光を贈る日
馬車を降りた瞬間、空気が変わった。
人の気配。
声。
音。
それらが、一斉に押し寄せてくる。
思わず立ち止まった私の横で、護衛が静かに周囲へ視線を巡らせているのが分かった。けれど今の私は、それどころではなかった。
目の前に広がっているのは、今まで見たことのない街の景色だった。
石畳の通り沿いに張られた色とりどりの布。
花で飾られた街路。
淡いピンク、やわらかなオレンジ、やさしい黄色。
どれも派手すぎないのに、街全体がふわりと光を帯びている。
——きれい。
胸の奥から、素直な感想が浮かぶ。
私は、貧困街しか知らなかったわけではない。
幼いころ、母と暮らした場所は、もっと静かな田舎町だった。
小さな市場。
顔と顔がだいたい分かるくらいの人の数。
お祭りといっても、数軒の露店が並ぶ程度。
だからこそ。
こんなふうに、人が溢れ、光と色に満ちた街を見るのは、初めてだった。
足を進めるたび、視界に新しいものが飛び込んでくる。
焼き菓子の甘い香り。
花を束ねる人の手元。
笑い声と音楽。
胸が、少しだけ忙しくなる。
懐かしさと、知らない世界に触れている高揚感が、同時に押し寄せてきた。
昔だったら。
きっと、こういう場所には来られなかった。
来られたとしても、人の流れの端で、邪魔にならないように立ち止まり、早く通り過ぎることばかり考えていたと思う。
でも今は。
淡い色の花で彩られた街路を、
少しだけ背伸びしたヒールで歩いている。
スカートの裾が揺れ、
ふわりとなびく髪が、花の色と同じ光を含んでいる。
——私、ちゃんとここにいる。
そんな感覚が、遅れて胸に落ちてきた。
公爵家の養女として。
ひとりの淑女として。
「無理やり連れてこられた」んじゃない。
自分の足で、この街を歩いている。
花で彩られた通りを進みながら、私はそっと息を吸った。
この光景を、大切な人に贈るために。
それが、今日ここに来た理由だ。
⸻
通りを進むうちに、胸の高鳴りは少しずつ落ち着いてきた。
さっきまでの人の波も、音も、色も、すべてが目新しくて目が回りそうだったのに、今は不思議と足取りが軽い。
並ぶ店のひとつひとつが、きらきらして見える。
ガラス越しに並べられた品々は、どれも丁寧に磨かれていて、そこに混じっているだけで胸の奥が少し浮き立つ。
私は足を止め、小さな宝飾店の前で立ち尽くした。
——ここに、入ってもいいのだろうか。
ほんの一瞬、そんな迷いがよぎる。
けれど、扉の向こうでこちらに気づいた店主は、怪訝な顔ひとつせず、穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
その一言で、胸の奥の緊張が、ふっとほどけた。
貧困街では、店の前に立っただけで追い払われることも珍しくなかった。
ここでは違う。
私は、ちゃんと「お客」として迎えられている。
それが、少し誇らしくて、同時にくすぐったい。
店内は静かで、宝石の並ぶ棚が柔らかな光を受けて輝いていた。
視線を巡らせていると、その中に、ふと目を引くものがあった。
淡い色合いの宝石をあしらった、控えめなバレッタ。
深すぎない、落ち着いた色。
——あ。
自然と、あの人の姿が浮かぶ。
紫色のドレスを纏い、
背筋を伸ばして微笑む、リリアーナ様。
この色なら。
どのドレスにもきっと馴染む。
邪魔をせず、さりげなく寄り添う。
それに——
宝石の色は、どこかリリアーナ様の髪の色に似ていた。
完全に同じではない。
けれど、光を受けたときの柔らかさが、よく似ている。
「……これを、ください」
声に出した瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
自分で選んだ。
誰かに決められたものじゃない。
“私が、贈りたい”と思って選んだもの。
店主は何も詮索せず、丁寧に包みながら静かに頷いた。
支払いを終え、包みを受け取ったとき、私はそれをそっと胸に抱き寄せた。
——大丈夫。
ちゃんと、できた。
そんな小さな達成感が、静かに胸に広がっていく。
公爵家に迎えられてから毎月いただいているお小遣い。
使い道が分からず、ずっと手元に残していたお金。
それを、初めて「使いたい」と思えた。
誰かのために。
それが、こんなにも嬉しいなんて、少し前の私は知らなかった。
⸻
袋を抱えたまま歩き出した、そのときだった。
通りの向こうで、歓声が上がる。
祭りの目玉だと聞いていたショーが始まったらしい。
色とりどりの花びらが、空に舞い上がった。
淡いピンク。
やさしいオレンジ。
光を受けて、風に乗って、ひらひらと降り注ぐ。
私は、思わず足を止めて見上げた。
胸に抱いた贈り物の温もりと、
この街の光と。
それらが重なって、胸の奥で静かに広がっていく。
——きっと、喜んでくれる。
その確信だけを胸に、
私は、もう一度前を向いた。
「わ……」
思わず足を止め、空を見上げた、
その瞬間だった。
——どんっ。
肩に、確かな衝撃。
「うわっ、ごめん!」
同時に、少し高い声がした。
よろけた拍子に一歩下がると、目の前には同じくらいの年頃の男の子がいた。
オレンジ色の、ふわふわとした髪。少し垂れた目が落ち着きなく動いていて、どこか子犬のような印象を受ける。
彼はぶつかった勢いで転び、石畳に手をついていた。
「だ、大丈夫……?」
そう声をかけた、その瞬間。
「おい! ちょっと待て!」
鋭い声が飛ぶ。
振り向くと、近くの屋台の店主が、こちらを睨みつけていた。
「人にぶつかって、そのまま逃げようってのか!
……その袋、盗んだんじゃないだろうな?」
——まずい。
男の子の視線が、一瞬だけ私の手元へ落ちる。
そこには、丁寧に包まれた、小さな袋。
見るからに上質な包装が、彼の着古した服とひどくちぐはぐだった。
次の瞬間。
「やばい、逃げよう!」
手首を掴まれる。
「え、ちょっ——!」
抵抗する暇もなく、引っ張られた。
人混みを縫うように走る。
護衛の姿が、あっという間に遠ざかっていく。
花で彩られた通りを抜け、細い路地を曲がり、さらに奥へ。
「はあ……はあ……」
ようやく、少し開けた別の広場に出たところで、男の子が足を止めた。
「はぁ……もう、走れない……」
息を整える彼を見て、私はようやく気づく。
——手。
彼の手のひらに、赤い線。
転んだときに、擦りむいたのだ。
「怪我、してる」
「え?」
自分の手を見た彼は、きょとんとした顔をしてから、困ったように笑った。
「あ、ほんとだ。でもこれくらい——」
「だめ」
思ったより強い声が出た。
私は鞄を開き、仕立てのいいハンカチを取り出す。
端には、二本の百合の刺繍。
少し歪だけれど、何度も洗って、大切にしているものだった。
「……それ、汚れるよ?」
「いいの」
首を振り、彼の手を取る。
「怪我の原因を作ったのは、私だもの」
血は止まりかけていた。
それでも、そっと包むようにハンカチを巻く。
男の子は、目を丸くしてそれを見つめていた。
「……こんなの、初めてだ」
「?」
「ちゃんと、手当てしてもらうの」
照れたように言ってから、彼は首元に手をやった。
そこで、ふと表情が変わる。
「……あれ?」
焦ったように服の中を探る。
「指輪……指輪がない」
胸元から下げていたらしい、小さな革紐。
その先にあったはずのものが、ない。
「どうしよう……大切なものなのに……」
その声は、さっきまでとは違っていた。
冗談めかした軽さが消えている。
「……一緒に、探そうか」
自然と、そう口にしていた。
彼が驚いたように顔を上げる。
「私もね、大切なものをなくしたことがあるの」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「だから、その気持ち……分かるわ」
少し迷ったあと、彼は小さく頷いた。
二人で、走ってきた路地を戻る。
石畳を見下ろしながら、慎重に探す。
「……あ」
私の足元で、小さな光があった。
しゃがみ込んで拾い上げる。
簡素な指輪。
子供のおもちゃみたいに、どこか安っぽい。
「これ……?」
「あっ!」
彼は、息を呑んで駆け寄ってきた。
「ありがとう! 本当に……」
ぎゅっと指輪を握りしめる。
「形見なんだ。死んだ姉さんの」
その一言で、胸が静かに鳴った。
「……ありがとう。お礼に、これをあげる」
差し出されたのは、細い革紐のブレスレット。
小さな、暖色の石が一粒。
「今日はさ、大切な女の子に贈り物する日だろ?」
照れ隠しみたいに言って、彼は笑う。
「俺の名前は、レオ」
「私は——」
名乗ろうとした、その瞬間。
「あっ、やば。もうこんな時間だ!」
彼は慌てて後ずさる。
「じゃあ、またね!」
手を振って、人混みの向こうへ消えていった。
——気まぐれな猫みたい。
手首のブレスレットが、きらりと光る。
ふと我に返る。
「……帰らなきゃ」




