14 宿場町の熱狂
「――着きました。文明のにおいがします」
ブラマのメインストリート。
私は大きく息を吸った。
肺に満ちるのは、土と草いきれの青臭い空気ではない。パンが焼ける香ばしさ、煙突から立ち昇る煤っぽさ、行き交う馬車の獣臭さ。そして何より――路地裏から漂う生活排水のすえた臭気だ。
「ああ、素晴らしい。これぞ人類が築き上げた、生存と堕落の香りです」
「マリー様、鼻の穴を膨らませて感動するのはやめてくださいまし。ただの馬糞と煙の匂いですわ」
隣を歩くエリスがハンカチで鼻を覆いながら顔をしかめた。
「においだけではありません。わからないのですか、エリス。この石畳の平坦さが、私には王宮の謁見の間のように感じられます」
「ばかを言ってないで。ほら、あちらに見える尖塔がブラマの教会です。とにかく荷物を置かせていただきましょう」
「はいはい」
「ついでに、明日からの馬車の手配も済ませておきませんとね」
「――馬車?」
私は勢いよく顔を向けた。
……すっかり私の頭の中から姿を消していた言葉だ。
「馬車があるんですか? ここから王都まで?」
「当たり前ですわ。いくらなんでも、王都まで歩き通すわけがないでしょう」
「エリス! あなたは天才ですか! 一生ついていきます!」
「調子のいいことばかり……さあ、まずはあちらで司祭様に挨拶をして、宿泊の手続きをいたしましょう」
「……宿泊」
とたん。
私の足が石畳にべったりと張りついた。
「……嫌です」
「何がです」
「教会には泊まりたくありません」
私は背中の重みに耐えきれずに、道ばたの木箱にドスンと沈み込んだ。
エリスが目を丸くした。
「聖職者が教会に泊まるのは当然でしょう?」
「どうせ清貧という名のしょぼい部屋でしょう」
「失礼な! 由緒正しき巡礼者用の設備です!」
「板みたいに硬いベッドと、お湯に草が浮いただけの貧相なスープが出てくるんでしょう!?」
「……質素な食事と寝床であることは否定しませんけれど」
「今の私を見てください。燃え尽きた炭も同然です」
「元気に言い返してますわよ」
「絶対に嫌です。私はふかふかのベッドで泥のように眠り、脂の乗ったお肉を食べて復活したいんです!」
私は腕を組み、プイと横を向いた。
エリスが深いため息をつく。
「……はぁ。貴女という人は、本当に頑固なロバのようですわね」
彼女は小さく首を振った。
「分かりましたわ。ですが、宿は教会の面目もありますから、今夜は我慢してください。その代わり食事は――街へ繰り出しますわよ」
「本当ですか!?」
「ええ。確かに王都で待ち受ける試練を乗り越えるには、相応の英気を養う必要がありますからね……わたくしとしても、少し羽を伸ばしたい気分ですし」
エリスは視線をそらし、ボソリ、と言った。
「交渉成立ですね! さあ行きましょう!」
「その前に! 教会への挨拶と、荷物を預けるところまでは済ませますわよ」
私は座ったまま動かなかった。
「……その様子だと、マリー様は教会まで歩くつもりはありませんわね」
「はい。ここで石になって待っています」
「もう……すぐに戻りますから」
エリスは私の背負っていたバックパックを引きはがすと、あきれた顔で教会へと向かっていった。
ブラマの教会前の広場。
夕の鐘が鳴り響く中、私は噴水の縁に腰かけ、大きく伸びをした。
「……遅い」
エリスが教会に入ってから、もう三十分は経っている。
王都から来た聖女ということで、地方の司祭たちがここぞとばかりに陳情しているのだろう。
……もしくは、権力に媚びるような言葉をえんえんと聞かされているに違いない。
かたむいた太陽が影を長く落としはじめ、足もとの石畳がひんやりとしてきた。
ただ座って待っているだけでは、長旅で疲れた体が冷えてガチガチに固まってしまう。
「すこし、ほぐしておきますか」
私は腰を上げ、広場の中央へと歩み出た。
噴水のしぶきが陽に透け、金粉のように舞っている。
足を肩幅に開き、深く息を吸い込む。
……意識を、内側へ。
――水鏡。
淀みを断ち、熱を均す。
右手は水面を撫で。
左手は大気を滑る。
気は円環。
留めず、流し、循環させる。
水底の海藻がたゆたうような、ゆったりとした円運動。
掌が虚空をかいていく。
あふれ出た気が、淡い陽炎のようなゆらめきを生み出していった。
背骨のきしみが消え、血流が温かく巡りはじめる。
私は半眼になり、心地よい浮遊感に身をまかせて動き続けた。
「おお……見ろ、あのシスターを。目に見えぬ精霊の嘆きを、自分の手で受け止めているかのようだ……」
「なんと美しい。きっと旅の安全を祈って、街の水を清めてくださっているんだ。心なしか、噴水の水が澄んで見えるぞ」
周囲から、なにやら感嘆の声が聞こえてくる。
目を開けると――いつの間にか人だかりができていた。
買い物かごを抱えた、夕飯の支度を急ぐ主婦。
石粉にまみれ、肩を回す仕事帰りの石工。
もの珍しさに足を止める、はだしの子供たち。
彼らはみな、夢でも見ているような顔をし、震える声でささやき合っていた。
地面につきそうなほど腰を折り、拝むように手を合わせる老女の目には、なぜか涙までにじんでいた。
どうしたものかと考えていると――
リンッ。
足もとで澄んだ音がした。
見ると、銅貨だ。
「ありがたや……これは少ないが、お布施ですじゃ。聖女様の舞に触れ、長年の腰の痛みが消えた気がします……」
「街の穢れを肩代わりしてくださっているんだ。これで精をつけてくだせえ」
チャリン、チャリン。
次々と、硬貨やお菓子が私のまわりに投げ入れられていく。
……えっ? お金……?
私は石畳に散らばる輝きに見入った。
ただ体操をしていただけで、地面から小銭が湧き出てきた。
――大精霊もびっくりの錬金術だ!
これだけあれば、屋台の肉串が追加で三本は買える。あるいは、エールのジョッキをひと回り大きくできる。
……らっきぃ。
「ありがとうございます、親切な方々! 大精霊様もきっと、あなたたちの財布の紐のゆるさを祝福されるでしょう!」
私は満面の笑みをふりまき、ますます張り切って腕を回した。
現金な喜びがすみずみまでみなぎり、気の円環はなめらかに、ダイナミックに加速していく。
「おお、空気がどんどん澄み渡っていくぞ! 我々のささやかな祈りに応えてくださっているんだ!」
「なんと欲のない、純粋な笑顔なの……金貨でも投げ入れたくなる尊さだわ!」
「俺もだ! 聖女様にありったけの感謝を奉納しろ!」
チャリン、バラバラバラッ!
熱狂が伝染し、硬貨がさながら恵みの雨となって降りそそいでくる。
お布施の嵐が広場の興奮を最高潮へと押し上げようとしていた。
――その時。
「……何をしてますの!?」
背後から、鼓膜をつんざくような声が飛んできた。
エリスだ。
ふり向けば、教会の通用口から出てきた彼女が夜叉のような形相で仁王立ちしていた。
ただし――その姿はがらりと変わっている。
あの純白の聖衣はどこへやら。
南国風のあざやかな赤いドレスを身にまとい、肩も背中もむき出しになっている。
こちらへ歩み寄るエリスの腰もとで、装飾がシャラシャラと涼やかな音を立てた。
――聖女というよりは、酒場の花形ダンサーだ。
「えっ……エリス? なんですか、その派手な格好は」
私は腕をふり上げた不審なポーズのまま硬直した。
あの堅苦しい聖女様が、まさかこんなに布地の少ない服を着るなんて。
「わたくしの格好はどうでもいいですわ! 貴女、聖職者でありながら道端で大道芸をしておひねりをもらうなんて、恥ずかしくありませんの!?」
「大道芸ではありません。これは『奉納の舞』への対価です。みなさん喜んでますよ」
エリスはあたりの狂騒と足もとを埋めつくす硬貨の山を見やり、頭を抱えた。
「ああもう、これでは返しようがありませんわね。早く拾って行きますわよ! 変な噂になったらどうするんですの!」
「もう手遅れな気がしますが……」
……なんにせよ、ありがたくいただいておこう。
聖服の裾をたくし上げ、硬貨をかき集める。
「ちょっと、はしたないですわ! ほら、これを使いなさい!」
「助かります」
エリスがひろげてくれた革袋へ、裾に抱え込んだ小銭をザラザラと流し込む。
そのまま袋を受け取ると、残りの硬貨も手早くほうり込んでいった。
「聖女様だ……」「大精霊の使いが降り立ったんだ……」という好き勝手な声がいつまでも聞こえている。
……まあ、悪い気はしない。
思いがけない大金も手に入ったし、何より体内の気はすっきり通っている。
感謝してくれるみんなに手を振りつつ、私たちはそそくさとその場をあとにした。
ずっしりと重くなった袋を抱えなおしながら、エリスに尋ねる。
「……で、本当になんなんですか、その格好は」
「これがわたくしの地元の正装ですわ。王都の聖衣は、大精霊様の恵みを感じるにはあまりにも重く、分厚すぎますのよ。まるで権威を守るためだけの不自然で窮屈な鎧ですわ」
私はそのヒラヒラとした衣装を上から下まで観察した。
「文化は結構ですが、生地としての密度が足りません。そんなペラペラでは衝撃の減衰も引き裂きに対する靭性もまったく期待できないではありませんか。そもそも織物というものは経糸と緯糸の緻密な交差による積層構造とそれに伴う摩擦係数の向上によって応力を分散させる総合的な剛性こそが――」
「服に剛性を求めないでくださいまし!」
エリスは小さく息を吐き、エリスは軽やかなドレスの裾をひるがえし、先を歩いていく。
「でも、そんな派手な姿で街を歩くんですか?」
「派手ではありませんわ。南国の太陽に映える深紅の染料と、風を感じるような開放的な仕立て……これこそが、多様な種族が交わるわたくしたちメルカの豊かな文化の象徴ですのよ」
その表情には、いつもの肩が凝りそうな聖女モードとは違う、年相応の素顔がのぞいていた。
「それに、下町の酒場に行くのに重苦しい聖衣では浮いてしまいますでしょう? 郷に入っては郷に従え、ですわ」
「目立つベクトルが変わっただけな気がしますけど……」
エリスの得意げな声を聞き流しつつ、私は鼻をひくつかせた。
夜の風に乗って、とことん食欲をそそる香りが漂ってきたのだ。
――これは。
ジュワッと焦げる獣脂のにおい。
さわやかにつき抜ける香草。
そして――エールの芳醇な発酵臭。
「あっちです。私の胃袋が正解だと叫んでいます」
「本当に野性的な勘ですこと……」
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