第4節:孤立するプロセッサ ――「楯の会」という理解なき端末群
前節において、三島由紀夫というシステムが、肥大化したユーザーインターフェース(UI)を維持するために内部の精神的・肉体的リソースを限界まで消耗させ、致命的な過負荷状態に陥っていた過程を検証した。一個人のハードウェア(平岡公威の生身の肉体と精神)だけでは、もはやこの巨大なプログラムを単独で処理しきれなくなった時、システム設計者が採るべき次なる論理的ステップは「ネットワークの構築による処理の分散」、すなわち外部のノイズを物理的に排除し、自らの思想を共有・実行できる外部端末群との同期である。昭和四十三年(一九六八年)十月、三島が自らを隊長として結成した私兵組織「楯の会」は、まさにこのシステム拡張の試みであったと言える。しかし、結論から言えば、このネットワーク構築は彼の根源的な孤独を癒すどころか、彼がいかに周囲から構造的に理解されていないかという「絶対的な通信エラー」を浮き彫りにする結果となった。本節では、高度な演算能力を持つ孤立したプロセッサ(三島)と、そのUIにのみ熱狂し、深層のオペレーティングシステム(OS)にアクセスできなかった「理解なき端末群(楯の会の学生たち)」との間に生じた、決定的な断絶について論じる。
「楯の会」に集った若者たちは、三島由紀夫というシステムのどこに魅了されていたのか。それは間違いなく、三島が精血を注いで設計した「極めて美しく、軍事的な規律を伴うユーザーインターフェース(UI)」に対してであった。三島は楯の会の結成にあたり、フランスのド・ゴール大統領の制服も手がけたとされるデザイナー、五十嵐九十九(当時の報道ではマキ・ツカモトの偽名を使用)に依頼し、洗練されたデザインの制服を誂えた。春秋冬用の豪奢なダブルの制服や、夏用の純白の制服に身を包み、自衛隊での過酷な体験入隊を経て整然と行進する若者たちの姿は、戦後民主主義という「無機質で中間色の社会」に対する強烈な視覚的アンチテーゼとして機能した。学生たちは、この美しい制服、軍隊的な規律、そして「共に死を覚悟する」というロマンティシズムの表層に熱狂したのである。
しかし、情報工学の観点から見れば、彼らはあくまでシステムの提供する「アプリケーションの末端ユーザー」に過ぎなかった。彼らは画面上に表示される美しいグラフィック(制服や行動様式)の操作方法には習熟していたが、そのプログラムがどのようなソースコードで記述されており、なぜそのようなシステム要件が必要とされたのかという「設計思想のカーネル(核)」を解読する能力を持っていなかったのである。
三島の思想の最深部には、戦後日本というバグだらけの社会システムを正常化させるための「絶対的な基準(ROM=読み取り専用メモリ)」としての天皇の存在があった。昭和四十三年に発表された『文化防衛論』において、三島は天皇を単なる政治的権力者としてではなく、日本の歴史と文化の「全体性の象徴(不可侵のソースコード)」として定義している。「天皇は文化の全体性の象徴であり、それゆえに政治的有効性を超絶した存在である」という彼の論理は、相対主義に陥り崩壊しつつある社会に、書き換え不可能な絶対座標を再インストールしようとする、極めて冷徹なシステム論的アプローチであった。
ところが、楯の会の学生たちの大半は、この高度な構造論を理解していなかった。彼らが抱いていたのは、当時の右翼学生にありがちな、素朴な国体観念や政治的な反共主義、あるいは三島というカリスマに対する情緒的な英雄崇拝の域を出るものではなかった。三島が『文化防衛論』で展開した「菊と刀の統合」や、虚無の淵から立ち上がるためのシステム的要件としての天皇論は、彼らの「低スペックな処理能力」では正しくデコード(解読)されず、単なる「愛国心」や「忠義」といった旧態依然としたロマンティシズムへと勝手にダウングレードされて受信されていたのである。
三島自身は、この絶望的なまでの「通信の非同期」に気づいていなかったわけではない。彼は楯の会の学生たちを愛し、その純粋さを高く評価してはいたが、同時に彼らが自分の思想の「構造」を理解していないことも冷徹に見抜いていた。三島は生前、「楯の会について」というエッセイの中で、彼らを「純粋な行動の集団」として定義づけている。これは裏を返せば、彼らが「複雑な論理を解する集団ではない」という事実の容認である。三島が彼らに求めたのは、自らの複雑怪奇な論理回路を共にトレースする知的な伴走者としての役割ではなく、ただ「共に物理的な死(行動)という最終コマンドを実行してくれる、純粋な実行ファイル」としての役割であった。
しかし、一人の知的なシステム設計者として、平岡公威の深層が真に渇望していたものは何であったか。それは、盲目的にコマンドを実行するだけの端末ではなく、自身の構築した思想のバグを鋭く指摘し、対等なレイヤーで論理の応酬ができる「ピア・ノード(同等の設計者)」であったはずである。中国の思想家・孔子が、自らの論理を最も深く理解していた弟子である顔回を失った際、「天、予を喪ぼせり(天は私を滅ぼしてしまった)」と慟哭したエピソードは、設計思想の継承者を失った者の絶望を見事に表している。孔子にとって他の弟子たちが単なる「行動の実行者」であったのに対し、顔回だけはシステムのOSそのものにアクセスできる唯一の存在であった。当時の三島由紀夫は、この「顔回」を持たない孔子であったと言える。周囲には彼の言葉に酔いしれ、彼の行動に従う数百人の弟子(楯の会会員)がいたが、三島の抱える虚無の深淵と、社会システムを維持・防衛するための過酷な論理構造を理解し、「共に泥にまみれてインフラを保守し続ける」という対案を提示できる真の理解者は、ついに一人として現れなかったのである。
この「完全なる理解者の不在」という絶対的な孤独は、三島由紀夫というシステムが自らを強制終了させる決断を決定的に後押しした。もし彼の周囲に、彼の思想のUIではなくカーネルを正確に解読し、「あなたの論理は正しいが、ここでシステムを停止させる(死ぬ)ことは、インフラの維持という設計者の本来の責務からの逃亡である」と冷徹に指摘できる「エンジニア」が存在していれば、事態は異なっていたかもしれない。しかし、現実に彼を取り囲んでいたのは、彼の美学的な狂気に涙を流して同調し、共に死ぬこと(システムの破壊)を至上の喜びとする純粋で無知な若者たちだけであった。
昭和四十五年十一月二十五日の市ヶ谷駐屯地において、三島と共に決起し、共に切腹して果てた森田必勝らは、三島の行動(最終出力)に対しては完璧なシンクロナイズ(同期)を果たした。しかし、それはどこまで行っても「動作の同期」であり、「思想の同期」ではなかった。森田らは三島というカリスマの描いた悲劇の舞台で、最も忠実な役者を演じきったに過ぎない。三島由紀夫は、数百人の崇拝者に囲まれながら、思想のレイヤーにおいては誰一人とも繋がることのない完全なオフライン状態のまま、自らの腹に刃を突き立てたのである。
楯の会という組織は、三島を現実世界に繋ぎ止め、社会インフラの防衛という持続的な運用へ向かわせるためのネットワークとしては一切機能しなかった。むしろそれは、三島が自分自身の死を「完璧な芸術作品」として演出するための、極めて装飾的な舞台装置として機能してしまったのである。理解なき端末群に囲まれ、自らの言葉が彼らのレベルに合わせて際限なく劣化(曲解)されていく恐怖の中で、孤立したプロセッサに残された自己防衛の手段は、汚染が完全に進行する前に自らの手で電源を落とすことだけであった。
こうして、平岡公威という生身の脆弱なカーネルは、自らが生み出した三島由紀夫という巨大なUIの重圧と、それを盲信する周囲のノイズに押し潰され、静かな絶望の中でシステムの稼働を停止した。本章で論じたこの「アーキテクチャの自己矛盾と孤立」という前提を踏まえた上で、次章では、彼がなぜ「生存(システムの継続)」という泥臭いリアリズムを決定的に拒絶し、「死(システムの停止)」という芸術的完結を選択せざるを得なかったのか。その思想的メカニズムを、「機能美」と「芸術美」の衝突、および武士道の歴史的誤謬という観点から解剖していく。
【引用文献・資料】
・三島由紀夫『文化防衛論』(新潮社、一九六八年)
・三島由紀夫『行動学入門』(文藝春秋、一九七〇年)
・三島由紀夫『楯の会について』(「防衛大学校紀要」昭和四十三年など、諸エッセイに散出)
・村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、一九九〇年)
・ヘンリー・スコット=ストークス 著 / 徳岡孝夫 訳『三島由紀夫 死と真実』(新潮社、一九九八年)




