15 酒場『赤豚亭』の夜【前編】
「ここが約束の地です」
私が先導して路地裏へ入っていくと、『赤豚亭』という看板をかかげたレンガ造りの酒場があった。
中からはにぎやかな笑い声と食器がぶつかる音が響いてくる。
私はしりごみするエリスを店内へ押し込み、奥のテーブルに陣取った。
「うわぁ……すごい熱気ですわね。床が油ですべりそうです」
「これがいいんです。すべる床は繁盛店の証です」
まもなく、エプロンをつけたウェイトレスさんがやって来た。
ふさふさとした犬耳がピンと立っている。
腰からは長い尻尾が生えていた。
「いらっしゃい! ご注文は?」
「お姉さん、この店で一番カロリーが高い肉料理を」
「そうだね。……『猪豚の香草焼き・全部乗せ』でいいかい?」
「完璧なネーミングです。脂身は絶対に削がないで。あと、もしバターがあるなら分厚く切って乗せてください」
「わたくしは『森キノコのサラダ』をお願いします。ドレッシングは別添えで」
お姉さんは苦笑いしながら注文を書きとめる。
彼女がきびすを返したところで、エリスが声をかけた。
「あ、お酒も追加で」
「えっ、飲むんですか?」
「……少しだけ。清めが必要な夜もありますの」
「なるほど、聖女様には必需品ですね」
私はふり返ったお姉さんへと身を乗り出した。
「私にもエールを! 一番大きなジョッキでお願いします!」
「あいよ! お連れさんは?」
「……火酒はありますか?」
「おっ、いける口だねぇ! あるよ、南のきついやつが」
「それをストレートで」
注文を受け終えると、彼女は機嫌よく尻尾を揺らしながら厨房へ向かっていった。
「へぇ……かわいいですね。犬の亜人ですか」
店内を見回す。
人間たちに混じって、大柄な角持ちや毛むくじゃらなどいろんな連中がジョッキをかたむけていた。
モッカ村にもエルフはいたが、こんなに多くの種族がいっしょにいるのを見るのは、はじめてだった。
「ブラマは物流の拠点ですからね。北の鉱山地帯や、最近では港が封鎖された西からも、多くの亜人の方々が出稼ぎに来ているんですわ」
エリスもあたりを眺めながら言った。
「特に犬人族や牛人族の方々は荷運びや土木工事で重宝されていますの。彼らがいなければ、王国の物流は止まってしまいますわ」
「便利な世の中ですね」
「便利、という言い方は感心しませんけれど……」
エリスはすこしだけ表情を曇らせた。
「彼らは教会上層部から下等と見下され、安い賃金で使い潰されていますのよ」
「……ひどい話です。私も月給の低さに加え、食費の天引きという仕打ちで搾取されていました」
「貴女の食費の問題と国家の労働問題を一緒にしないでくださいな」
エリスがジト目をこちらに向ける。
「優秀な亜人の技術者や職人たちは、正当な評価を求めて南のメルカへ渡ってしまいました。今この国で過酷な労働を強いられているのは、海を渡る資金すら持たない人たちばかりなのですわ……」
「世知辛いですね」
そうこうするうち。
厨房の方からいいにおいが近づいてきた。
「お待たせ! 猪豚の香草焼き・全部乗せと、森キノコのサラダだよ!」
ウェイトレスのお姉さんが、ドン、ドンと豪快に並べていく。
テーブルには、高く積み上げられた茶色い肉の山と、緑のサラダの山。
村の素朴な塩焼きとは違い、蜂蜜と香油ベースのタレがたっぷりと塗り込まれている。それがあぶられてカリカリに焦げ、香ばしい煙が立ちのぼっている。
お肉のすき間から染み出る――黄金色の脂。熱でトロトロに溶け崩れた分厚いバター。二つが混ざり合い、焼き目に輝きを与えていた。
一方で、隣のサラダは対照的にストイックな色彩を放っている。
大ぶりのボウルに敷き詰められた、瑞々しい深緑の葉野菜。軽く湯通しされたキノコからは、すがすがしいにおいが漂っている。
そして私の手もとには、木のジョッキになみなみと注がれたエール。表面にきめ細やかな白い泡をたたえている。
向かいのエリスの席には、小さな杯。その脇に、無色の液体が満たされた透明な瓶が置かれている。
私はその見慣れぬ器をまじまじと見つめた。
「エリス、あなたのその器はなんです? ……その奇妙な形の壺も」
「これですか? ガラスですわよ。壺ではなく、デキャンタと呼びなさいな」
「これがガラスですか。氷を削り出したように薄くて透き通っていますね」
「何を言ってるんですの。お母様のバターもガラス瓶に入っていたではありませんか」
「……そういえばそうですね。あまり考えたことがありませんでした」
モッカ村で目にするガラスなど分厚い保存用の瓶くらいのものだ。
「しかし――」
私は杯の縁を指でなぞり、眉をひそめた。
「こんな薄くてもろそうなものを器にするなんて。少し力を込めて握ったら、パリッと割れてしまうではないですか。……まったく、都会人はなんて不用心な」
「ふつうに持てば割れませんわ! ……まったく、これだから田舎者は」
エリスはすぐ横の壁を指さした。
「ブラマくらいの規模の街であれば、ガラスは一般的に使われていますわ。ほら、そこの窓をご覧くださいな」
指し示された先を見て、私はふたたび驚いた。
黒い桟でつなぎ合わされたガラスの格子窓だ。
エリスの器ほど薄くはないが、しかし平らで大きい。一枚が手をひろげたくらいあり、それが六枚、格子状にはめ込まれている。
ガラスの中心には、こんもりと盛り上がった渦が巻いていた。厚ぼったいこぶへと指を伸ばし、コンコン、と叩いてみる。見た目に反して、中までぎっしり詰まった硬い音が返ってきた。
「……このまん中のゆがみだけは悪くありませんね。ですが、まわりの薄い部分は軟弱な素材です。こんなものを壁の代わりにするなんて、都会人の感性は疑わしいですよ。冬の寒風すら防げるか怪しいです」
「ですから、それは外の光を取り入れるためのものであって、防壁ではありませんわ。ほら、マリー様、食事を始めましょう」
エリスに急かされ、私は名残惜しくも窓から手を離した。
「では、道中の無事を祈って……」
「乾杯!」
カン。
木とガラスが、不揃いな響きを返す。
私は自分の顔ほどもあるジョッキを一気にあおった。
「んぐ、んぐ、んぐ……ぷはぁっ!」
よく冷えたエールがかわいた喉に心地よく落ちていく。
麦の芳醇な香りと、舌を刺す炭酸の刺激。
……くぅぅっ! 旅疲れの体にきくっ!
「生き返る……! やはり人間の水分補給は水より麦汁に限りますね!」
「よくそんなに飲めますわね……」
エリスはあきれ顔で自分の小さなグラスをかたむけた。
透明な中身から漂うツンとしたにおいが、ただの水ではないと主張している。
彼女はそれを、クイッと飲み干した。
「……かはっ」
熱い息を吐く。
琥珀色の瞳がトロリとうるんだ。
「……ふぅ……染みますわ」
「飲み方が職人みたいになってますけど」
「故郷の『メルカの火酒』みたいですね……喉が焼けるほどの烈酒ですわ」
エリスは手酌で二杯目を注ぐと、サラダをひと口つまんだ。
「これくらいでなければ、王都の腐敗した空気で汚れた内臓は消毒できませんわ」
「ストレスたまってますねぇ」
「……否定はしませんわ」
「そんなに王都が嫌なんですか?」
私は尋ねつつ、フォークに刺した肉塊を口へとほうり込んだ。
まずはカリッと焼き上げられた皮目が小気味よく砕ける。直後、閉じ込められていた肉汁が舌の上にあふれ出した。
かみしめるたびに押し返してくる、むっちりとした猪豚の弾力。そこへ、熱でとろけた脂身とバターがからみつく。最後に、香草のさわやかさが鼻を抜けていく――
うまい。
野宿で食べる干し肉もいいが、それとはまるで別物だ。
……ああ、あの地獄のような山歩きも、これに出会うための試練だったに違いない。
私はうっとりと目を閉じ、ひたすらに味わっていた。
「王都は嫌いではありませんわ」
不意の返答に、私は我に返った。
……自分で聞いておきながら、すっかり料理に夢中だった。
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