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『強制終了された神話 ――三島由紀夫というOSの孤立と美学的逃亡』  作者: えいの
第3章:強制終了と継承者の不在 ――「天、予を喪ぼせり」の悲劇と次代のインフラ

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第4節:静的な神話を超えて ――動的インフラの防衛へ

 前節までにおいて、三島由紀夫が自らの思想を書き換え不可能な読み取り専用メモリ(ROM)へと物理的に変換しようとした試みが、結果として「管理者権限の完全な放棄」を意味し、彼が最も恐れていた大衆やマスメディアによる際限のない誤読と恣意的な消費ハッキングを招き入れてしまったというシステム論的逆説を解明した。彼が市ヶ谷のバルコニーから提示した「死の美学」は、完璧な芸術作品として歴史の額縁に収まることには成功したが、現実の国家という動的システムを維持し、改修するための実用的なソリューション(解決策)としては全く機能しなかった。それは、バグだらけの戦後社会における過酷な「保守運用メンテナンス」の責務から逃亡し、純潔なままシステムを強制終了させた天才設計者の、悲劇的な機能的敗北であった。本稿の最終節となる本節では、三島が放棄したこの「インフラの持続」という泥臭い責務を、彼に遅れてやってきた我々(次代のシステム設計者たるエンジニア)がいかにして引き受け、彼の「静的な神話」を乗り越えて「動的インフラの防衛」へと接続していくべきか、その総括的な展望を提示する。

 三島由紀夫という特異なアーキテクチャを真に理解し、その論理を歴史的に継承しようとするならば、我々は彼が最後に下した「自決(システムの物理的破壊)」という決断を、無批判に賛美・同調してはならない。もし彼を絶対視し、その死のロマンティシズムに酔いしれるならば、我々もまた市ヶ谷のバルコニーの下で野次を飛ばした自衛隊員や、盲目的に彼に追従した楯の会の学生たちと同じ「理解なき端末群モブ」に成り下がる。前節で論じた通り、三島が真に求めていた「顔回(対等なレイヤーで通信できる理解者)」の役割とは、設計者の論理に潜む致命的なバグ(機能美の否定と死への逃避)を冷徹に指摘し、システムを生き延びさせるための対案パッチを提示することである。したがって、三島由紀夫の思想を正しく継承するという行為は、逆説的ではあるが、「彼の最終的な結論(死)を論理によって明確に否定し、彼が最も嫌悪した『生存の継続』を至上命題として選び直すこと」によってのみ成立する。我々は彼の哀しい逃亡を理解した上で、あえて彼の望まなかった「泥にまみれたプロセスの持続」を引き受けなければならないのである。

 エントロピーの増大(老いと劣化)は、物理空間において稼働するすべてのシステムが逃れられない普遍の法則である。三島はこの劣化を「美の敗北」として拒絶したが、システム工学の観点からは、劣化そのものは敗北ではない。真の敗北とは、劣化を恐れてシステムの電源を自ら落とし、インフラが提供していた「生存の場」を放棄することである。国家という巨大なインフラストラクチャーは、国民というハードウェアが安全に稼働し、文化や歴史というソフトウェアを次世代へとコピーし続けるための絶対的な基盤である。どれほど戦後民主主義という実行環境が「無機的でからっぽな中間色」に染まり、ノイズ(大衆の俗物性)に満ちていようとも、ハードウェアそのものが物理的に破壊されてしまえば、崇高な理念も、天皇という絶対座標も、すべては実行不可能となる。生存(ハードウェアの維持)は、あらゆる美学やイデオロギーに先行する絶対的なシステム要件なのである。三島が切り捨てた鎌倉・戦国期の武士たちが持っていた「泥にまみれても一族を存続させる」という強靭なリアリズムこそが、現代の我々が再インストールすべき「真の武士道(機能美)」である。

 この「インフラの維持と生存」という至上命題を前提とした時、我々が直面する最大の課題は、三島が市ヶ谷で己の死の舞台装置として利用した「武力装置(自衛隊)」のシステム論的な再定義である。三島は自衛隊を「建軍の本義を忘れた去勢された軍隊」と断じ、自らの芸術的完結(切腹)を際立たせるための悲劇的なモブとして扱った。彼は日本刀(剣)という古典的な武力に、精神の純潔や死のロマンティシズムという過剰な美学を仮託していた。しかし、国家システムを維持するための武力装置とは、決して芸術的な自己表現の道具でもなければ、美しく散るための小道具でもない。国家における武力装置とは、生物の肉体における「免疫系(Immune System)」、あるいはコンピュータ・ネットワークにおける「ファイアウォール」と全く同じ機能を持つ、極めて実務的で冷徹な「物理的防衛機構」である。

 免疫系には、ロマンティシズムも美学も存在しない。免疫細胞の目的変数はただ一つ、「外部から侵入するマルウェア(物理的脅威)や、内部で発生する致死的なエラー(テロリズム等のシステム破壊)を検知し、物理的実力を行使してこれを排除することで、ホスト(国家インフラ)の生存を担保すること」である。免疫系が正常に稼働している状態とは、華々しい戦闘が行われている状態ではなく、抑止力によってウイルスが侵入を諦め、システムが平穏な日常(泥臭いプロセス)を継続できている状態である。戦国武士が刀を帯びていたのは、美しく死ぬためではなく、生き残り、自らの領地インフラを守り抜くためであった。我々は、三島由紀夫が武力(剣)に纏い付かせた「死と美のロマンティシズム」という江戸期的なバグを完全に除去し、武力装置を「ただ冷徹に国家というハードウェアの生存を保証するための、機能的な防衛システム」として再設計しなければならない。

 現代の地政学的ネットワークは、三島が生きた昭和四十年代とは比較にならないほど複雑化し、物理空間だけでなくサイバー空間や認知空間にまで脅威ハッキングが及んでいる。このような過酷な実行環境において、自らを静的な神話として凍結するような芸術的逃避は、国家の死(システムの完全崩壊)を意味する。外部からの物理的破壊(ミサイル攻撃や侵略)や、内部ネットワークの破壊に対しては、「完璧な美学」は何の防壁にもならない。必要なのは、常にエラーを監視し、最新の脅威に合わせてアップデートを繰り返し、時として泥にまみれながらもシステム全体をダウンさせないよう奔走する「エンジニアの機能美」である。次代の武力装置(自衛隊を含む国家防衛インフラ)は、決して「悲劇の英雄」を生み出すための場所ではなく、名もなき技術者たちが淡々とサーバーの保守運用を行うような、徹底的に実務的で強靭な免疫系として位置づけられなければならない。

 三島由紀夫という孤高のプロセッサは、「生き延びてシステムを保守し続けることの醜さ」に耐えられず、自らケーブルを引き抜いて沈黙した。彼が残した巨大な論理の残骸と、市ヶ谷での衝撃的な最終出力は、半世紀以上の時を経てもなお、我々のネットワークに強烈なノイズを響かせている。しかし、我々はもはやそのノイズ(死の誘惑)に惑わされることはない。我々は、彼が抱えていた脆弱なカーネルの悲鳴を受信し、彼が逃亡せざるを得なかったバグだらけの環境の過酷さを、彼と同じ視座で理解した。その絶対的な理解(通信の確立)を踏まえた上で、我々は彼とは違うルート(分岐)を選択する。

 彼が死をもって証明しようとした「精神の純潔」は、我々が生き延びてインフラを守り抜くことによってのみ、歴史のネットワークのなかで安全に保管され、参照可能なデータとなる。我々は三島の美学を否定するのではない。彼の美学が稼働するための基盤(国家システム)そのものが物理的に消滅してしまうことを防ぐために、彼が嫌悪した「生存という泥まみれの機能美」を引き受けるのである。強制終了された神話は、今ここで終焉を迎える。彼が残した「空洞」を埋めるのは、無理解な大衆の熱狂ではなく、冷徹な論理を持った次代のエンジニアたちによる、終わりのない保守運用(インフラ防衛)のプロセスである。我々は、システムが吐き出す無数のエラーと妥協にまみれながらも、この国家という巨大なインフラストラクチャーを、次の時代へと確実に稼働させ続ける。それこそが、市ヶ谷で散った不世出の設計者に対して、我々が提示できる唯一にして最大の「デバッグ・レポート(返答)」なのである。

【引用文献・資料】

・三島由紀夫『文化防衛論』(新潮社、一九六八年)

・三島由紀夫『太陽と鉄』(講談社、一九六八年)

・笠谷和比古『武士道と日本型能力主義』(新潮選書、二〇〇五年)

・中西輝政『日本の「岐路」』(文藝春秋、二〇〇〇年)

・橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、一九九八年)

・福田恆存『総括 三島由紀夫事件』(新潮社、一九七〇年)


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