リクside
私の名前はリク。
今のご主人様――伊織と出会う前にも一人だけ「ご主人」と呼んでいた人がいた。
その人は背が高く、金髪で、鋭い目つきをしていた。
毎日のように家へ女の人を連れてきては
「ほら、うちの犬。」
と私を紹介していた。
女の人たちは「かわいい!」と笑いながら私を撫でてくれる。
その頃の私はご飯も水もちゃんともらえていた。
だから私はそれが幸せなんだと思っていた。
でも、それは突然終わった。
ある日、ご主人は私を一瞥すると面倒くさそうに言った。
「もう、お前はいらない。」
最初は意味がわからなかった。
尻尾を振って近づく。
いつものように撫でてもらえると思っていた。
だけど、ご主人は私を見ようともしない。
「次に付き合いたい子が犬嫌いなんだよ。」
「犬がいる家には行きたくないんだって。」
「まぁ、そもそも、お前を買ったのは女の子を釣るための道具だったしな。」
「もう役目は終わりだ。」
「だから、お前はいらない。」
「だから、お前は邪魔。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
私は家族じゃなかった。
最初から、ご主人にとって都合のいい道具でしかなかったんだ。
その日のうちに私は段ボールへ押し込められた。
狭くて暗い箱の中。
何が起きているのかもわからないまま、車が走り出す。
しばらくして車が止まった。
次の瞬間――
ドサッ。
私は段ボールごと河川敷へ投げ捨てられた。
遠ざかっていく車の音。
私は必死に鳴いた。
「ワン!」
「ワン! ワン!」
お願い。
置いていかないで。
私はもっといい子になるから。
嫌われないように頑張るから。
でも、その願いは届かなかった。
車の音はどんどん小さくなり、やがて聞こえなくなった。
残ったのは風の音だけだった。
何日経ったのかもわからない。
喉は焼けるように渇き、お腹はずっと鳴り続けている。
雨に濡れ、夜は寒さに震えた。
孤独だった。
怖かった。
寂しかった。
もう立ち上がる力も残っていない。
このまま眠れば、全部終わるのかな。
そう思った、その時だった。
「……大丈夫か?」
優しい声が聞こえた。
ゆっくり顔を上げる。
そこには、一人の男の人が立っていた。
金髪。
背が高い。
少し鋭い目つき。
その姿を見た瞬間、体が震えた。
まただ。
また、あのご主人みたいな人だ。
また捨てられる。
また都合が悪くなったら「いらない」って言われる。
怖い。
怖くてたまらなかった。
差し出された水にも、ご飯にも口をつけられなかった。
毒が入っているかもしれない。
最初だけ優しくして、また捨てられるのかもしれない。
そんな私を見ても、その人は怒らなかった。
「焦らなくていい。」
「お腹が空いたら食べればいいから。」
そう言って少し離れた場所に座り、静かに私を見守ってくれた。
無理に触ろうともしない。
抱き上げようともしない。
ただ、私が安心できる距離で待っていてくれた。
次の日も。
その次の日も。
「リク。」
優しい声で、何度も私の名前を呼んでくれた。
夜、捨てられた日の夢を見て震えていた時も、何も言わずそばにいてくれた。
無理に抱きしめることもせず、ただ「大丈夫だよ」と語りかけるように頭を優しく撫でてくれた。
その温もりが嬉しかった。
その声が安心できた。
気づけば私は、自分からご飯を食べられるようになっていた。
気づけば、彼の後ろを歩くようになっていた。
そして気づけば――
彼の隣が一番安心できる場所になっていた。
最初は、前のご主人と見た目が似ていたから怖かった。
でも、一緒に過ごすうちに気づいた。
似ていたのは見た目だけだった。
前のご主人は私を”物”として見ていた。
伊織は私を”家族”として迎えてくれた。
その違いは言葉が話せない私にもはっきりとわかった。
私はもう、一人じゃない。
世界でたった一人の大好きな家族ができた。
それが何より幸せだった。
でも――。
伊織は時々、誰もいない部屋で悲しそうな顔をする。
笑っているのに、どこか寂しそうで。
その姿を見るたび、胸が苦しくなった。
私は犬だから。
「大丈夫。」
その一言すら伝えられない。
隣で手を握ることもできない。
涙を拭ってあげることもできない。
もっと近くで寄り添いたい。
もっと彼の支えになりたい。
私はずっと、伊織のそばにいたい。
犬としてじゃない。
家族として。
願わくば――
人間として。




