夜が終わるまで、そこにいて
夜は、静かだった。
屋敷が眠りにつく時間になっても、ルーカスは部屋に戻らず、長い廊下を歩いていた。
灯りは落とされ、月明かりと最低限のランプだけが、床に淡い影を落としている。
——思い出すつもりはなかった。
だが、夜というのは厄介だ。
余計な音も、人の気配も消えて、否応なく、記憶だけが浮かび上がる。
あの日のことが、脳裏をよぎった。
死にたくなくて。
ただ、それだけで。
彼女は、あの外套を掴んだ。
助けを求める声もなかった。
名前を呼ぶことも、泣き叫ぶこともない。
ただ、必死に。
そこから離れたら終わると、本能で分かっている動物みたいに、逃げ場として、それを掴んだ。
誰かに触れることを恐れられてきた。
生みの親でさえ、本当はその力を恐れていて、必要以上に距離を取っている。
力を持つというだけで、敬われ、避けられ、近づかれなかった。
それが当たり前だった。
そういうものだと思っていた。
——なのに。
彼女は、躊躇なく掴んだ。
恐怖でも、崇拝でもない。
「生きるために選んだ対象」として。
その事実が、今になって、胸の奥を強く締めつける。
今日だってそうだ。
死を前にして、確かに震えていた。
逃げ出したくなるほど怯えていたはずなのに。
それでも、彼女は泣かなかった。
取り乱さず、声を荒げず、代わりに浮かべたのは、場違いなほど丁寧な笑顔だった。
——あれは、防御だ。
これ以上、奪われないための。
そう分かっているのに。
気づけば、自然と足が止まっていた。
目の前にあるのは、彼女の部屋の扉。
扉は閉じられ、内側に気配は薄い。
眠っているのか。
そう考えた瞬間、自分が「眠り」を前提にしていることに、わずかな違和感を覚える。
——人間なら、眠る時間だ。
夜は、終わらない。
ただ、静かに続いていくだけだ。
扉の向こうから、かすかな音がした。
布が擦れる音。
浅く、乱れた呼吸。
そして——
抑えきれなかった、小さな嗚咽。
視線が、自然と扉に固定される。
……昼間は、必死に堪えていたのだろう。
誰も見ていない場所で、ようやく、限界が来た。
胸の奥に広がるのは、怒りでも、同情でもない。
もっと、厄介で、一度掴んだら、手放せなくなる種類の感情だ。
扉に手を伸ばしかけて、一度、拳を握りしめた。
——関わるべきではない。
そう理解している。
それでも。
あのときの感覚を思い出してしまった以上、
扉の向こうで泣いている存在を、見なかったことには、もうできなかった。
夜は、まだ深い。
◇
夜は、ひどく静かだった。
屋敷の奥へ行くほど、音が薄れていく。
昼間に感じていた人の気配も、夜になるとすっかり遠のき、世界そのものが、眠りについたように思える。
——けれど。
眠っているはずの身体だけが、うまく休めていなかった。
夢の中で、私は逃げていた。
狭い路地。
湿った石畳。
背後から伸びてくる手。
声を出そうとしても、喉がひきつる。
助けを呼びたいのに、音にならない。
——だめ。
——見つかる。
身体が、小さく跳ねた。
布団の中で、肩が震える。
息が浅くなり、喉の奥で、かすれた音が漏れそうになるのを、必死で押し殺した。泣いてはいけない。
そう思ったのか、それとも、ただ癖になっているだけなのか。分からないまま、私は声を殺した。
そのとき。
——す、と。
空気が、変わった。
誰かが、部屋に入ってきた気配がする。
次の瞬間、額に、温度を感じた。
大きな手が、そっと髪に触れている。
撫でる、というより、確かめるような動き。
乱暴ではない。
そして、不快感もない。
ただ、そこにある。
それだけで、不思議と、呼吸が整っていく。
さっきまで、耳の奥で鳴り続けていた警鐘が、少しずつ、遠ざかっていく。
——大丈夫。
誰かが、そう言っている気がした。
夢の中で、私は、その温度にしがみついた。
深く、深く、沈む。
温かい手は、完全に眠りに落ちたのを確かめたのだろう。身体を離そうとした、その瞬間。
洋服の裾を握る、拙い指先があった。
それは、無意識だった。
けれど、その手は離れなかった。
服の裾を、ぎゅっと。
引き留めるように。
小さな手は、必死だった。
……仕方ない。
そう呟いた気配が、かすかにした。
椅子を引く音。
布擦れ。
再び、夜が静まる。
——寝るには、まだ早いんだがな。
そんな呟きが聞こえた気がした。
心地良さの中で、気づけば意識は、重く沈んでいった。
——朝。
淡い光が、カーテンの隙間から差し込む。
私は、ゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、見慣れない天井。
次に、視界の端に、黒い影。
「……ルーカス様?」
寝起きの声は、掠れていた。
少しして。
「……やっと起きたか、妹」
低い声。
その言葉に、頭が止まる。
——妹。
思考が、追いつく。
そうだ。
初めて、「妹」と受け入れてくれた?
「……ルーカス、お兄様?」
恐る恐る、そう呼ぶと、
一瞬、赤い瞳がこちらを見る。
「……やめろ」
短く、一瞥。
拒絶ではない。
照れとも違う、何か。
「ルカでいい」
淡々とした声音。
けれど、それを聞いた瞬間、胸の奥がふわりと温かくなった。
「ルカお兄様!」
思わず、笑顔になる。
今度は、はっきりと、嫌そうな顔をされた。
向けられたその視線は、昨夜の冷たさとは、どこか違っていた。
私は、その違いを、
まだ、言葉にできなかったけれど。
——この夜から。
私と兄の関係は変わっていったのだと、
あとになって、気づくことになる。




