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夜は、まだ私を離してくれない

 


 小さな庭園事件は、大事にはならなかった。

 あの日から、屋敷は何事もなかったように日常へ戻っていった。


 膝の傷は思ったよりも早く塞がり、歩くたびに感じていた鈍い痛みも、いつの間にか消えていた。


 庭園の小道も、以前と変わらず歩ける。

 ヒールの音が石畳に小さく響くたび、

 あの転倒が、遠い出来事のように思えた。


 使用人たちは、これまでと変わらず丁寧で、親切だった。部屋に入るときは必ず声をかけ、お茶を運ぶ手つきも、以前と同じ。

 ——それなのに。


 胸の奥に、説明できない引っかかりが残っていた。

 理由は分からない。

 分からないからこそ、気になった。


 廊下を曲がるとき。

 階段を下りるとき。

 部屋の扉を閉めた、その直後。


 ふと、背中に視線を感じる。


 振り返っても、誰もいない。

 長い廊下も、踊り場も、磨き上げられた床も、

 私ひとりしかいないはずなのに。


 気のせいだと、何度も自分に言い聞かせた。


 公爵家での暮らしは、穏やかだった。

 食事も、部屋も、向けられる言葉も、

 すべてが過不足なく、優しい。


 ——だから、これはきっと勘違い。


 そう思おうとするほど、

 夜になると、眠りが浅くなる。


 目を閉じても、すぐに意識が浮かび上がる。静かな部屋の中で、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。


 ——危険だ。


 理由もなく、身体の奥がそう告げている。

 前の自分に、戻ったみたいだ。

 分かっているのに、指先が無意識に胸元を探してしまう。もう、そこには何もないのに。


 落ち着かない夜が、少しずつ、確実に増えていった。


 その夜は、どうしても眠れなかった。


 目を閉じるたび、意識が浮かび上がる。心臓の音が、静寂を破るみたいに耳に残る。何かが起きたわけじゃない。それでも、身体だけが先に警戒していた。


 私は、そっと布団を抜け出した。

 少しだけ、外の空気を吸いたかった。

 それだけのつもりだった。


 廊下は、夜の色に沈んでいる。

 昼間とは違う顔をした屋敷が、どこか別の場所みたいに見えた。足音が、やけに大きく響く。


  ——見られている。

 そう思う理由は、どこにもない。


 それでも、嫌な汗が背中をつたう。

 私は足を止め、振り返る。

 誰もいない。

 気のせいだ、と息を吸い直した瞬間——


 背後から、強い力で手首を掴まれた。


 息が詰まる。


 この距離。

 この力の入れ方。

 ——知っている。


 視界の端で、使用人の顔が揺れる。

 焦点の合わない目。

 声を出そうとして、喉が動かない。


「ダイジョウブだ。コワガラカイデ」

 大丈夫。いい子だ。静かにしていれば。


 過去の記憶が、はっきりとした映像を伴わないまま、胸の奥から、溢れ出してくる。


 泣いたらだめだ。弱いと分かったら、終わりだ。

 私は、必死に口角を上げた。

 今にも崩れそうな顔で、怖くないふりをする。


「……離してください」


 声は震えていたけれど、泣かなかった。


 ——怖い。


 心臓が壊れそうなほど打つ。そのとき。


「——離れろ」


 低く、鋭い声。


 掴まれていた手が、乱暴に引き剥がされる。

 赤い瞳が、冷たく使用人を射抜いていた。


「下がれ」


 それだけで、空気が変わった。

 私は、その場に立ち尽くす。


「……大丈夫か」


 近くで聞こえた声に、張りつめていたものが、一気にほどけた。

 止まっていた呼吸が再開する。荒い呼吸は止まらず、ガタガタと全身が震えだす。そんな身体を大きな腕が包み込む。氷のように冷たくなった身体に、だんだんと血液が巡り始めた。


「ルーカス様…」


 安心したはずなのに、私はまた、笑っていた。

 泣くより先に、“笑顔”が出てしまう自分が、少しだけ怖かった。


 その笑顔を見た赤い瞳が、わずかに揺れたことに、私は気づかなかった。

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