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『強制終了された神話 ――三島由紀夫というOSの孤立と美学的逃亡』  作者: えいの
第3章:強制終了と継承者の不在 ――「天、予を喪ぼせり」の悲劇と次代のインフラ

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第1節:11月25日のシステム要件 ――「不理解」という舞台装置

 これまでの章において、三島由紀夫という構築されたシステムが、内部の脆弱なカーネルを隠蔽するための過負荷(UIの肥大化)に耐えきれず、また戦後社会というバグだらけの実行環境から逃亡するため、「生き残るエンジニアの機能美」を捨てて「芸術としての完結(死)」を選択した思想的メカニズムを解き明かしてきた。自らのデータを書き換え不可能な読み取り専用メモリ(ROM)として凍結保存するというこの決断は、昭和四十五年(一九七〇年)十一月二十五日、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部において、一つの物理的な行動として最終出力された。世に言う「三島事件」である。本節では、この市ヶ谷での決起と自決という一連のプロセスを、政治的なクーデター未遂としてではなく、三島自身が極めて緻密に設計した「自己破壊プログラムの最終実行シーケンス」としてリバースエンジニアリングする。そして、この悲劇的な舞台を完成させるために絶対に不可欠であったシステム要件、すなわち周囲の人間たちによる「絶対的な不理解」という環境変数について検証していく。

 まず、十一月二十五日の市ヶ谷駐屯地における三島と楯の会メンバー四名(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)の行動を、現実の政治システムを物理的に改変するための「クーデター(システム・オーバーライド)」の試みとして評価した場合、その設計はあまりにも杜撰であり、初歩的な戦術的要件すら満たしていない。真に国家の武力装置である自衛隊を動かし、憲法改正という目的変数を達成しようとするならば、指揮系統の中枢である通信網を物理的に制圧し、武器庫を確保し、マスメディアの放送設備を占拠するといった、論理的かつ冷徹な制圧プロセス(インフラの掌握)が必須である。しかし、三島たちが実際に行ったのは、東部方面総監(益田兼利)というシンボル的な一人の将官を人質に取り、総監室にバリケードを築き、バルコニーから幕僚や隊員に向けて演説を行うという、極めて局所的かつ演劇的なパフォーマンスに過ぎなかった。

 情報工学の観点から言えば、これはシステム内部の権限を奪取するための「ハッキング」ではなく、あらかじめ多数の観客(隊員やメディア)を集めた上で、自らの思想的ステートメントを大音量で再生し、その直後に自らのハードウェアを破壊してみせるという「最終出力のディスプレイ表示」であった。三島にとっての市ヶ谷駐屯地は、現実の社会インフラを改修するための作業場ではなく、自らの死を最も劇的に彩るための「舞台装置(UIの最終展開レイヤー)」として設計されていたのである。

 この最終出力のシーケンスにおいて、極めて重要な意味を持つのが、バルコニー下で三島の演説を聞いていた約八百名の自衛隊員たちの反応である。三島が「建軍の本義」を問い、憲法改正のための決起を促す演説を始めると、隊員たちからは「馬鹿野郎」「降りてこい」「狂人」といった激しい野次と怒号が飛び交った。さらに上空には警視庁のヘリコプターが旋回し、その轟音によって三島の肉声は物理的にも激しく遮断された。三島は用意していた檄文を撒き、予定されていた演説を途中で打ち切って総監室へと退き、「これで自衛隊が建軍の本義に立ち返ることはないことがわかった」「少しも聞こえなかったな」と呟き、直後に割腹へと移行したとされている。

 一般的には、この自衛隊員たちの野次と無理解は、三島の目論見を打ち砕いた「悲劇的な挫折エラー」として解釈される。しかし、システム論的にこのプロセスを解析すれば、全く逆の結論が導き出される。自衛隊員たちの「絶対的な不理解」と、ヘリコプターの轟音による「通信の遮断」は、三島の自己破壊プログラムを最も美しい形で実行に移すための「必須のシステム要件(仕様)」であった。

 仮に、一つの思考実験を行ってみよう。もしあのバルコニーの下に集まった八百名の自衛隊員たちが、三島の高度な論理と憂国の至情を完全にデコード(解読)し、野次を飛ばす代わりに静まり返って傾聴し、演説の終わりに「その通りだ! 共に起とう!」と歓声を上げて武装蜂起を始めたとしたら、何が起きていただろうか。三島由紀夫という芸術家は、そこで致命的なシステムエラー(進行不能状態)に陥ったはずである。なぜなら、彼が心酔した『葉隠』的な死のロマンティシズムは、「自らの至情が誰にも理解されず、絶望の中で孤高の死を遂げる」ことによってのみ、美学的な完成を見るように設計されていたからである。もし自衛隊が共鳴してしまえば、彼は美しき殉教者として腹を切る大義名分を失い、現実の泥沼の政治闘争(保守運用プロセス)へと引きずり下ろされ、クーデターの首謀者として生き恥を晒しながら裁判闘争や泥臭い事後処理に忙殺されることになる。それは、彼が最も恐れ、逃亡しようとしていた「エントロピーが増大する現実社会」への強制送還に他ならない。したがって、自衛隊員たちの怒号と野次は、三島にとってシステムを予定通りシャットダウンさせるための「完了フラグ」として完璧に機能したのである。

 三島の死の舞台において「不理解」という要件を満たしていたのは、眼下の自衛隊員たちだけではない。彼の背後で共に決起し、介錯を務めた楯の会のメンバーたちもまた、システム論的には彼を絶対的な孤独の中に密閉するための「モブ(理解なき群衆)」として機能していた。彼らは三島の肉体や、彼が設計した「軍服と死」という美しいユーザーインターフェースには完璧に同期し、自らの命を投げ出すという最終コマンドを忠実に実行した。しかし前章でも論じた通り、彼らは三島の思想の深層にある「天皇という絶対座標のシステム論的必要性」や「生存至上主義への美学的嫌悪」といったソースコード(カーネル)を、対等なレイヤーでデコードすることはできなかった。

 三島にとって、森田必勝らの存在は、自らの死の舞台を美しく装飾し、武士道というプログラムの実行を物理的に補佐する「従順な実行ファイル」であった。彼らが三島の言葉を盲信し、何の疑いも持たずに死へと追従してくれたからこそ、三島は自らの論理の矛盾(生存という責務からの逃亡)を突きつけられることなく、ロマンティシズムの殻に閉じこもったまま死へと滑り落ちることができたのである。もし彼らが三島の思想のカーネルを完全に理解し、そのバグを指摘できる「対等な設計者デバッガー」であったならば、彼らは市ヶ谷の総監室で三島の切腹を物理的に阻止し、「ここで死ぬことはインフラの放棄であり、芸術的陶酔に過ぎない」と冷徹に糾弾したはずである。

 すなわち、十一月二十五日の市ヶ谷駐屯地という空間には、三島由紀夫という孤立したプロセッサと対等に通信できる端末ノードは、ただの一つも存在しなかった。野次を飛ばす自衛隊員たちも、轟音を立てるヘリコプターも、そして涙を流して同調する楯の会の若者たちもすべて、三島が自らの美学を完成させるために用意した「圧倒的な不理解の壁」を構成するモブであった。三島は、自らの高度な思想が誰にも理解されないという「絶対的な通信エラー」を自ら演出し、その絶望をエネルギーに変換することで、自己破壊のトリガーを引いたのである。

 彼が企図した「死のシステム要件」とは、ロマン主義的な殉教劇を完遂させるために、すべてのノイズ(現実社会の複雑性や、対等な論理的対話)を遮断し、自らを真空パックのような孤独の中に閉じ込めることであった。論理の綻びを指摘する「冷徹なエンジニア」の介入を徹底的に排除したこの密室において、三島由紀夫という巨大なプログラムは、何のエラーチェックも受けないまま、予定調和の暴走を経て完全にその稼働を停止した。

 この「誰にも理解されなかった」という事実こそが、三島の死を純粋な悲劇として歴史に刻み込ませた最大の要因である。しかし、それは同時に、彼が自らの思想を次世代のインフラへと引き継ぐための「真の継承者」を最初から放棄していたという、致命的な設計ミスをも露呈している。次節では、この「真の理解者デバッガーの不在」という構造的悲劇について、孔子と顔回という歴史的アナロジーを用いながら、彼が何を決定的に喪失したのかを深く掘り下げていく。

【引用文献・資料】

・三島由紀夫『檄』(昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷駐屯地にて撒布)

・伊達宗克『裁判記録「三島由紀夫事件」』(講談社、一九七二年)

・ヘンリー・スコット=ストークス 著 / 徳岡孝夫 訳『三島由紀夫 死と真実』(新潮社、一九九八年)

・福田恆存『総括 三島由紀夫事件』(新潮社、一九七〇年)

・松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』(文藝春秋、二〇〇五年)


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