12 野宿にて【後編】
エリスが小ぶりの鞄から麻布の包みを出し、膝の上でひろげた。
私はその中身をまじまじと見つめる。
「なんですか、それ。文鎮ですか?」
「携行食です」
エリスは真顔で答えた。
彼女の手にあるのは、どう見てもただの圧縮パンと、干からびた木の実が数粒。
「素材の味を活かし、余計な添加物を一切排除したオーガニック・ビスケットです。これ一枚で半日分の栄養が摂れますのよ」
「へぇ。味は?」
「大地の味がします」
「大地の味って……それはつまり、土の味ということでは?」
想像するだけで、眉間にシワが寄った。
「エリス、人間は土を消化するようにはできていませんよ。あなたはミミズですか?」
「人間です!! 大地の恵みを感じられる、素朴で奥深い味わいだと言っているのです! 噛めば噛むほど穀物本来の甘みが……」
「要するにマズいということですね」
「食事も修行のうちです! 欲を捨て、最低限の糧で己を律する。それが清貧というものですわ!」
エリスは意地になったように圧縮パンをかじる。
――あんなパサパサの石板で、胃袋を満たせるわけがない。
よっこいしょ、と私はかたわらの巨大なバックパックをぐいと引き寄せる。
このために死ぬ思いで歩いてきたのだ。
ついに、その恩恵にあずかる時が来た。
「マリー様……まさか、アレを食べるおつもりですか?」
「まさかとは何ですか。当然の権利です」
私は奥のほうから、油紙の包みとバターの瓶を引っぱり出した。
瓶の中身はほどよくやわらかくなっている。
あたりに落ちていた枝を拾い、ナイフで先端を削る。
それを、包みの中身――分厚い干し肉の塊に豪快に突き刺した。
瓶の中の黄金色をナイフの腹ですくって、たっぷり塗りたくる。
肉の粗い繊維にねっとりとからみつき、テラテラと光る。
「ちょっと、いくらなんでも塗りすぎではありませんこと!?」
「とんでもない。母マルタ特製の、塩がたっぷり練り込まれたバターですよ」
「説明になりませんわ! それほどの量を一度に摂取するなど――」
エリスの制止など聞こえず、私はそれを燃え盛る炎へとさし出した。
ジュワアアァァ……ッ!
静かな森に、食欲をそそる音がひろがった。
熱されたバターが肉の表面で踊る。
脂身の焦げる香ばしいにおいが、煙とともに立ち昇っていく。
――それは、『大地の味』などという抽象的で貧相なものではない。
問答無用の、原始的な喜びだっ!
「ああっ! 聖なる森が脂の匂いで汚されていきますわ!」
「なんと失礼な。これは空腹という呪いを払うためのアロマですよ」
肉汁がしたたり、炭の上でジュッとはじける。
私はこんがりと焦げ目のついた干し肉を引き戻し、熱さをがまんしてかぶりついた。
「んぐっ、熱っ……ふぅ、んむ……!」
ザクッ、と音を立ててカリカリに焼けた表面が砕ける。
とたんに口いっぱいにひろがる、獣の脂と濃い塩気。
バターを吸い込んだお肉が、芯までやわらかくなって舌の上でほどけていく。
――おいしい。
死ぬほど、おいしい。
やっぱり人間、疲れた時には脂と塩だ。
これはもはや、ただの肉ではない。
生きとし生けるものの到達点であり、生物の原点だ――
エールがないのだけが悔やまれる。
「んー! 生き返ります……!」
「し、信じられません……! 就寝前にそんなものを口にするなんて! 貴女の血管には血の代わりに脂が流れていますの!?」
エリスは石板のようなパンをかじりながら、こちらを見つめている。
その口もとはモソモソと動き、いかにも水分を持っていかれそうだ。
「失敬な。燃料を入れなければ火は燃えないんですよ?」
私は二口目をほおばった。
「見てください、このつややかな脂を。これこそが生命の輝きです」
「ただの動脈硬化の予兆にしか見えませんわ……」
満足している私とは対照的に、エリスはひきつった表情のまま水筒の水をひと口飲んだ。
――どうやら説得はあきらめたらしい。
私は勝利の余韻を味わいながら、最後のひと切れを腹に収めた。
あふれる幸福感と、確かな満腹感。
指先に残った脂を名残惜しく舐め取っていると、エリスが目を見開いた。
「……貴女、その量の脂を本当に平らげましたの?」
「失礼ですね。私は自分の生命力と真摯に向き合っていたんですよ。見てください、私の頬を。ほんのり熱を帯びているでしょう?」
「ただの食べ過ぎですわ!」
「ごちそうさまでした。さて、おなかも満ちましたし」
あきれかえるエリスを置き去りにして、私はバックパックからマイ枕を取り出した。
「寝ましょう。今すぐ。一秒でも早く」
「まだ早いですわよ! 少しは聖女らしく、食後の祈りや瞑想というものを……」
「エリス、薪をくべたら燃え尽きるまでほうっておくものです。私の体内ではさきほどのカロリーが今まさに燃え上がり、血肉に変わろうとしています。それを邪魔するのは、大自然への冒涜に他なりません」
「どうして怠けるためなら、そんなにスラスラ屁理屈が出てきますの!? 待ちなさい、せめて歯を――」
「おやすみなさい」
私はたき火のそばの平らな場所に毛布を敷き、ダンゴムシのように丸まった。
頭に巻いていたヴェールを目もとまで引き下ろし、視界を閉ざす。
エリスが後ろで何か叫んでいるが、今の私には子守歌にしか聞こえない。
胃袋は満たされ、背中からは地面の頼もしい硬さが伝わってくる。
――幸せだ。
森を抜ける風と木の葉のさざめきが、静かに夜空へ吸われていく。
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