9 モッカ村出発騒動
「さあ、出発です!」
「待ちなさい」
翌朝。
抜けるような青空の下、私は教会の前でエリスの冷ややかなまなざしを浴びていた。
「……なんですか? 人の出鼻をくじいて」
「いいえ、くじかれるだけの理由がありすぎですわ」
エリスがこめかみを揉みほぐしながら唸る。
「貴女……『それ』で行く気ですの?」
「それ、とは?」
私は彼女の見ている先を追い、肩越しに自分の背中へと目を向けた。
そこにはかわいらしい小ぶりのリュックが一つ。
「これで行く気ですけど?」
「……中身、何が入っていますの?」
「着替えの下着が一枚。あとは月のもの用のやわらかい布が五枚と、『良い硬さ』の表面を磨くための布が三枚です」
「布ばかりではありませんの!?」
「何を言うんですか。このお気に入りの布で丹念に磨き上げたあとの、しっとりとした石の冷感と手触りが最高なんですよ。旅の必需品です」
「…………」
エリスが声もなく頭を抱えた。
深いため息が聞こえる。
「マリー様。わたくしたちはこれから王都へ向かうんですのよ?」
「そうですね。存じております」
「その荷物で足りると思っているんですの!?」
エリスが柳眉を逆立てて叫んだ。
……なんだ。そんな心配か。
どうやら彼女は、私が旅の過酷さを理解していないと言いたいらしい。
私はあきれを隠さずに告げた。
「エリスはばかですね」
「エリ……ば――っ!?」
エリスが絶句した。
聖女に向かって『ばか』と言った無礼に対してか。
それとも、しれっと呼び捨てにしたことに対してか。
――もしくは両方だろう。
彼女は美しい顔をこれ以上なくひきつらせ、金魚のように口をパクパクさせている。
私はそんな彼女を哀れみつつ、諭すように言った。
「いいですか? 私たちは王都まで歩いていくわけではないんですよ。馬車で行くんですよ、馬車で」
勝手に運んでもらえるのに、わざわざ荷物を背負い込む理由がどこにある。
必要なものは道中の教会で調達すればいい。
無意味な重量を持って歩くなど、体力を浪費するだけの蛮行に決まっている。
「あなたこそ、そんな重そうな格好をして……馬車の座席が狭くなりますよ?」
「エリ……ば――っ、違います! そうです、馬車で行くんです! でも馬車で一週間かかるんですのよ!?」
エリスはやっとのことで混乱から回復したようで、顔を真っ赤にしてまくし立てた。
「その着替えの量でどうするおつもりですの!? それに野営の準備は!? まさかそのリュックひとつで、一週間の旅路を乗り切れるとでも思っているんですの!?」
「えっ、野営? 宿に泊まるのでは?」
「宿場町に着けない場合もあります! というか、貴女、旅をなめすぎていてよ! 今すぐ戻って必要なものを詰め直してきなさい!」
エリスの勢いに押され、私はしぶしぶ我が家へと追い返された。
……まったく、心配性な聖女様だ。
「マリー! 忘れ物はないかい!?」
「お父さん、泣かないでよ。今生の別れじゃないんだから」
それから一時間後。
村の入り口では、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした父がエリスに引き止められていた。
……出発早々、なんとも締まらない見送りである。
その横で仁王立ちしているのが母マルタだ。
結局、荷物は母の手によって詰め直されることになった。
「マリー、これを持っていきな!」
返事も待たず、パンパンの登山用バックパックを私の背中へドスンと乗せた。
「……ぶっ!?」
肺の空気をすべて強制排出されるような衝撃。
……重い。
可憐な娘の背骨を粉砕する気か。
一週間分の食料とマイ枕、さらに予備の毛布までくくりつけられたそれは、さながら巨大な亀の甲羅だ。
「お母さん、これ石臼でも入ってるの?」
「保存食の瓶だよ! ズッシリ詰まってるからね。バターと干し肉さえあれば、どんなにヘロヘロな時だって一発で元気百倍さ」
「なるほど」
確かな説得力。
さすがは母だ。
この高カロリーな布陣があれば、旅の間でもひもじい思いをせずに済む。
だが、それ以上に素晴らしいのは母のパッキング技術だ。
背負った瞬間から、荷重が均等に分散されているのがわかる。
内部に無駄な空隙がほとんどないのだろう。異なる形状の中身が、まるで三次元のパズルのように組み合わされているに違いない。重心の偏りもない。全身にソリッドにのしかかる、この一方的な質量の塊を背負う安心感といったら――
「ほれ、マリーちゃん」
ふと、横から袖を引かれた。
見ると、祖父のユゼフがにこにこと笑っている。
「おじいちゃん?」
「困った時に使いなさい。お守りじゃ」
言いながら、私の手にそっと握らせたのは小さな革の巾着だった。
指先で軽く揉む。
ジャリッという金属音と、手に食い込む反発。安っぽい銅貨とは格が違う、鈍く硬質な銀貨の感触だ。
「……ありがとう、おじいちゃん。大事にする」
いわば銀色の命綱だ。
祖父の不器用な優しさが、確かな重量とともにじんわりと胸に染み渡った。
と、そこへ。
「やれやれ、なんでこんなことになったのか」
苦笑しながら近づいてきたのは、ドミニク司祭だった。
「本当ですよ。聖女認定試験なんて、どうしましょう」
「私に言うな。私だって反対したが、あの聖女様が一歩も引かなかったんだ。王都に着くまでは、お前は立派な聖女候補として扱われる」
「……胃が痛いです」
私は教会で新調してもらったばかりの紺色の聖服の裾をいじった。
着心地は悪くないが、やはりどこか落ち着かない。
靴は履き慣れたもののままだ。
「マリー、結果がどうなろうと、この村はお前の居場所だ。……困ったら、いつでも逃げて帰ってきなさい」
「……はい」
その温かい言葉は、すなおにうれしかった。
背骨をきしませながら隣へ視線を移す。
私のふくれ上がった装備を見て、エリスが満足げにうなずいた。
「それだけあれば十分ですわね」
「ええ、まあ……」
「では参りましょう。王都の皆さんが待っていますわ」
「行ってらっしゃい、マリーちゃん! 頑張ってねー!」
「たまには帰ってくるんだぞー!」
「マリー! 辛くなったら食べて寝るんだよー!」
家族、それに村のひとたちの声援。
私たちは生まれ育ったモッカ村をあとにし、街道へと足を踏み出した。
しばらく歩くと、村の建物が見えなくなった。
のどかな田園風景がとぎれると、道は徐々に勾配のきつい山道へと変わっていく。
私は背中の殺人的な重みに耐えかねて、額ににじむ汗を拭った。
ふと横を見ると、エリスは重そうな聖衣をまとっているのに、涼しい顔で歩いている。
「そういえば、エリスは身軽ですね」
霊杖こそ突いているが、ほかに持っているのは腰に下げた小ぶりの鞄と水筒くらいのものだ。
「ええ。主な荷物はブラマの教会に置いてきましたから」
「なるほど、ブラマ……ん?」
私は足を止めた。
ブラマ。このあたりでは一番大きな宿場町だ。
そこに荷物を置いている?
キョロキョロと周囲を見回す。
街道には私たち二人だけ。
聞こえるのは、風が木々を揺らす音ばかり。
「……あの、エリス?」
「なんですの?」
「馬車は?」
私の中では当然、村の外れで最高級の馬車が待っていることになっていた。
けれど――
どこを見渡しても馬の尻尾一本見当たらない。
エリスは不思議そうな顔をした。
「馬車? ここにはありませんわよ」
…………
「え?」
間抜けな声が出た。
「モッカ村へは、ドミニク司祭が手配してくださった、村の方の荷馬車で来ましたわ。ですが、皆さんもイノシシの処理や畑の修復で手一杯ですもの」
「えっ、そんな……じゃあ、代わりの馬車は?」
「ありませんわ」
エリスはこともなげに言った。
「ブラマまではたかだか山一つ。歩きましょう」
「いやいや、私たちは王都からの公務でしょう? お迎えとか……」
「こんな辺境の村まで、誰が迎えに来るというのです? マリー様だって、ここからブラマへ行く馬車が滅多にないことくらい、ご存じでしょう?」
エリスは「何を当たり前のことを」といった顔をした。
たしかにそうだ。
モッカ村は田舎だ。
ブラマへ行くには峠を越えなければならず、行商人も数日に一度来るか来ないかだ。
でも。
でも、だ。
「ですから、ブラマまでは徒歩です」
とほ。トホ。徒歩。
……この、家財道具一式みたいな荷物を背負って?
山道を、半日以上も歩く?
「き、聞いていません……!」
「何を言ってるんですの。さあ、遅れた分を取り戻しますわよ!」
「嫌です! 帰ります!」
私は即答し、くるりと回れ右をした。
だが――進まない。
背中のバックパックをガシッとつかまれている。
「逃がしませんわよ!」
「離してください! 私は可憐でか弱いシスターなんです! こんな重りを背負って歩いたら私の華奢な背骨がへし折れてしまいます!」
「何を言ってますの! ほら、行きますわよ!」
「いやだぁぁ! 地面と一体化したいぃぃ!」
ズルズルと街道へ引きずられていく私の悲鳴が、静かな山々に空虚にこだまする。
見上げた空は、涙が出るほど晴れやかだった。
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