表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/36

その日、運命は路地裏に落ちていた




「……帰らなきゃ」


 急にはぐれてしまったことで、護衛も心配していることだろう。護衛の元へ戻ろうと、急ぎ足で大通りを目指す。

 けれど、路地は思った以上に複雑で。


「……あ」


 背後に、気配。


 振り返った瞬間、下卑た笑みを浮かべた男たちがいた。


「迷子か? お嬢ちゃん」


 ——距離が近い


 助けを呼ぼうとしても、ヒューと空気が通るだけで、喉が、うまく動かなかった。


「……そこまでだ」


 低く、押し殺した声が背後から落ちた。


 ——え。


 空気が、はっきりと変わる。


 さっきまで耳を満たしていた祭りの音が、

 布を被せられたように、遠のいた。


 男たちが、ぴたりと動きを止める。


 その視線の先に立っていたのは、

 黒い外套に身を包んだ、一人の男だった。


 足音は、静か。

 けれど一歩ごとに、路地の温度が、確実に下がっていく。


 赤い瞳が、男たちを映す。


 怒りではない。

 殺気ですらない。


 ――評価だ。


「排除すべきかどうか」を量るような、

 感情を挟まない視線。


 男の一人が、喉を鳴らした。


「な、なんだ……?」


 答えはなかった。


 次の瞬間、

 視界が歪んだ。


 男たちは、自分たちが“睨まれている”ことに遅れて気づく。


 身体が、言うことをきかない。

 足が、勝手に後ずさる。


 ——逃げなければ。


 本能が叫んでいるのに、

 背中が、ぞわりと粟立つ。


「……失せろ」


 短い一言。


 けれどそれは、命令ではなかった。

「次はない」という、事実の通告だった。


 男たちは、何か言い返すこともできず、

 ほとんど転がるようにして、路地の奥へ消えていった。


 残されたのは、静寂だけ。


 私は、その場から一歩も動けなかった。


 心臓が、うるさい。

 息が、うまく吸えない。


 ——怖い。

 でも、それ以上に。


 “守られた”という感覚が、遅れて胸に落ちてきた。


「……怪我はない?」


 声は、低い。

 けれど、先ほどとは違う。


 張り詰めていた糸を、

 無理やり押さえつけたような声音。


「だ、大丈夫です……」


 そう答えながら、

 自分の声が、わずかに震えていることに気づく。


 赤い瞳が、私を捉える。


 さっきまで男たちを見ていた目とは、明らかに違う。

 確かめるように、

 逃がさないように。


 ——消えたと思った。


 そう言われている気がした。


「……目を離した隙に、いなくなるな」


 低く、強く。


 責めている。

 けれどそれ以上に、失う可能性を想像してしまった人の声だった。


「心臓に悪い」


 その一言で、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


「……ごめんなさい」


 私がそう言うと、お兄様は、ようやく小さく息を吐いた。


 ほんの一瞬、

 赤い瞳が伏せられる。


「……無事でよかった」


 それは、祈りにも似た、短い言葉だった。




 お兄様に手を引かれたまま、私は馬車へと向かった。


 人混みを抜ける間、周囲のざわめきは不思議なほど遠く感じられる。

 さっきまであれほど騒がしかった祭りの音も、兄の背中のすぐ後ろでは、別の世界の出来事みたいだった。


 馬車の扉が開き、先に促されるまま中へ乗り込む。

 そのとき、ふと気づいた。


 ——護衛の人たちの姿が、ない。


 先に戻ったのだろうか。

 きちんと謝ることもできない。きちんとお礼をしたかったのに。


 あたりを見回す間もなく、お兄様が後から馬車に乗り込み、扉が閉められた。


 ぱたん、と小さな音。


 それだけで、外の世界が完全に遮断された気がした。

 胸の奥に張りついていたものが、ゆっくりとほどけていく。


 さっきまでの不安も、知らない男たちの視線も、兄の声を聞いた瞬間に、すっと薄れていた。


 向かいに座るお兄様は、外を見たまま口を閉ざしている。

 赤い瞳は夜の気配を映して、感情を読み取らせない。


 ……少し、機嫌が悪そうだ。


 そう思ったけれど、どうしてなのかまでは、考えが及ばなかった。


 馬車が揺れる。

 車輪の音が一定のリズムを刻むのに、兄の気配だけが妙に鋭いままだった。


 沈黙が続く。

 耐えきれず、私は小さく口を開く。


「……ごめんなさい」


 視線が、ほんの一瞬だけこちらへ動く。

 すぐに外へ戻ったけれど、見られた気がした。


「謝るな」


 低い声。短い命令のような言い方。

 けれど、責める響きではなかった。


「……次は、勝手に消えないで」


 それだけ言って、お兄様は再び外へ視線を固定する。

 言葉の端に、まだ冷えきらない何かが残っている。


 ——怒っている、というより。


 それよりもっと、深いところが揺れているみたいだった。




―――――



 屋敷に戻ると、玄関ホールの灯りが、私たちを迎え入れてくれる。


 使用人たちが静かに頭を下げ、私はその中を通り抜けながら、胸の奥で小さく息を吐いた。

 少しだけ、緊張していたのだ。


 ——勇気を出さなきゃ。


 あの人に、渡すのだから。


 夕食の席は、いつもより少しだけ賑やかだった。


 燭台の明かりが、食器に反射して揺れている。

 リリアーナ様は私の様子を見て微笑んだ。


「楽しかった?」


「はい」


 素直に頷くと、それだけで嬉しそうに目を細めてくれる。


 胸の奥が、あたたかくなる。

 同時に、言わなければ、と思った。


「リリアーナ様……」


 声をかけて、一歩前へ出る。

 仕立てのいい、ほんのり光沢のある袋を、両手で差し出した。


「今日は……大切な人に、光を贈る日なんだって、教えてもらいました」


 一瞬、言葉に詰まりそうになる。

 でも、ちゃんと伝えたかった。


「いつも、ありがとうございます」


 そして、少しだけ声を震わせながら。


「……お母様」


 一瞬、空気が止まった。


 リリアーナ様の瞳が、驚いたように大きく開く。

 すぐに、やわらかく細められた。


「あら……」


 そっと胸に手を当てて。


「ありがとう、アリアちゃん」


 その声は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。


 リリアーナ様が袋を開け、中のバレッタを目にした瞬間、息をのむ。

 髪色に似た宝石。紫のドレスにも、きっとよく映える。


「とても、素敵……」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがふわっとほどけた。


 ——よかった。


 ちゃんと、渡せた。

 大切な人に喜んでもらえることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。


 その隣で、お兄様は黙ったまま料理に手をつけていた。けれど、時折こちらに向けられる視線が、どこか鋭い。


 ——変な匂いをつけてきて。


 ふいに、低くそう呟かれて、私は思わず瞬きをした。


「……え?」


「いや」


 それだけ言って、お兄様はそれ以上何も続けなかった。


 何のことだろう。香水もつけていないし、街で特別なことをした覚えもない。分からないまま、私はその言葉を胸の奥にしまい込んだ。


 その夜。


 部屋に戻り、ベッドに腰掛けてから、ようやく一日が終わった実感が湧いてくる。


 袖を外し、手首に目を落とす。


 そこには、昼間渡されたブレスレットがあった。

 緑と橙が混ざった、小さな石。軽くて、邪魔にならない。


 ——今日は、そういう日だから。


 あの人は、そう言っていた。思い出すと、自然と口元が緩む。大切にしよう。そう思いながら、私はブレスレットを外し、机の上にそっと置いた。


 それが——

 誰かの視線に晒されていることにも気づかずに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ