夜は語らず、朝は笑う
屋敷が眠りについた頃。
人の気配は遠のき、灯りも最小限に落とされた時間帯。
その部屋の扉は、音もなく開いた。
寝台の上で、少女は静かに眠っている。
規則正しい呼吸。
昼間の高揚がまだ残っているのか、口元は、わずかに緩んでいた。
——無防備すぎる。
視線が、自然と手元へ落ちる。
机の上に置かれた、小さな装身具。
緑と橙が混ざった石を連ねた、安っぽい細工のブレスレット。
そこに残る、微かな気配。
鼻をつくほどではない。
けれど、決して無視できない匂いだった。
不快、というより——
侵入に近い。
「……」
近づき、指先でそれを持ち上げる。
軽い。
無防備で、無知な贈り物。
少女の善意に付け込んだことだけは、はっきりと分かった。
掌の中で、
ブレスレットが、かすかに軋む。
石の奥に絡みついていたものが、
音もなく、ほどけていく。
抵抗はない。
ただ、剥がされることを想定していなかっただけだ。
「趣味の悪い……」
低く、吐き捨てる。
力を抜くと、ブレスレットは元の形に戻った。
ただし、色は、少しだけ鈍くなっている。
完全には壊していない。
——壊す必要はない。
害になるものを、取り除いただけだ。
視線が、再び眠る少女へ戻る。
布団の中で、小さく寝返りを打つ。
指先が、無意識に胸元へ伸びかけて、
そこで止まった。
——もう、あれはない。
その事実を、本人がどれほど自覚しているのかは分からない。だが。それでも、眠れている。
今は、それでいい。
次に、指先が、そっと少女の手に触れる。
起こさない程度の力で、新しい指輪を、静かに嵌めた。
まだ、守りではない。
誓いでもない。
ただ、“外されない位置”に置いただけだ。
ひと呼吸分、そのまま留まり。
やがて、踵を返す。
扉が閉じられる直前、もう一度だけ、少女を振り返った。
——知らなくていい。
この世界の匂いも、触れてはいけないものも。
朝になれば、また何事もなかったように笑うのだろう。
そのために、夜は、こちらが引き受ける。
扉が、静かに閉まる。
屋敷の闇は、再び、何事もなかった顔で息を潜めた。
◇
朝の光で、目が覚めた。
カーテン越しに差し込む陽射しはやわらかく、昨日の喧騒が、嘘だったみたいに思える。
身体を起こし、寝間着の袖を整えながら、私は小さく息を吸った。
——よく、眠れた。
久しぶりに、夢も見ず、朝まで眠れた気がする。そのことが、少し不思議だった。
ベッドを降り、机の上に置いたままのブレスレットに目を向ける。
昨日、もらったもの。
緑と橙が混ざった、小さな石。
……。
ほんの一瞬、何かに引っかかるような感覚があった。
色。
昨日より、ほんの少しだけ——
落ち着いた色合いになったような気がする。
気のせい、だろうか。
指先で触れてみる。
ひんやりとしていて、特別な違和感はない。
「……気のせいよね」
そう呟いて、私はブレスレットを机の引き出しへとしまった。
そのとき。
指に、何かが触れた。
——指輪?
驚いて、手元を見る。
細く、シンプルな指輪が、いつの間にか、左手の指に嵌っていた。
「……?」
外そうとしても、きついわけでもなく、するりと指に馴染んでいる。
昨日は、なかったはず。
誰が……?
考えかけて、すぐに答えが浮かぶ。
——ルカお兄様。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
不思議と、怖いとは思わなかった。
むしろ。
「大切な人に贈る日」に、
私に指輪を残していったこと。
その事実だけが、胸の奥を、少しだけくすぐった。
ベッドを降り、身支度を整える。
指輪は外さず、そのままにした。
「……ありがとう」
誰に聞かせるでもなく、私は小さく呟く。
窓の外では、穏やかな朝の気配が、庭園に満ちている。
この家で過ごす日々は、今日も、何事もなく始まろうとしていた。
——まだ、私は知らない。
この指輪が、
“守り”ではなく、
“選択”の始まりだったことを。




