第五話 彼女の咎と罪
この部屋の上級侍女、いや、今では奴隷身分となったセラーネは、客人を持て成す役目を果たした茶器にそっと手を伸ばすと、なにか思いついた様に語り始める。
「 草原に吹く微風の様な気持ちのよい、本当に素晴らしい殿方でしたね」
特に意味のない沈黙を嫌った場を繋ぐだけの話題と思ったが、それにしては郷愁や懐かしさが多分に詰まっていた。
そんな懐かしげな声に俺は興味を惹かれ、彼女を見る為に首を動かすと、そこには優しげな笑みを浮かべ、役目を果たした茶器を労うような女性の姿があった。
俺は目の前に広がる完璧な調和をもった美しさが、高名な画家の描いた一枚の絵画だと言われても信じただろう、この景色が強い光の様に眼球に飛び込んで神経を通って脳内に焼きついた頃、俺は呼吸すら忘れてしまっていた。
窓から入る精霊樹からの木漏れ日すら計算されていると信じてしまう程、特別な芸術然とした陰影が、全ての部屋の調度はセラーネという、たった一人の女性の美しさを誇り飾り立てる為にあると主張してきたのだ。
彼女の身を包む機能性を重視したお仕着せは華美ではなく、むしろ保守的にすら見える形状であり、ともすれば地味とさえ言える意匠なのだが、その控えめな品の良い仕立ては、女性が持つ気品ある立ち振舞と寄り添うことで完成する、緻密で繊細な計算の上に出来ていたのだと理解した。
長く波打つスカートが女性らしい滑らかな曲線をより優雅に、皺の一つもなく清潔感を湛える白い前掛けが手入れの行き届いた長い黒髪と、手触りの良さそうな滑らかで張りがある褐色の肌を際立たせる。
美しさを惜しんだ窓枠が今という瞬間を切り取って永遠に閉じ込め、女性が持つ上品の中に隠された、肉の質感、倒錯めいた美しさを伝えている。
などと全くあり得もしない錯覚を覚えた愚かしい俺は、この瞬間を邪魔しないよう、調和が崩れてしまわないよう、ただひたすらに息を潜めて見つめ続けた。
「シュウゴ様?どう、なさいました?」
俺がどれだけの時間、彼女の美しさに見惚れて居たのか解らない。
だが、余りに間抜けな俺の姿を不思議に思ったのだろう、彼女の発した少し訝しむような声音で意識を現実に引き戻された。
その瞬間、俺は目の前の女性を熱心に見つめていたと気付き、情けないほど慌てて恥ずかしさを隠して前の会話を思い出す作業を行い、どうにか彼女の言葉に返事を返す為に口を開く事に成功した。
「あっ、ああっ!ロドンダさんは本当に尊敬に値する素晴らしい人だと思う、俺は彼に出会えて幸運だったよ!」
残念な俺がなんとか絞り出した声は無駄に早口で、自分でも情けない位に動揺を隠せていなかった。
「シュウゴ様……、傷の調子がよろしくないのでしょうか?それとも来客で……」
俺の不審極まりない言動が駄目だったんだろうな、セラーネは片付けをやめてベッドの側に来て、横になっている俺と目線を合わせるために跪いて様子を伺ってくる。
彼女の見せた視線には、まるで幼い自分が怪我をした時に、母が目線を合わせて心配してくれたような慈しみがあり、俺の胸の中になんとも言えない照れくささが沸き起こってくる。
優しすぎる視線に顔が赤くなっていくのを感じてしまい、自分の情けなさと恥ずかしさで思わず顔を手で覆ってしまう。
「い、いや!か、体は大丈夫だ!心配、してくれて、ありがとう……」
「そう、ですか?そう仰るのでしたら良いのですけど……」
如何にも不審極まる俺の行動を見た彼女は、言葉こそ腑に落ちない感情を滲ませたが、それ以上の追求を敢えて行わずに居てくれた。
彼女が立ち上がり自分から離れた事で、安堵と少しの落胆が胸によぎったが、セラーネは片付けて貰う機会を逃した茶器が鎮座しているテーブルへと、背筋の伸びた気品を感じる歩みで向かう。
その美しい彼女の後ろ姿を、顔を隠した指の隙間から見つめ、瀟洒という言葉はこの時を表現する為に有るのかもしれない、などと馬鹿な事を感じながら見惚れてしまう。
「草原の暮らしで家畜は、勇敢で優しい主でなければ付いてこないのです。ですのでロドンダ様のような御方は、草原の神ザルイド様が遺された御言葉を忘れずに生きる方と言われ、草原の香りを纏った魂の持ち主として尊敬されますわ」
彼女は数歩先のテーブルへ辿り着き、長らく放置されていた茶器に触れながら、彼女は故郷の古い言い伝えを漸くまともに動きだした俺の頭に投げかけてきた。
草原の神が遺した言葉の意味を理解して生きる、現代日本で生きていた以前の俺では、彼女が語った言葉の真意を理解する事は少しばかり難しかっただろう。
だがこの世界を巡り、ロドンダさんという生き様を目に触れる事が出来た今の俺なら、少しだけその片鱗に触れる事が出来るような気がした。
「草原の香り……、か。ロドンダさんのパウは凄く懐いていたし、彼らは互いに深く情を通わせていた、よく分かっていない俺にすら、なにか特別な繋がりを感じさせる何かが確かにあったと思うよ」
彼女の言葉に答えると、ふと脳裏に流鏑馬神事の時に馬を借りた牧場主が言っていた言葉が蘇り、彼女の言葉への理解の一助になった。
彼が教えてくれたのは、人と動物という互いに違う生き物の間に繋がる信頼は、ペットのように愛玩動物としてではなく、ともに生きる仲間として触れないと芽生えない感情であるという言葉だった。
普段の俺達は、人間本位の社会では忘れているが動物にも感情も愛情も有るし、きちんとした家畜との共存は現代人が思っている以上に難しい。
俺達は家畜の感情や生き方などは尊重せず、ただ効率と結果だけを求め、まるで工業製品のように小さな箱に閉じ込めて飼育するのが殆どになっている。
そんな現代のような飼育状況ならば、家畜たちはロドンダさんの事を大事に思うはずもなく、彼が家畜から搾取するだけの人間なら、パウはその思いに応えようと泡を吹くまで働きもしないどころか、まともな意思疎通すら困難だと思う。
「そう、まるで故郷の草原へ戻ったかのような……、とても芳醇な土と草の香りがする御方でしたわ……」
俺の言葉を聞いたセラーネは、何かを懐かしむような声で返事をすると、悲しみとも諦めとも取れる暗い表情を浮かべ、空のカップに視線を落とす。
誰も話すことのない部屋で暖炉で静かに薪を舐めていた炎が、その均衡を打ち破るかのように小さく爆ぜ、その音が消えた頃、彼女は表情をどこか不自然な程によく出来た笑顔に変えてしまう。
「ご子息を失いご自身も傷ついて居るのに、それでも誰かに手を差し伸べられる人は中々おりません、そういった方と縁を結べるのも、きっとシュウゴ様の持つ高徳の賜物ですわ」
彼女の見せた暗い表情に隠された真意、それはセラーネが奴隷になってしまった改悪に関わっているのだろう、何かが俺にそう語りかけた様に確信めいた感覚が胸の中に宿る。
だが同時に胸に宿る確信自体が、彼女の胸に隠された理由を無理に聞くべきでないと訴えてくるので、今は自分が戦いの中で感じた思いを口にした。
「俺に素晴らしい徳があるかは分からないけど、ロドンダさんについては君の言う通りだと思うよ。俺一人じゃ無力だった。皆を照らす英雄になろうと決めて無様に足掻いてるけど、やはり一人では何も為す事が出来なかった。沢山の人の力と思いを借りて俺は、漸く希望に指を掛けて手繰り寄せた」
彼女は俺の告げる言葉を何も語らずに耳を傾け、その二つの瞳は凪いだ海のように静かに見つめ続けている。
そんな彼女の瞳と視線を絡ませて、俺は続きを語りだす。
「この世界で出会った多くの人が俺に力を貸してくれた。それはロドンダさんだけじゃない。繰り返す世界の中でセラーネも何度も協力してくれた。今回だってロリーエとエレレファを守る為に危険を承知で応援を呼んでくれたんだろう?」
王女の身体を奪った呪持ちの猛攻は、まるで暴風のような恐ろしい物だった。
そんな攻撃をロリーエとエレレファが、盾役のレーミクを欠いた状態で抑える事は厳しい、きっと彼女の機転がなければ恐ろしい結果が待っていただろう。
そんな未来を想像しただけで、絶望の持つ冷たく鋭い牙を突き立てられる恐ろしさが沸き上がり、俺の心に凍えるような痛みが走る。
「それだけじゃない、君が色々と動いてくれたからこそ、レーミクとレイガスは家族の絆を失わずに再びやり直すことが出来た、俺はずっと君に助けられてきたんだよ」
レーミクとレイガスの未来を俺が諦める事なく、繰り返す昨日と決別出来たのは、そのたびに何度も目の前に居る女性が助けてくれたお陰だ。
もし彼女の助力がなければレーミクを失い、未だに繰り返す世界に閉じ込められたまま、より多くの思いや尊厳を穢され、沢山の人が命を失意の中で失って行く地獄に、俺は一人で取り残されたと思う。
「それは侍女としての勤めです……、シュウゴ様、どうかお気になさらずに居てくださいませ、私はただ己の勤めを果たした、それだけに過ぎません」
彼女は自らの心を隠したまま、非常によく出来た作り物の笑顔を浮かべて返事をするが、俺は彼女の笑顔を少しも理解したくない。
誰にも助けを求めず、たった一人で孤独で抱え絶望の底に沈むと決めている笑顔など、一寸たりとも納得ができない。
彼女の悲しい決意を滲ませる笑顔が気に入らない、そんな姿に納得なんて一つも出来るはずがない。だから俺は彼女の過去に踏み入ると決意を、目の前に居る女性の抱えた絶望に手を伸ばすと決めて、ゆっくりと自分に言い聞かせるように語りかける。
「俺はこれから先ずっと、この世界で苦境に立ち向かい悲しみに暮れる人に手を伸ばす。それが全ての想いに答える術だと信じている」
ここで今は借り物としか言えない立場、英雄という世界から与えられている世間体を利用してしまえば、作り笑いとお仕着せの奥に隠された過去を浅ましく暴き、無理矢理に覗くことは出来るかも知れない。
「その世界に君も居るんだ、俺が希望で照らしたいと願った人に、セラーネ、君が居るんだよ」
だがセラーネが自ら秘めた心を抉じ開けて土足で踏み入って、傍若無人に蹂躙する様な行動をしたいとは思えない。
「今の言葉に嘘はない、もし君が誰にも言えない絶望の底にいるのなら、いつの日か俺の手をとってくれると嬉しい、そう願い、思っているよ」
彼女が聞いて欲しいと願った時、そして助けを求めてくれた時には全力で応えたいと、自らの心に宿る思いを言葉の奥に込め、まっすぐその瞳を見つめながら決意を語る。
「ですが、私は……」
彼女が何かを言いかけて押し黙ると、部屋に再び長い沈黙が訪れ、俺達は互いに視線を絡め無言で見つめ合いながら時を重ねる。
二人の間にある沈黙に部屋自体が耐えられないのか、薪を舐める炎の音だけが支配する部屋で、炎を纏った薪は何度か爆ぜてみせた。
同じように窓が沈黙に耐えられないと、神宮に備え付けられた鐘楼の鐘の音を届け、正午になったと、部屋に響かせた。
その全ての残響が消えてしまった頃、セラーネは何かを確かめるように視線を宙に巡らせてから、少しだけ震える唇をそっと開いた。
「シュウゴ様は怖い殿方です。女と言うのは殿方と約束を交わした大事な思いを、殿方が思っている以上に秘め事として大事に心に想って生きていけるのですよ」
右手で左手を掴んで胸に押し付ける彼女の姿は、まるで心の奥から何かを絞りだすように苦しげで、同時に、何か大きな秘密があるが言えないと言外に語っているように見えた。
「なのに私のような女にまで軽々しく甘い事を言ってしまうのですから、本当に怖いお方だとしか言えませんね……」
目の前に居る美しい侍女が何を耐え、何を秘めているのか内容は解らない、
「怖い……、か。でも俺が目指す英雄というのは、より多くの人を希望で照らす事が出来る存在だと思う。そして絶望から希望を手に入れたと思った時に、誰かを喪うことが怖くなる事も知ったよ」
先程から彼女はずっと、胸のあたりで右手で左手を固く握りしめて前掛けに押し付けたまま、俺の言葉を聞いている。
この話を始める前、彼女が纏うお仕着せの前掛けは、まるで新雪のように滑らかな曲線を描いていたが、今ではもう、セラーネ自身の両手によって押さえつけられ、胸の辺りにはひび割れのような深い皺が刻まれていた。
その胸元に刻まれた深い皺は、己の冒涜的な思いと身勝手な行為が彼女に深い傷跡を刻み付けていると訴えているようで、自らの胸にも罪悪感を深く刻みつける結果を生み出した。
それでも俺の胸の中で心に湧いた確信は、ここで逃げてしまえばセラーネは二度と心を開く事はないと激しく警鐘を鳴らしている。
俺はもう逃げるという選択肢は選べない、進むという選択肢しか選ぶ事が出来ないと理解した。
「だからこそ、俺は君にこの手を掴んで欲しい、君を救う機会を俺に与えて欲しい、そう願っている」
「後生です、シュウゴ様……。もう私のような端女を誂うのはおやめください……」
彼女は一筋だけ涙を溢して、泣きながら自虐的な作り笑いを浮かべる。
「私はもう……、二度と草原に戻れない。それだけの呪いを持って生まれ、大きすぎる咎を背負ってしまったのです……。そんな私に、戻れない私にシュウゴ様が見せてくださる思いは、残酷で優しすぎます……」
痛々しくて見ていられなくなって、俺は言葉を重ねて、彼女の心にもう一度手を伸ばしてしまう。
「俺はッ!俺は繰り返す時間の中で何度も何度も君に助けられたッ!俺の知っている君は奴隷なんかじゃなかったんだ」
これは最早存在しない俺しか知らない過去で、『何時かはありえた話』でしかない。
「君の絶望も苦しみも、呪いによって塗りつけられて変えられてしまった、俺が取り戻したいと願った過去の一つなんだ……」
存在自体が消えてしまった過去が、一体今の彼女に何の価値があるのだろうか、過去は呪によってもう書き換えられて、俺にはそれを戻す手立てすら無い。
そんな無力な思いと身勝手な考えで彼女を振り回すのか?と、頭の何処かで冷静な部分が己に問いかけてくる。
俺の願いは傲慢なのかもしれない、それは彼女の幸せに繋がるのか解らない、でも俺は彼女の未来を諦めたくはない。
「俺は君を助けたい、いやっ、俺に助けさせて欲しい。君という助けがあったからこそ、俺は今ここに居る、だから今度は俺に、君を助けさせて欲しいんだ」
何度目かの沈黙は長くは続かなかった。彼女はその表情に色濃い諦めと疲れを宿しながらゆっくりと口を開く。
「少しだけ……、ほんの少しだけ私の呪いと背負った咎をお話致します……。それを聞いて私の様な者など諦めてください、それが世界のためですわ……」
セラーネが暗く冷たい絶望の色を感じてしまう声で呟く姿、それは何度も繰り返して来た時間の中で一度も見たことがない、彼女の諦観と自虐に満ちた姿だった。
「これからお話する内容は、私が生まれ持った罪の懺悔のようなもの、自分の我儘を諦めることが出来なかった、そんな愚かな男の記憶」
そんな言葉を枕にして彼女は、深く淀んだ沼のような視線をこちらに向けて自らの半生を語りだした。
この時の俺は、自らの覚悟の甘さを知らなかった、呪が残した傷跡の深さを何も知らなかった。
「私は母の腹に居た時から呪われ、その忌むべき呪のせいで故郷の部族は滅びを迎えることになりました。この身に宿る呪は厄災を呼ぶ古の呪持ちの残滓、この世に生を受けた事自体が私の罪だったのです……」
生まれる事が罪と語られる内容は想像を超えていた、己が救いたいと手を伸ばしたセラーネが胸の中に抱えた苦しみの大きさと、絶望の深さに気付けなかったと、後に己の迂闊さを深く反省する事になる。
だが、今はセラーネが己の人生を否定する程の呪の圧倒的な冒涜を前に、言葉を繋ぐ事すら出来ずに、俺はただ彼女の語る過去を聞き続けることしか出来ずにいたのだった。




