10 聖女たちの徒歩論争
「右足、左足、右足……」
土の上を歩くという行為は、単なる苦行だ。この運動の果てに得られる対価が景色の変化だけでは割に合わなすぎる。そもそも人間は生まれるときに大きなミスを犯したに違いない。いっそのこと腹這いで進む蛇のようであれば、重力に身をまかせて坂道をすべり落ちるだけで済んだはずなのだ。これは設計ミスだ、あるまじき改善努力の怠慢だ――
「どうされました、マリー様」
数メートル先を行くエリスが余裕に満ちた顔でふり向く。
あんなゴテゴテした服を着て、大ぶりな杖まで持ち歩いているのに、どうしてこの女は汗ひとつかいていないのか。
理不尽だ。
「出発してからまだ三十分も経っていませんわよ」
「三十分……奇跡ですね。私の体感では、すでに半世紀ほどこの不毛な大地をさまよっていた気がします」
「大げさですわ。まだモッカ村の境界すら越えていませんのよ」
エリスが腰に手を当て、私を見下ろす。
逆光を浴びて彼女の姿が荘厳に輝いて見える。だが私にはその後光すら、無駄に熱量を放出するだけの迷惑な輝きにしか見えなかった。
「あの木の根、素晴らしいと思いませんか」
私は道ばたの少し盛り上がった木の根を指さした。
「大地に深々と食い込み、何があっても微動だにしないあの安定感。あそこが私を呼んでいます。『座れ』と。『お前も根を張って動くな』と」
「ただの根っこです。いいから進みますわよ」
「エリス、あなたは鬼ですか? それとも心肺機能が異常発達した山岳民族の末裔ですか? この荒れ果てた悪路が見えないのですか?」
「ごく普通の街道です! ちゃんと両足で大地を踏みしめ、精霊の鼓動を足裏で感じながら進めば、迷わず目的地にたどり着けますわ」
「そもそも、二本足で歩行する仕組み自体に限界があるのではないですか?」
「何を馬鹿な! 大自然の摂理を何だと――」
「ああ、お母さん……どうして私を車輪つきの体に産んでくれなかったの……」
「お母様に謝りなさい!」
嘆く私の腕をエリスがつかみ、地中に埋まった大根でも引き抜くような勢いで強引に前へと引っ張る。
その拍子に、どデカい荷物がズシリと私を押しつぶしにかかった。
脊椎を直に圧迫する、この『密度』の感覚だけが、私の正気をかろうじてつなぎ止めている。
――実に骨身にしみる硬質感だ。
エリスは深く、それはもう深いため息をついた。
「大体、その荷物が重いのはバターの瓶なんて詰め込んでいるからですわ……」
「バターは命の源です。これを捨てるくらいなら、私はここで石になります」
「極論すぎますわ! バターひとつで人間をやめようとしないでください!」
「見てください、あそこに鎮座する石を。雨に打たれても蹴飛ばされても、何も感じず、ただ硬く在り続ける無我の存在……私もあの石のように、一切の物理的干渉を跳ね返す無機物になりたい」
「そんなくだらないことで、例の亀と競わないでくださいな」
「亀……そうでした! ミスリルの亀ですね!」
「……? 亀型の過剰種ですが?」
「……? では、ミスリルはどこへ行ったのですか?」
「ああ、合点がいきましたわ。ミスリルの武器も通用しないほど硬い、という話ですわ。教会騎士団の攻撃すら弾き返されていると昨日お話ししたでしょう?」
「なんと!」
私は思わず身を乗り出した。
「亀も硬ければ、それを迎え撃つ騎士団もミスリル装備で硬い。つまり、異なる硬度がぶつかり合う二重の反作用が味わえる……ひと粒で二度おいしいとは、まさにこのことですね!」
「意味は分かりませんが……」
エリスが表情を引き締める。
「現在、問題となっている亀型の過剰種は脅威ですわ。ただ硬いだけではありませんの。山道を歩けば地響きを立てて街道を踏み崩し、街へ迫れば城壁すらものともせず進むのです」
エリスは自身の霊杖を強く握りしめた。
「次々と現れる過剰種は、わたくしたち聖女にとって乗り越えるべき試練。決して侮ってはいけませんわ」
エリスがなにやら語っているが、私の耳にはもはや届いていなかった。
……試練などどうでもいい。
王都の問題は王都の人間が片づけるべきなのだ。
だが――そうだ。
王都には私の全力を受け止めても傷ひとつつかないほどの硬度が、群れをなして待っているのだ!
しかもミスリル軍団のオマケつき。
こんなところで油を売っている場合ではない。
いざ、亀の待つ街へ!
さきほどまでの重力はどこへやら。
私は背負った荷物ごと跳ねるように姿勢を正した。
「エリス、こうしてはいられません。一刻も早く王都へ、騎士団と亀のもとへ向かいましょう!」
「マリー様……! ああ、強大な試練を前にしても、そんな晴れやかなお顔を……! 人々の苦しみを我が事のように感じ、はやるそのお姿こそ、やはり聖女にふさわしいですわ!」
エリスが感極まって声を震わせているのを、私は適当に聞き流した。
――亀と、ミスリル騎士団。
まだ見ぬ硬度に胸を躍らせ、私は軽やかな足取りでふたたび歩き出す。
頭上では、太陽がさんさんと輝いていた。
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