かれた状況が全く分からないが、呪の闇を完全に跳ね除けた脳内は、闇に囲まれた状況に焦りを感じ、姿の見えないセラーネの無事を確かめたいという気持ちばかりで満ちており、俺は焦燥感の中で辺りを叫びながら見回した。
「俺はっ、俺は間に合ったのか?彼女は無事なのかっ?」
是が非でも探し出し彼女を救わねばという焦りの中、俺は精一杯声を張りあげ、両手を振って闇を押しのけながら、未だ見えないセラーネの姿を探し求める。
「セラァーネッ!どこだっ、何処に居る!俺はここに居るっ、聞こえたら返事をしてくれ!」
必死に叫んだ声に返事はなく、辺りを見回した眼に暗闇以外は何も映らず、精一杯伸ばした手に告げられたのは、不快な質量感を感じさせる無限の闇を、虚しくかき混ぜた感覚だけだった。
この身が掴んだ事実は、己が闇に溶けてしまう様な場所で無様にも意識を失くし、自らが呪の中でただ揺蕩う様に存在していたのだと告げ、心中に危機感と警戒心が増していく。
「俺は、また呪に引きずられた、のか……?」
焦ってはいけない、そして間違ってもいけない、そうでなければ闇に呑まれてしまう場所なのだと、危機的状況に頭は自らの存在と現在の状況を理解し、ここに至る経緯を思い出そうと状況を必死に整理して、自身の焦りに鐙を付けて飼い殺す事に成功した。
もし奴らの思惑に乗って考えなしに事を運んだなら、助けたいと願った人をもう一度喪う事になると、これまで呪と対峙した経験が痛いほど俺に忠告をしてくる中、一つだけ溜息のような深呼吸をして、思い出したことを順番に並べ始めた。
「あの時、俺は彼女を助けようと手を伸ばした筈だ……」
絶望が醸し出した宵闇の中、呪が形作った人影がセラーネを飲み込まんとする中で、動かぬ身体を引き摺りながら彼女に手を伸ばした筈で、その時に呪の瘴気によってあり得ぬほどの苦痛で悲鳴を上げていた身体は、今は全く痛むことがない。
恐らくは転生神に大精霊樹で引きずり込まれた肉体から切り離された精神空間、魂だけが存在する世界と同様の空間なのだろうと思う。
俺の指が彼女の服に指が届いた時、何かが手を引く気配を感じた、ヘスノの時と同様に、どこか別の世界へ『引きこまれた』感触があった。
「セラーネに手を伸ばした時、誰かに引っ張られたような気配はあった、だが……」
この腕に僅かに残る感触は転生神が纏っている様な、理解しようのない悪意とまったく違うもので、誰かを救いたいと願う暖かさが確かに感じられるものだった。
どうして別の手に引かれたのかは解らないが、ここは光すら届かず、自らの存在の輪郭すら滲んでしまう場所であるのは変わらない。
理由がわからぬ以上は今まで悪意によって引きずられた世界と同様に、警戒すべきだろう。
そう俺が考えを纏めると、ここで対峙した神を名乗るモノ、如何にも作り物のような安っぽい老いた姿と声を持つ、転生神が残した言葉が記憶の底から蘇り、俺はその言葉を口ずさんだ。
「永遠の終焉……、確か奴はそんな言葉を言っていたな……」
たった一人のための絶望とその孤独の幸せを描く、永遠の終が支配する世界、残酷な神が糸を引く世界を犠牲にした人形劇に、その喜劇の舞台裏。
大精霊樹の中で引きずられた時は、俺は口を動かすことしか許されず、狂った喜劇役者が主役の悲劇を、ただ目の前で起こる劇を見続ける観客となった。
そんな舞台へ己が再び連れて来られた事には何か理由がある、ある筈だと考えを巡らせていくが、上手く理由が見つからず苛立つ様に独りごちる。
「また俺を苦しめる為だけに、誰かを利用する気なのか……?」
俺の呟いた声すら何もなかった様に闇に食われて消えてしまうが、それでも恐れてはいけないと考え続ける。
今はそのような風景は見えないが、多くの人の絶望を糧に咲く華は醜悪で心を鑢で削られるように苦しみ悶えたが、今なら惑わされる事もなく戦えると思うので、今更奴らが同じ手を使うようには思えない。
「人を苦しめるための悪夢……、まさか……」
奇妙な確信が心の中に湧いてきて、それを確かめようと俺は再び口を開く。
「もしかして、奴らの狙いはセラーネかっ!」
多くの絶望を糧に育った悪夢からすれば、己に混ざることがない俺という存在が、自らの立ち位置を理解したのが恨めしいらしい、導き出した答を肯定するように、闇から身体を飲み込まんとする無数の手が伸び、全てを蝕まんと襲いかかってくる。
「クソッ、人が答を理解した瞬間に襲ってくる辺り、やはりあの腐った神の世界だなッ!」
俺は心の炉にセラーネを救いたいという願いを焼べ、心の炎を強く燃え上がらせて、自らを喰らわんとする漆黒に青い炎を放って抵抗をする。
虚無の闇から無数に伸ばされた手を舐めるように炎は燃え盛り、空色に澄んだ光が全てを包んで焼き尽くし、何も残さずに浄化した。
心の炉に宿る願いの炎が俺の想いに呼応して燃え盛って勢いを増すと、獲物が手強いと理解したのだろう、悪夢の指先たちは諦めたのか大人しく闇の中へと消えていく。
「どうにか追っ払うことは出来たが、状況はあまり良さそうではないな……」
大精霊樹で転生神と対峙した時と比べ、心の炉が湛える炎は随分と大きさを増したと思うが、それでも深淵は変わる事を拒み続け、己以外の存在がこの目に映る事はなく、闇の深さは変わらずにセラーネを隠し続けている。
「闇が深い、だが、この深淵の中にセラーネが居るはずだ、俺はそれを見つけ、救いたい……」
俺は胸に手を当て、今まで一緒に戦ってきてくれた相棒に語りかける、彼らの思いに今までずっと助けられてきた。
無数に襲い掛かってくる闇の中、無様に意識を失っている間に己の輪郭を保てたのだって、闇から願いと優しさで俺の形を、俺という存在をその温もりで証明してくれたからこそ、一人の人間として自らの輪郭を保っていられた。
今、俺が一人でここに居たとすれば、無事に存在を保つことは叶わなかっただろう。
そう、俺は一人じゃない、顔も見えない、声すら分からない誰かの想いに支えられてここに居る、そしてその全てはきっと、彼女を助けたいと願っている筈だ。
炎が返事をするように小さく揺れるのを感じ、俺は独りではない、胸に宿る沢山の思いが己と共にあると、決意を新たに眼前に広がる無限の闇を睨みつけ、彼らの願いに感謝を持って応えたいと、言葉にして思いを告げる。
「ありがとう……、彼女を迎えに行こう、俺達を待っているはずだ」
セラーネを探そうと願いの炎に告げた時、俺の想いに呼応するように炎は火球の様な広がりを見せ、晴天の湛える天色でもって漆黒の空間を焦がし、質量を持つ闇と激しく競い合はじめる。
すると、己の心臓の音が聞こえる無音が支配していた世界に、全てが死に絶えた終わり世界に初めて別の生命の音、赤子の泣く声が鼓膜の片隅に引っかかった。
「声だ!赤ん坊の泣き声が聞こえた!」
微かに届いた生命の証に向け意識を集中させ、辺りの気配を探す俺の耳に、小さな赤子が泣いている声がはっきりと聞こえてきて、自らが幻聴を捉えたのではないと確信をする。
だが闇は、その声の主の居る場所を隠したいのだろう、俺を翻弄しようと声を走り去るサイレンの様に何度も何度も歪ませてくる。
呪によって揺さぶられ時に近くに、時に遠くへと、波のように揺れて返す泣き声は、俺から遠近感すら奪っていくが、それでも小さな泣き声を聞き逃すものかと、必死になって祈るような気持ちで探し続ける。
「君はどこに居る……、頼む、君の場所を教えてくれ……」
「…ギャア!オギャア!」
焦りと共に捧げた祈りが届いたのか、幼子の泣き声に意識を集中した成果なのか、赤子の一際大きく泣いた声が耳朶を打ってきた。
「そうかっ!下だ、下から聞こえるんだ!」
赤子の大きな泣き声のお陰で俺は、ここがこの世界の底なのではなく、もっと下にも空間が広がっているのだと理解したが、俺自身も闇の中に一人浮いているような状態で移動方法が解らない。
「声のする方向は分かったが、どうすればそこへ行ける?」
肉体に囚われない世界には重力は無く、そもそも移動する方法自体が全く解らない上に、移動できるかも解らないが、これなら移動できるかもしれないと思い浮かんだ案を試すことにした。
「闇が炎を嫌うなら、これならどうだ?」
俺は足元の向け炎を放つ、すると暖かな炎を嫌う闇は裂けるように広がり、その後には縦穴が開き始め、この方法が正解だったのだろう、少しだけ声がはっきりと聞こえるようになった。
「よし、これなら行けそうだ、行こう!」
炎によって出来た縦穴に我が身を沈ませていくと、もともと強かった闇の圧力は下に進めば進むほど圧を増し、更に今まで味わった事の無い、奇妙な浮遊感と落下感が全身を支配した。
その感覚はまるで海にポッカリと空いた、周りの見えないブルーホールの闇の底へ向かう潜水士になったような気分で、少しずつ増していく圧力は体が潰されて消えそうな感覚を覚える。
それでも闇の作る強い圧力に負けずに声のする方へ進んでいくと、急に辺りが少しだけ明るさを思い出したかのように、ぼんやりと光ったと思うと、何かの風景とすれ違っていく。
「これはなんだろう?何かの風景のように見えるが……」
幾つもの景色や人物の姿が去来していく、それはまるで陽の光も届かぬ深海に住む魚の様に遊泳し、闇へと深く沈み込む俺の側に何度も近寄っては、ゆっくりと遠くへ通り過ぎて行く。
下りながらも覗きこんだ風景に見える人の顔は、闇の深さを増すに連れ若返っている、俺の目に映って消えるこれは、誰かの記憶の断片なのだろうと思う。
「さっきから良く出てくるあの人、セラーネによく似ているな……」
暗闇の中で揺らめきながら輝く幻想的な風景に、セラーネらしき姿も見える辺り、セラーネの記憶かも知れないと考え始めた。
すれ違う風景は、己の勘が間違っていないと証明するように、徐々に彼女に似ている褐色の肌の少年と、恐らくは両親と思われる歳若い夫婦の姿を描くものへと変わってゆく。
その風景に俺が終わりの近さを感じると、足元から気泡のような光の玉が少しずつ出てくる場所がぼんやり見え始め、僅かにしか聞こえなかった鳴き声が大きくはっきりと届いてくるのを感じ、俺は深い闇の底へ辿り着いたのだと感じた。
「どうやらここが、俺の目的地らしいな……」
俺がそう思った時、何かに足先が触れたと思うと、薄い氷を破るような感触を感じ、黒一色だった世界に光が灯り、ゆっくりと景色が変わっていくのを感じ始める。
深く潜って辿り着いた呪の本拠地だ、これからは何が起こるか解らないだろう、場合によってはいきなりの戦闘になるかもしれないと、格闘の素人である俺が無手でどこまで戦えるか分からないが、それでも両手を前にした半身の構えをとって周囲を警戒する。
だが、そうした俺の警戒心は、完全に浮かび上がった景色によって途切れることになる、辿り着いた深海の先で待っていた景色が、余りにも予想外だったからだ。
闇に慣れた俺の目が漸く落ち着いてくると、精緻な刺繍が施された敷物、菱型の木組みの骨組みを撥水性のある毛織の布で包んで作られた壁、そこから伸びる弓なりの中央の円を支える様な天井が飛び込んでくる。
「ここは……、穹廬なのか?」
他にも様々な毛皮が敷き詰めら寝台や、平原のものとは異なる様式の弓や革張りの軽量な盾が飾られており、まるで何時か何かの本で読んだ遊牧民の移動式住居、その代表格とも言えるモンゴルの伝統的な穹廬に良く似ている雰囲気だった。
予想外の雰囲気に困惑しながらも、何故自分がここに来たのかを思い出し、辺りを見回して未だ見つける事が出来ない彼女の姿と、己をここへ導いた泣き声の主を探すのだった。




