13 月下の大精霊の舞
深夜。
私は目を覚ました。
……眠れない。
地面がつめたい。
枕の高さも微妙に合っていない。
何より、寝る前に食べた大量のカロリーが、体の中で完全に持て余されている。
じわじわと内臓を灼くように熱がこもり、出口もなく渦巻いているのがわかる。
……あんなに得意げにバター肉を食べておきながら、それに苦しめられるなんて我ながらばかみたいだ。
「――あー、もう」
目もとにかけていたヴェールを払いのけ、毛布の塊から這い出した。
隣ではエリスが規則正しい寝息を立てている。
あの華奢な体で、よくこんなゴツゴツした地面の上でぐっすり眠れるものだ。やはり彼女はどこかおかしい。
立ち上がり、そっと寝顔をのぞき込んだ。
青白い月明かりに照らされた彼女の顔は、昼間の口うるささがうそのように無防備であどけない。
……黙っていれば、優しそうな美人なのに。
そんな柄にもない感想がふと頭をよぎり、私は小さくかぶりを振った。
起きている間は理想の聖女らしくしているが、眠ってしまえばこんなものか。
彼女の肩からすべり落ちていた毛布を引き上げ、夜風に冷えないよう首もとまで覆ってやる。
――別に、優しさというわけではない。
明日風邪でもひかれて、これ以上私の負担が増えてしまっては困るのだ。
道案内のメンテナンスは重要である。
私は起こさないよう足音を殺して、開けた場所へと移動した。
心地よい虫の声。
空には満月。
――絶好の体操日和だ。
モッカ村の教会にいた時も、こんな夜には好んで体操をしていたものだ。
……ふぅ。
深く息を吐き、肺の中の澱を追い出す。
その呼吸のまま足を肩幅に開き、リラックス。
暴れまわる気を捕まえ、淀みのない円環の巡りへと乗せる。
……意識を、内側へ。
――水鏡。
淀みを断ち、熱を均す。
右手は水面を撫で。
左手は大気を滑る。
気は円環。
留めず、流し、循環させる。
夜気を切り裂くたび、火照りが溶け出していく。
……ああ、気持ちいい……
自分の体と世界が、呼吸を通じてひとつにつながっていく感覚。
これぞ深夜の密かな楽しみだ。
「グルルル……」
森の闇から低い唸り声が響いた。
しげみが揺れ、ギラギラと光る瞳が現れる。
オオカミの群れだ。五、いや六頭か。
私はチラリと目をやり――興味を失った。
きのうのイノシシのような頑強な手応えは望むべくもない。
この煮えたぎる濁りを託すにはあまりに構造がスカスカで、器としての格を欠いている。
私は水鏡の型へと集中を戻した。
と。
「……ッ、獣の気配!?」
背後でエリスが飛び起きたらしい。
「マリー様!? 下がって、オオカミですわ!」
エリスの叫び声と、先頭のオオカミが牙をむいて飛びかかってくるのは同時だった。
――邪魔だ。
私は流れを止めない。止めたくない。
せっかく丹田の底から良いペースで熱が上がってきているのだ。
半眼のまま腕を回し、踏み込み、気を循環させる。
その中へ、オオカミたちが勝手に突っ込んできた。
水鏡の流れに触れたそばから、呼吸を合わせて受け流し、遠心力に乗せていく。
――ヒュン。ゴンッ。
「……三、四、はい深呼吸」
なめらかな軌道を描き終える。
私が大きく両手をひろげる頃には――
襲いかかってきたオオカミたちはことごとく、あさっての方向へと吹っ飛んでいた。
木にぶつかって転がり、あるいはしげみの奥へ消えたまま沈黙している。
残りの連中は動かずにいた。
野生のカンに従ったのだろう。ひときわ大きな一頭が吠え、群れは一目散に闇の中へと消え去った。
――森に静寂が戻る。
私は最後のひと回りを終え、合掌して息を整えた。
――と。
「……マリー、様?」
背後から、ひどく震える声がした。
ゆっくりとふり返る。
月明かりの下。
エリスが霊杖を握りしめたまま、立ちつくしていた。
私と目が合った瞬間、彼女はひきつった顔で半歩、ズルリと後ずさった。
柄に食い込む指先が、白くなるほどこわばっている。
「エリス、どうかしましたか?」
「今のは……奇跡、ですの?」
彼女の視線は、私の手や、オオカミたちが叩きつけられた跡をさまよっている。
「詠唱も、祈りも……光すら、なかった。これでは、まるで不浄な――いえ」
エリスは言葉を飲み込み、自らの口もとを強く覆った。
血の気が引き、薄褐色の肌が灰白色へとくすんでいる。
荒い呼吸。
見開かれた瞳。
……なんだか、様子がおかしい。
「ただの体操です」――と言いかけて、私は口をつぐむ。
……ここはいつも通り、祈りのフリでごまかしておこう。
「お見苦しいところをお見せしました」
私は適当なうそをついた。
「これは東の地方に伝わる、荒ぶる魂を鎮めるための『奉納の舞』です。心を無にして舞えば、獣たちも自らの行いを恥じて去っていくのです」
「舞……? そんな、馬鹿なことが。認めません、認められませんわ!」
エリスが声を荒らげた。
「精霊の加護も、霊素の導きも感じられない。そんなものが……理を歪めただけの力が奇跡であってたまるものですか! わたくしがこれまで信じてきた教義への……精霊への冒涜ですわよ!」
「……いえ、東のほうではこれが一般的ですし。むしろトレンドです」
私はさらにでたらめを重ねた。
「ほら、向こうには独自の精霊信仰がありますし、私のような田舎者が扱うのはその程度の、こう……土着的な何かですよ」
「土着的な、何か……?」
エリスは釈然としないように眉根を寄せた。
――これ以上つき合ってボロが出てはまずい。
私は逃げるように寝床へ戻り、毛布にくるまってごろりと横たわった。
「オオカミはいなくなりましたよ。おやすみなさい」
まだなにか言われるかと思ったが、彼女はそれどころではないようだった。
「そんな、あまりに無秩序な……いえ、確かに獣たちは去りましたの。しかし奇跡の代替になり得るなど……結果だけを見れば、あるいは……」
エリスはブツブツと、教義やら使命やらといった小むずかしい独り言をはじめた。
それをぼんやり聞いているうちに、意識が遠のいていく。
「……あれを奇跡と呼んでしまっては教会の秩序が……しかし今は手段を選んでいる余裕など……大精霊様に背いては……王都を救わなければ……」
エリスのつぶやきも、次第に闇へと溶けていく。
体が芯から整い、気の流れもスムーズだ。
しいて言うなら、すこし物足りなかった。
――きのうのイノシシが恋しい。
夢の中でなら、あの素晴らしい手応えに再会できるだろうか。
毛布のすき間から見上げた木々の間に、星が輝いていた。
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