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『強制終了された神話 ――三島由紀夫というOSの孤立と美学的逃亡』  作者: えいの
第2章:美学の分岐と歴史的誤謬 ――機能美(生存)と芸術美(静止)の衝突

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第2節:歴史的リアリズムの欠如 ――「生き残る武士」と「死に急ぐ武士」

 前節において、三島由紀夫がエントロピーの増大、すなわち「老いと劣化」という自然の摂理(システムの不可逆的な摩耗)を激しく拒絶し、永遠の美を担保するための手段として「システムの強制終了」を希求した過程を論じた。しかし、一個の生命体である人間が、自らの生存本能という最も強力な基幹プログラム(OS)を書き換え、自ら電源を落とす(自決する)ためには、それを正当化し、実行へと移すための強力な「行動プロトコル」が必要となる。三島がこの致命的な例外処理エクセプションを正当化するためにインストールした思想的ソフトウェアこそが、「武士道」であり、とりわけ江戸時代中期に成立した『葉隠』であった。昭和四十二年(一九六七年)に『葉隠入門』を著した三島は、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という一文を、自らの行動を律する究極の規範として絶対視した。しかし、システム論および歴史的リアリズムの観点からこの選択を検証する時、三島の採用した「武士道」が、いかに本来の武士の実用性(インフラ維持機能)から遊離した、後代の捏造バグであったかという決定的な歴史的誤謬が浮き彫りになる。本節では、三島が心酔した「死に急ぐ武士」の虚構性と、歴史上の現実であった「生き残る武士」の機能美を対比し、彼がなぜ後者という現実を切り捨てたのかを解析する。

 まず歴史的リアリズムの視座から「本来の武士」のシステム要件を定義し直す必要がある。武士という階級が実質的な戦闘員であり、領主として物理的な土地インフラを統治していた鎌倉時代から戦国時代にかけて、彼らの至上命題(システムの目的変数)は「一族(家)の生存と存続」であった。中世の武士社会を支えていたのは、「御恩と奉公」と呼ばれる主従関係である。これは現代のシステム開発における「サービスレベル合意(SLA)」に基づく双務的・契約的な関係に極めて近い。主君は自らの家臣に対して土地(ハードウェアと電源)という「御恩」を保証し、家臣はそれに対する対価として軍役という「奉公」を提供する。もし主君が暗愚であり、一族の生存(インフラの維持)を脅かすようなエラーを頻発させる場合、家臣が主君を見限り、別の優秀な主君へと鞍替えすることは、決して恥ずべき背信行為ではなく、一族というシステムを存続させるための極めて正当な「ルーティングの変更(生存戦略)」であった。

 戦国武将・藤堂高虎の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という言葉に象徴されるように、実戦の時代を生きた武士たちは、泥にまみれ、血を流し、時には冷徹な計算によって陣営を変えてでも、己の「家」というシステムを次世代へ接続することを第一義とした。彼らにとって、意味もなく死ぬこと、あるいはメンツや美学のために一族を滅ぼすことは、システム管理者としての重大な職務怠慢であり、最大のバグであった。「生き残る武士」が体現していたのは、不測の事態(バグや外部攻撃)に対して柔軟にパッチを当て、エラーを吐きながらもシステム全体をダウンさせずに稼働させ続けるという、極めて泥臭くも強靭な「エンジニアの機能美」であったのである。

 ところが、江戸時代という二百五十年以上にわたる未曾有の泰平の世(無菌状態のネットワーク)が訪れると、武士のシステム要件は劇的な変容を余儀なくされる。実戦という物理的衝突が消滅した結果、武士は戦闘員としてのハードウェアを持て余したまま、実質的な行政官僚ホワイトカラーへと移行した。機能(戦うこと)を失った存在が、その特権的な階級を維持するためには、自らの存在を正当化するための新しい「イデオロギー(仮想のソフトウェア)」を構築しなければならない。山鹿素行らによって提唱された士道、そして後に佐賀藩の山本常朝が口述した『葉隠』などの思想は、こうした「平和な物質世界において、自らのアイデンティティを見失った官僚たち」が、机上で捏造したロマンティシズムの産物である。

 特に『葉隠』は、実戦を一度も経験したことのない山本常朝が、平和な時代の中で「死」という極限状態を観念的にシミュレーションした、いわば「仮想現実(VR)の武士道」である。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という命題は、常に死を意識することで生を純化させるという精神修養としては機能するかもしれない。しかし、それを文字通り物理的行動のプロトコルとして実装すれば、システムは些細なエラー(主君の不興や名誉の毀損)に対して、即座に「切腹(強制終了)」という致命的な例外処理を返すようになる。これは、インフラを維持し、一族を存続させるという本来の武士の機能主義から見れば、明らかな「誤作動バグ」である。『葉隠』の説く武士道とは、実戦の泥臭さを漂白し、死を一つの「美しい芸術作品」として消費するために作られた、極めて非実用的かつ退廃的なソフトウェアであった。

 三島由紀夫ほどの卓抜した知性と歴史的教養を持つ設計者が、この「鎌倉・戦国の実用的な武士」と「江戸の観念的な武士」の構造的な違いを見抜けなかったはずはない。彼は、『葉隠』が平和な時代の産物であり、歴史上の武士のリアルな生態(生存への執着)から乖離していることを十分に認識していたはずである。では、なぜ彼は本来の武士が持っていた「生き残るための逞しいリアリズム」を切り捨て、実用性のない『葉隠』の死のロマンティシズムを、自らの最終出力のOSとして採用したのか。

 その理由は、鎌倉・戦国武士が持っていた「泥にまみれても生き残り、家を存続させる」という実用主義サバイバル・ロジックが、三島が最も嫌悪した「戦後日本社会の生存至上主義」と構造的に完全に一致していたからである。敗戦後の日本は、大日本帝国という旧システムが崩壊したのち、アメリカという新たな巨大ホスト(主君)に接続先を切り替え、軍事力(武士としての牙)を放棄する代わりに、経済的繁栄という「種の存続と拡大」を最優先の目的変数として再起動した。これはまさに、戦国武士が巨大な権力者に恭順し、一族の所領インフラを守り抜いたのと全く同じ、極めて合理的でエンジニア的な生存戦略であった。戦後日本は、アメリカという新たな主君に対して「御恩(安全保障と経済市場)」と「奉公(基地の提供と親米政策)」の契約を結び、泥まみれになりながらも焦土から復興し、見事にシステムを維持・拡張してみせたのである。

 しかし、三島にとって、この「妥協して生き延びる機能美」は、耐え難いほどの醜悪さであった。彼は、人間や国家を単なる生物学的な「種」や、維持されるべき「インフラ」として定義することを拒絶した。どれほど合理的であっても、精神的な絶対座標(天皇という美しいROM)を相対化し、その時々の権力に阿って生き延びることは、システムの腐敗に他ならないと考えたのである。三島が『葉隠』に心酔したのは、それが歴史的に正しい武士の姿だったからではない。「生存という目的変数を完全に切り捨て、死そのものを純粋な目的とする」という『葉隠』の異常なアルゴリズム(バグ)こそが、戦後日本の生存至上主義(プロセス主義)に対する、最も強力で美学的なアンチテーゼとして機能し得ると計算したからである。

 三島は、歴史的リアリズムという「正しさ」を意図的に放棄した。なぜなら、歴史的に正しい武士(生き残る武士)の行動規範に従えば、彼もまた戦後社会の中で妥協し、老いを許容し、言論という形で地道な保守運用を続けなければならなくなるからである。彼は、システムを永遠に稼働させ続ける泥臭いエンジニアになることを拒み、最も美しい一瞬でシステムを破壊して額縁に収める「芸術家」となることを選んだ。「武士道」という言葉を用いながらも、彼が目指したものは、国家や共同体を防衛する武力装置としての機能ではなく、己の魂を無菌状態のまま凍結保存するための、華麗なる自己破壊の儀式であった。

 このように、三島の思想は、本来の武士が持っていた「インフラの維持と持続」という歴史的リアリズムを意図的に切断し、江戸期の観念的な美学を肥大化させることで成立している。次節では、この「生存を是とする機能の美」と「静止を是とする芸術の美」という二つの相反する概念が、三島の内部でどのように衝突し、そして彼がなぜ最終的に「機能」を捨て去り「芸術」に殉じたのか、その思想の分岐点についてさらに深い次元からの解析を行う。

【引用文献・資料】

・三島由紀夫『葉隠入門――武士道は生きてゐる』(光文社、一九六七年)

・山本常朝 口述 / 田代陣基 筆録『葉隠』(江戸時代中期)

・笠谷和比古『武士道と日本型能力主義』(新潮選書、二〇〇五年)

・高橋昌明『武士の日本史』(岩波新書、二〇一八年)

・三島由紀夫『文化防衛論』(新潮社、一九六八年)


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