退院
退院の日。
病院を出た瞬間、久しぶりに吸う外の空気が胸いっぱいに広がった。
「やっぱり外は気持ちいいな。」
「はい!」
隣ではリクが満面の笑みを浮かべている。
その笑顔を見るだけで、不思議と心が落ち着いた。
家へ帰ると、俺たちはリビングのソファへ向かい合って座った。
まず最初に伝えたいことがあった。
「リク。」
「はい!」
「入院中、俺の着替えとか身の回りのこと、全部やってくれたんだろ?」
「……はい。」
「本当にありがとう。」
「大変だったよな。」
するとリクはぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことありません!」
「ご主人が今まで私にしてくれたことに比べたら、こんなの全然大したことじゃありません!」
「こうして元気になったご主人とまた一緒に過ごせるだけで私は幸せです。」
そう言って、ふにゃっと笑う。
その笑顔は犬だった頃と何も変わらない。
俺も自然と笑みがこぼれた。
「さて……。」
一息ついてから俺は真剣な表情になる。
「整理したいことがある。」
「どうしてリクは人間になれたんだ?」
リクも姿勢を正した。
「事故のあと、ご主人が倒れた時です。」
「私は神様に会いました。」
「神様?」
「はい。」
「神様が私の願いを叶えてくれたんです。」
「私はずっと、ご主人のもっと近くで寄り添いたいと思っていました。」
「犬ではできないことを、人間ならできる。」
「だから神様が、人間の姿にしてくださいました。」
リクは少し照れくさそうに笑う。
「ご主人のお世話ができて……。」
「手を握ることも、ご飯を作ることもできて……。」
「私は本当に嬉しかったです。」
俺は思わず眉をひそめた。
「神様……か。」
正直、普通なら信じられる話じゃない。
犬が人間になるなんて、漫画やアニメの世界の出来事だ。
でも。
目の前には人間になったリクがいる。
俺しか知らない思い出を知っていて、仕草も笑い方もリクそのものだ。
それに――。
俺自身も、車にはねられて全身骨折という状態から助かっている。
医学だけでは説明できない何かが起きたとしても、おかしくはないのかもしれない。
「……信じるしかない、か。」
そう呟くと、リクは少し安心したように笑った。
しばらく沈黙が流れる。
そして俺は、ずっと引っかかっていたことを口にした。
「じゃあ……。」
「もう犬の姿のリクには会えないのか?」
その瞬間だった。
リクの表情から笑顔が消えた。
「……今の私では、ご主人のそばにいては駄目ですか?」
震える声。
「犬じゃない私は……もう必要ありませんか?」
その瞳には涙が浮かんでいた。
「違う!」
俺は思わず立ち上がる。
「そんな意味じゃない!」
「今のリクももちろん大好きだ!」
「ただ……。」
「犬だったリクとあまりにも違いすぎて、まだ頭が追いついてないだけなんだ。」
「目を覚ましてから何日も話してるのにまだ慣れなくてさ。」
リクは小さく俯いた。
その姿を見て俺は改めて彼女を見る。
俺が体調を崩せば心配してくれる。
嬉しいことがあれば自分のことのように喜んでくれる。
頭を撫でれば気持ちよさそうに目を細める。
その仕草。
その笑顔。
その優しさ。
全部、俺が知っているリクだった。
見た目は変わった。
でも。
心は何も変わっていない。
俺はゆっくりと手を伸ばし、リクの頭を優しく撫でた。
リクは犬だった頃と同じように少しだけ顎を上げて気持ちよさそうに目を細める。
思わず笑ってしまった。
「やっぱりリクだ。」
その一言でリクの肩が小さく震える。
俺は優しく微笑んだ。
「おかえり。」
「俺たちの家へ。」
「これからもよろしくな。」
「家族。」
ぽろっ。
リクの頬を涙が伝った。
一粒。
二粒。
やがて堰を切ったように涙があふれる。
「……よかった。」
「本当によかった……。」
「嫌われたんじゃないかって……。」
「犬じゃない私は必要ないって言われるんじゃないかって……。」
「ずっと怖かったんです……。」
俺はもう一度、優しく頭を撫でる。
「そんなわけないだろ。」
「姿が変わっても、お前は俺の大切な家族だ。」
「リクはリク。」
「それだけで十分だ。」
リクは涙を拭いながら、満面の笑みを浮かべた。
「……ただいまです。」
「ご主人。」
その笑顔を見た瞬間。
胸の中に残っていた違和感が、すっと消えていった。
俺はもう迷わない。
目の前にいるのは。
犬でも、人間でもない。
俺の大切な家族――リクだ。




