穏やかな午後に、許しを乞う
庭園に、やわらかな風が通り抜けていく。
春の光を受けた花々が、穏やかに揺れていた。
白い石畳の小径を歩くたび、足元から伝わる感触が、もう以前ほど頼りなくないことに気づく。
――二年。
公爵家で過ごすようになってから、いつの間にか、それだけの時間が流れていた。
視線を落とすと、花の装飾が愛らしい薄黄色のドレスの裾が、膝の少し下で揺れている。
鏡を見るたびに思う。
あの頃の、骨ばかりが目立っていた自分とは、確かに違う。
隣を歩くお兄様は、相変わらず無駄なことは言わない。
けれど、歩幅は自然と私に合わせられていて、少しだけ前を行きすぎそうになると、何も言わずに歩調を落とす。
それだけで、十分だった。
「……ちゃんと前を見て」
淡々とした声が落ちてくる。
「見てるわ」
「今、花しか見てなかった」
図星だった。
思わず笑ってしまうと、お兄様は小さく息を吐いた。
呆れたようにも見えるけれど、叱る気配はない。
二年前と比べて、お兄様はぐっと背が伸びた。
見上げることが増えた分、以前より距離を感じることもある。
それでも、並んで歩くときの安心感は変わらなかった。
あの事件から、私とお兄様の関係は少しずつ変わった。
気分転換と称して、こうして二人きりで散歩に出ることも多くなった。
言葉は相変わらず少ない。
けれど、歩く速度は、私に合わせてほんのわずかに落ちている。
そのことが、なんだかおかしくて、少しだけ嬉しい。
庭園の奥へ進むと、陽だまりが広がっていた。
柔らかな光の中で、花の香りがより濃く感じられる。
「この庭、前より狭く感じない?」
何気なく言うと、お兄様は少し考えるように間を置いた。
「……君が、前より小さくなくなっただけ」
そっけない言い方。
けれど、否定でもからかいでもない。
「それって、成長したってこと?」
「そう言ったつもり」
淡々とした返事に、思わずくすりと笑った。
こうして並んで歩く時間は、もう特別なものではない。
当たり前の日常の一部になっている。
それが、少し不思議で、とても安心できた。
しばらく歩いたところで、ふと胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
――あれ?
立ち止まり、空を見上げた瞬間、思い出した。
「……いけない。今日は家庭教師の先生の授業だったわ」
声に出した途端、時間の感覚が一気に現実へ引き戻される。
淑女としての立ち居振る舞い、文字、歴史、礼儀作法。
この二年で、学ぶことは山ほど増えた。
「今から戻れば、間に合う」
「ええ、そうね。急がないと」
踵を返すと、背後から低い声がかかる。
「無理はするな。走るな」
「分かってるわ」
小さく頷く。
その背中を見送る視線があることを、振り返らなくても分かっていた。
穏やかな午後。
守られた日常。
――この時間が、ずっと続くような気がしていた。
⸻
庭園を抜け、屋敷の回廊を小走りで進む。
スカートの裾を軽く持ち上げながら、私は少しだけ息を弾ませた。
――間に合った。
扉の前で足を止め、深呼吸をひとつ。
乱れかけた呼吸と髪を整え、控えめにノックをする。
「失礼いたします」
すぐに中から返事があった。
部屋に足を踏み入れた瞬間、張り詰めた空気がふわりと伝わってくる。
書斎の一角を整えた部屋には、机と椅子、書棚、そして窓際に小さな丸卓が置かれていた。
午後の光が淡く床を照らしている。
「おはようございます、アリア様」
柔らかな声で迎えたのは家庭教師の先生だった。
人間の女性で、落ち着いた物腰と穏やかな微笑みを湛えている。
「おはようございます。……少し、遅くなってしまって」
「いえ。まだ時間はありますよ」
微笑まれて、ほっと肩の力が抜けた。
公爵家に迎えられてから、淑女としての教育は欠かさず続いている。
最初はついていくだけで精一杯だったけれど、今はこの時間を嫌だとは思わなくなっていた。
それはきっと――
ここにいていい、と少しずつ認められている気がするから。
「では、今日は昨日の続きをいたしましょうか」
「はい」
椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばす。
以前ほど、この姿勢が苦ではない。
窓の外で、庭園の緑が揺れていた。
季節は、確実に進んでいる。
気づけば、公爵家で過ごした時間のほうが、貧困街で過ごした日々よりも長くなっていた。
それでも、この穏やかな日常を、当たり前だとは思わない。
だからこそ、今日もきちんと学ぼうと思った。
⸻
授業がひと段落したころ、家庭教師が何気ない調子で口を開いた。
「そういえば、アリア様。近くの街では、もうすぐ“リュミエール”のお祭りが始まるそうですよ」
「……お祭り?」
「ええ。母や恋人、大切な女性に光を贈る日です」
光を、贈る。
その言葉が胸に残った。
紫のドレスを纏い、優しく微笑む人の顔が浮かぶ。
――リリアーナ様。
“贈りたい”と思う相手がいることに、自分でも驚いた。
「……素敵ですね」
そう口にして、少しだけ不思議な気持ちになる。
授業が終わり、先生が資料をまとめる横で、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなった。
「……街には、いろいろなお店が出るんですよね」
「ええ。装飾品やお菓子、布製品も。ヴァルシュタイン領の名産品も並びますよ」
胸の奥で、小さな決意が芽生える。
――行きたい。
でも、すぐに思い浮かぶ。
黒髪に紅い瞳。
淡々としていて、でも誰よりも厳しい人。
――ルカお兄様。
きっと、簡単には許してくれない。
それでも。
この気持ちは、思っていたよりも強かった。
⸻
その日の夕食は、いつもより少し賑やかだった。
燭台の明かりが白い食器に反射する中、私はどこか落ち着かずにいた。
――言わなきゃ。
向かいの席で、お兄様が静かに食事をしている。
ふと視線が合い、赤い瞳に一瞬だけ見透かされた気がした。
夕食後、私は談話室へ向かった。
扉の前で深呼吸をして、ノックする。
「……失礼します」
「入れ」
ソファに腰掛けたお兄様が本を閉じ、こちらを見る。
「珍しいな」
「そんな顔で来る時は、大抵ろくな話じゃない」
「……で、何を企んでいるの?」
「そ、そんな言い方……」
「否定しないあたりが怪しい」
苦笑してから、私は話し始めた。
「……街で“リュミエール”のお祭りがあるって」
「リリアーナ様に、何か贈りたいなって思って……」
沈黙。
お兄様は腕を組み、しばらく考える。
「時間は限定」
「護衛は三人」
「寄り道は禁止」
「終わったら、すぐ戻る」
「……え?」
「行っていいと言っている」
胸がぱっと明るくなる。
「……ありがとうございます!」
「声が大きい」
でも、その口元はほんの少し緩んでいた。
「感謝は無事に帰ってきてから」
「……はい」
私は胸の奥で、そっと思う。
――この人は、やっぱり優しい。




