2 イノシシの襲来
「大変だ! マリー、みんな!」
扉を開け放った勢いそのままに転がり込んできたのは、村長だ。
いつもの長い髭を振り乱し、ただでさえ薄い頭髪が汗で無様に額へ張りついている。顔色はまっ青だ。
彼がこれほど取り乱すのは、去年の収穫祭で私が酒樽の栓を破壊し、中身をすべてぶちまけた時以来だろうか。
……いや、あの時は悪いことをした。せっかくのアルコールを地面に飲ませてしまったのだから。
「北の森から、やつが下りてきた! 最近噂になっていた、あの過剰種のイノシシだ!」
「うそだろ……あんな化け物が里に!」
「これまで村にまでは来なかったのに……!」
周囲の騒ぎなど、右から左へと通り抜けていく。
だが、私の耳は一つの単語だけを拾い上げていた。
過剰種。
体の一部が鉱物のように変異してしまった動物たち。
凶暴で、巨大で、そして何より――硬い。
意識が乱れたせいで循環が崩れかかったのを、私はあわてて立て直した。手で空をなぞり、暴れようとする熱をなだめる。
ゆっくりと動きを止め、村長の方へ歩み寄った。
「村長」
「マリー! 頼む、なんとかしてくれ! 前にはぐれオオカミを追い払ってくれたみたいに……いや、今度はもっとヤバいのだが、お前しか頼れるやつがいねぇんだ!」
そう言いながら、私の聖服の袖にすがりついてきた。
――まさに、渡りに船っ!
もしかしたら、いい的になってくれるのかもしれない。
「まず、質問があります」
私は村長の肩に手を置いて尋ねた。
「……過剰種、と言いましたね。それは、ただ表層が結晶化しただけですか? それとも、その身の芯までみっしりと詰まった硬度を持っているのですか?」
――今の私に必要なのは、中途半端な代物ではない。
この体内を荒らし回る熱量をすべて受け止めてくれる器でなければならない。
村長は喉を鳴らし、上ずった声で答えた。
「と、とんでもなく硬ぇ! 猟師の槍も通じねえし、斧もはじき返しちまう……ありゃあ動く岩山だ! わしらじゃあどうにもならん!」
「動く岩山。……いいですね」
私は思わず口もとをゆるめ、村長の胸ぐらをつかまんばかりに詰め寄った。
「もっと具体的に。……その硬さは、どのような質の硬さですか? 容易に破断限界を迎える、もろく乾いた抵抗ですか? それとも……触れた瞬間に応力を相殺してくるような、ねっとりと吸いつく衝撃耐性ですか?」
「えっ、ええと……?」
「私が……たまりにたまった熱のすべてを注ぎ込んでも、決して挫けぬ包容力はありますか? ただ表面ではじくような冷淡な関係ではなく――私の『祈り』を深くまで呑み込み、骨の髄まで響かせてくれる、愛おしいほどの剛性ですか!?」
「ひいっ! わ、わからねえが、村の武器なんて通じねえ鉄壁の守りだ!」
「鉄壁……あぁ、なんて甘美な……」
私はうっとりと頬を染め、身をよじった。
村長がハッと目を見開いた。
「な、なるほど……! さすがはマリーだ。ただ闇雲に戦うんじゃなく、相手の弱点を見極めるために、そんなに細かく知りたがってるんだな……!」
「ええ。……壊れてしまったらかわいそうですから」
「おお……獣の命すら気遣うとは! ただ追い払うだけじゃなく、救ってやろうというのか……!」
村長は私の言葉に感動して涙ぐんでいる。
――まあ、都合がいいので、このままほうっておこう。
「大丈夫ですよ、村長。私が引き取りますから」
私は村長の肩を力強く叩いた。
そのまま通り過ぎて、教会の出口へと向かう。
「マ、マリー!? やってくれるのか!?」
「決まっています」
ふり向きもせずに即答すると、村長が崩れ落ちる音がした。
「おお……! なんという決断の速さ……! 村のために、自ら死地へ赴こうというのか……!」
背後でみんながどよめき、祈りにも似た唱和が広がる。
扉の前で、私はふと足を止めた。
外に出る前にすこしだけ冷たいものが欲しい。体の中にこもった熱のせいで、喉がひどく渇いている。
私は入り口の脇に置かれていた水差しを手に取った。
朝一番に汲まれたばかりの清められた湧き水だ。
冷えた陶器の縁を唇にあて、かたむける。
ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ――
冷たい水が喉を通り、食道をすべり落ちていく。
赤熱した鉄に水をかけたように、ジュワリ、と音がした気がした。
……ふぅ……
空になった水差しを置くと、礼拝堂に震える声が響いた。
「見ろ……マリーちゃんが、聖水を飲み干したぞ」
「あれほどの量をひと息で……! なんと壮絶な清めの儀式だ」
「体内の穢れを洗い流し、純粋な霊素の器となったんだわ……!」
……この村のひとたちはどうにも想像力が豊かすぎる。いちいちつき合っていられない。
ともあれ一刻も早く、その素晴らしいイノシシのもとへ行かなければ。
私はせき立てられるようにして、教会の扉を勢いよく押し開けた。
あふれ出す初夏の日差し。
不思議なことに、あれほどうとましかった太陽が、今は祝福の光のように輝いて見える。
それだけではない。私の五感のすべてが、大自然の恵みを賛美していた。
出口を見つけた熱が歓喜の咆哮を上げている。
私はふり返り、笑顔で宣言した。
「村長、案内を。――その剛直な猛り、私が深くまで受け止めてあげます」
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