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硬度フェチ聖女の巡礼  作者: 坂上 零
第一章:シスターの日常と日常の終わり

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3/16

3 鎮魂の祈り

「マリー、あそこだ!」

 村長の叫びが響く。

 ――言われるまでもない。

 とてつもない気配が、村の北側――麦畑の境界線に渦巻いている。

 ビリビリと空気を震わせるような重量感と威圧感。

 ……うん。大いに期待ができる。

 男のひとたちが鍬や斧を構えて加勢しようとするのが視界の端に映った。

 私は片手を挙げ、それを制する。

「ここから先は、入らないでください」

「なっ……何言ってるんだ! 一人じゃ危ねえ! 俺たちも囮くらいには……」

「いいえ、だめです。これは――神聖な立ち合いです」

 あえて冷たく言い放った。

 本当の理由はいたって単純。誰だって、ギリギリまでがまんした排泄欲を処理する瞬間を、他人にのぞき見られたくはない。

「……っ、すまねえ……」

 唇をかみしめ、村長が涙を浮かべた。

「わしらが無力なばかりに……マリー一人に、こんな過酷な試練を背負わせてしまうとは……!」

「わかってもらえて何よりです。安全な場所まで下がっていてください」

 私は獲物へと向き直った。

 はやる足取りで、まっすぐに距離を詰める。

「ブモオォォォッ!」

 イノシシがこちらに気づき、威嚇の声を上げた。

 あらためて、ま近で観察する。

 ……ああ、いい……最高に、いい……

 うっとりと甘い吐息が漏れた。

 内側からあふれ出す凶暴な気迫もさることながら、視界を埋めつくす装甲の分厚さがたまらない。

 あの肩の盛り上がり――灰色の岩肌と結晶が混ざり合った隙のない外殻だ。

 表面は冷たく硬質なのに、その奥には衝撃を逃がさない緻密な筋肉が詰まっているはずだ。きっと最初はガツンと拒絶し、直後にムギュウッと熱く吸いついてくるような――衝撃の減衰を許さず、こちらの存在ごと呑み込むような、凶悪なまでの濃密さ。

 ただ眺めているだけで、首すじが、掌が、じりじりと脈を打つ。

 そして。

 何より私の目を釘付けにするのは、あの額に突き出した結晶だ。

 私の全力を受け止めて、頭の芯まで響くような反動を返してくれるに違いない。

 ああ、早く。

 早くその感触を確かめたい。

 はね上がっていた私のテンションは、とめどない渇望とともにあふれ出そうとしていた。

 イノシシが前傾し、低く、低く唸る。

 後ろ足が地面を深くえぐり、推進力を蓄えている。

 ――来る。

 私は逃げない。むしろ大歓迎だ!

 ドゴォッ!

 地面を揺らして岩の塊が襲い来る。

 速い。

 風を巻き込み、一直線に突っ込んでくる。

「マリーちゃん! 危ない!」

「逃げてくれ!」

 みんなの悲鳴が遠くに聞こえた。

 私は内奥で沸き立つ衝動をなだめるように、静かに両手を下げて深く息を吸い込んだ。

 暴れる熱を丹田へと沈め、気の巡りを整えていく。

 わずかに重心を落とし、左半身を前に出す。

 イノシシの牙が左手の先をかすめる直前――

 迫る質量の輪郭をなぞるように、半歩だけ体をずらす。

 ……意識を、内側へ。


 ――水鏡。

   淀みを断ち、熱を均す。

   右手は水面を撫で。

   左手は大気を滑る。

   気は円環。

   留めず、流し、循環させる。


 上半身ごと、ゆらりと漂わせる。

 突進のエネルギーには逆らわない。

 勢いのまま通り過ぎようとする脇腹にそっと掌を添えた。

 接触の刹那。

 皮膚越しに、その中身をねっとりと嘗めまわす。

 表面のざらつきをすり抜けると、練り上げられた強靭な弾力がむっちりと押し返してきた。

「……ふへ」

 そこへ、ほんの少しだけ私の熱を這わせ、軌道を誘導してやる。

 それだけで、イノシシの進行軸は大きくズレた。

「ブモッ!?」

 急激な重心の乱れに反応できず、イノシシはたたらを踏んだ。

 はたから見れば、私が巨大な獣と手を取り合いダンスを踊っているように映ったかもしれない。

「おお……」

「凶暴な獣が、まるで甘える飼い犬のようだわ……」

「まさに、荒ぶる大自然を鎮める聖女じゃ……」

 場違いなほどに感動した声が聞こえてくる。しかし一刻も早く鎮められるべきは、私の中の熱だ。

 受け流した勢いを殺さず、私はすべるようにイノシシの死角へと入り込み――静かにまぶたを落とした。

 胸の前で、手を合わせる。

 合掌――それは、祈りのポーズ。

 過剰種を清めるための慈悲深い儀礼に見えるだろう。

 だが、実際は違う。

 圧縮だ。

 両の掌を密着させ、全身を巡るエネルギーを一点に集中させていく。

 丹田を通し、右腕一本へと汲み上げる。

 ――焦るな。漏らすな。

 ここで暴発させたら台無しだ。

 私は狂おしいほどの飢餓感を押し殺し、その密度を高めていく。

 皮膚がはち切れんばかりの圧力。

 内側から熱を帯びる。

 けれど、不快ではない。

 ようやく出せるという期待が、思考をドロドロに溶かしていた。

「……よし」

 目を開く。

 標的は最も硬く、最も頑丈な部位――額の結晶。

 この角度なら、イノシシの巨体が村のひとたちの目を遮る壁になってくれる。

 私は身を低く沈めると、思いきり地面を蹴った。

 死角から飛び出し、正面へと躍り出る。

 視界が開け、驚愕に目をむくイノシシと至近距離で視線が交差した。

 無防備に晒されたその額へ、私は全霊と、愛と、欲望のすべてを込め、右掌を叩きつける。

 お待ちかねの瞬間だ!

 ――破城。

 ドゴォォォォン!!

 瞬間――視界が衝撃の火花で塗りつぶされた。

 丹田の底にたまっていた澱までが奔流となり、指先を伝って硬い器へと注ぎ込まれていく。

 ――ゾク、ゾクゾクッ!!

 背筋を駆け上がる、悪寒にも似た電流。

 掌から肘、肩、そして背骨へとつき抜け、意識の芯をも激しく揺さぶる強烈な反作用。

 途方もない質量に抱きしめられたかのような、魂が震えるほどの痺れ。

 そして。

「ん、ぁ……っ!!」

 パンパンに張り詰めていた圧迫感が一気に解放される、脳髄がとろけるほど甘美な喪失感。

 出す快感と、受け止められる快感の飽和。

 全身の細胞が悦楽の悲鳴を上げている。

 私のすべてを受け止めてくれる、この絶対的な硬度との濃厚な対話!

「ブ、ギ……ッ!?」

 悲鳴すら上げる暇もなく。

 イノシシの体がぐらりとかたむき、土煙を上げて崩れ落ちた。

 ズシィンッ……!

 そのまま、ピクリとも動かなくなる。

 静寂が戻る。

 風が麦の穂を揺らす音だけが、耳に優しく届く。

 余韻に浸りながら、私は右手をそっと胸もとに寄せた。

 まだ、芯にあの硬い感触が焼きついている。

 体内の詰まりが解消され、代わりに心地よい脱力感が手足の先へと満ちていく。

 久しぶりに、肺の底まで澄んだ空気が入ってきた。

「……あぁ……抜けた……」

 熱い吐息とともに言葉がこぼれ落ちる。

 頭痛も消え、体は羽のように軽い。

 世界があざやかに色づいている。

 私は青空を見上げ、心からの感謝を捧げた。

 ありがとう――硬いイノシシ。

 おかげで今日のご飯はおいしく食べられそうだ。

「……終わった……のか?」

 腰を引かせながら、村長たちが近づいてくる。

 私はすぐさま表情を引き締め、楚々としたシスターらしいスマイルを顔に貼りつけた。

「ええ。もう心配はいりません」

「す、すげえ……! マリーが手を合わせたと思ったら、あの化け物が勝手に倒れちまったぞ!」

「何が起きたんだ!?」

「あんなデカいイノシシが……!」

 集まってきたひとたちは大騒ぎしながら、倒れたイノシシと私を交互に眺めている。

 決定的な打撃の瞬間は、巨体の影にうまく隠れてくれたらしい。彼らの位置からは、私が祈りの力だけで浄化できたように見えたはずだ。

「マリー、まさか……奇跡を使ったのか?」

「奇跡だなんて、そんな大層なものではありません」

 私は静かに首を横に振った。

 奇跡ではない。ため込んでいた気を、一気に放出しただけだ。

 とはいえ、そんな説明をするわけにはいかない。

「祈りを捧げただけです。彼の荒ぶる魂に、安息を与えました」

「安息……祈りだけで、こんな大きな獣を?」

「ええ。魂が鎮まれば、肉体もまた深い眠りにつくものです」

 もっともらしいうそをつきながら、私はイノシシの額に触れた。

 ――ジャリッ。

「…………」

 私は硬直した。

 おそるおそる、手の下をのぞき込む。

 そこにあるはずの硬質な結晶は粉々に砕け散り、無惨な砂利の山と化していた。

 ……まさか。

 嫌な予感を覚え、肩口を覆っていた装甲へと目をやって――

 ポロッ。

 それは根元からあっけなくはがれ落ち、えぐれた皮膚の奥から生々しい赤肉が顔を見せた。

 …………

 ――あああああぁぁぁぁっ!

 やってしまった!

 あんなに理想的な硬さだったのに!

 たった一撃で『浄化』してしまった!

「おい見ろ! 過剰種がただのイノシシに戻っているぞ!」

「狂った獣の命すらも救ったんだ!」

「……これが聖女の力……!」

 村長がその場にひざをつき、涙を流して拝みはじめた。ほかのひとたちもそれに続く。

 みんなに拝まれるその中心で――

 私は結晶の残骸を呆然と見下ろし、力なくその場にへたり込んでいた。

 せっかくの相手を台無しにしてしまったという事実は、私を抜け殻にするのに十分だった。

「ああ……見て、マリーちゃんも涙を流している……」

「動物の苦しみに心を痛めているんだわ……!」

「なんと慈悲深い……わたしたちの代わりに業を背負ってくれているのね!」

 近所のおばさんたちが勝手に感動の物語を組み上げ、嗚咽を漏らしながら地面に額を擦りつけている。

「……マリー? 大丈夫か」

 村長がおずおずと尋ねてくる。

 私はひきつる頬を必死になだめ、笑顔を作り直して極力冷静な口ぶりで応じた。

「ええ……ただ、命の重みを感じていただけです」

 うそではない。

 だが実際のところ、もう二度と味わえないあの手応えの重みに、本気で泣いていたのだ。

 加減ひとつ満足にできなかった己の不器用さが恨めしい。

 みんなは口々に感謝の言葉を述べながら、勝利の喜びを分かち合っている。

 私は彼らの熱狂から一歩引いた場所で、視線を足もとへと向ける。

 額の結晶を粉砕された獣からは過剰な霊素が抜け落ち、普通のイノシシに戻って気絶していた。

 無事に助かって何よりである。

 もっとも――目を覚ましたところで、どのみち村のひとたちに解体され、私の胃袋に収まる運命には変わりないのだが。

 横たわるイノシシを前に、私は遠い目をした。

 ――どうしてこうなったのだろう、と。

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