十四歳、はじめての選択
十四歳になった。
公爵家の養子になってから、四年。
鏡の前に立つたび、少しずつ変わっていく自分の姿に、確かに“大人に近づいている”のを感じる。
淡い桃色の髪は、腰に届くほど長く伸びていた。
昔は重たく感じていたはずのそれが、今では不思議と身体に馴染んでいる。
——長い髪の方が似合う。
軽い気持ちで「短くしようかな」と相談したとき、ぶっきらぼうな口調で、お兄様はそう言った。
理由も説明しないまま。
それ以来、切ろうと思ったことは一度もない。
誰かに褒められたから、というよりも、
「私のことを、ちゃんと見て言ってくれた」
その事実だけが、胸の奥に残っていた。
身体つきも、少しずつ年相応になった。
まだ華奢ではあるけれど、かつてのような頼りなさはない。
使用人たちに囲まれて過ごす日々の中で、私は、少しずつこの場所を「自分の居場所」として受け取れるようになっていた。
——ここが、私の居場所だよ。
そう言葉にされなくても、伝えられている気がした。だからこそ、ある日、ふと、思ってしまったのだ。
外の世界を、見てみたい。
きっかけは、ほんの些細なことだった。
家庭教師の話の中で出てきた、「学校」という場所。
同じ年頃の子どもたちが集い、学び、話し、笑い合う場所。それは、私の知らない世界だった。
屋敷での暮らしに、不満があったわけじゃない。むしろ、満たされていた。
それでも、
「知らないままでいる」ことに、
少しだけ、息苦しさを覚え始めていた。
⸻
談話室に集まった家族の空気は、穏やかだった。
お母様は紅茶を口にし、お父様は書類から顔を上げる。私は、左手の指輪に触れ、ゆっくりと深呼吸をした。
「お父様。お母様」
二人の視線が、同時にこちらへ向く。
胸の奥が、きゅっと縮む。
けれど、逃げなかった。
「……お願いがあります」
言葉にした瞬間、それが“わがまま”であることを、自分でもはっきりと自覚した。
公爵家の養女として。
守られて生きてきた身として。
「学校に、通ってみたいんです」
一瞬、空気が止まる。
お母様が目を瞬かせ、お父様の表情が、わずかに強張った。
「学校、とは……」
「はい。
週に二日だけでも構いません」
早口にならないよう、意識して続ける。
「家庭教師の先生から聞きました。
身分を伏せて、普通の子どもたちと学べる学校があると」
お父様は、すぐには答えなかった。
椅子に深く腰掛け直し、両手を組んだまま、しばらく考え込む。
「……外は、危険だよ」
低く、慎重な声。
「君は、自分がどれほど目立つ存在か、まだ分かっていない」
それは叱責ではなく、心配から出た言葉だった。
「この世界は、優しさばかりじゃない。
君を利用しようとする者もいる」
分かっている。
だからこそ、私は視線を逸らさなかった。
「それでも……知りたいんです」
声を落ち着かせて、続ける。
「外の世界を。
同じ年頃の子たちが、何を考えて、どんなふうに笑っているのか」
一瞬、声が揺れた。
「ここでの暮らしは、幸せです。
でも……それだけしか知らないままだと、
私、きっと怖くなってしまう」
沈黙。
お父様は、すぐに答えなかった。
お母様が、そっと夫の手に触れる。
「あなた」
静かな声。
「この子は、逃げたいわけじゃないのよ。
ちゃんと、前を見ているだけ」
お父様は、深く息を吐いた。
長い沈黙の末、
ようやく口を開く。
「……条件がある」
私は、思わず背筋を伸ばした。
「必ず送迎をつけること。
学校の外で、一人にならないこと」
ひとつ、ふたつと条件が重なる。
「それから——」
視線が、私の指元に落ちる。
「その指輪は、外しちゃだめだよ」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「体調が優れない、という表向きの理由も用意する。
通学は、週に二日までだ」
一拍置いて、
お父様は静かに言った。
「それでもいいなら、許可しよう」
一瞬、言葉が出なかった。
次の瞬間、胸の奥から、じわっと熱いものが込み上げる。
「……ありがとうございます」
深く、頭を下げた。
わがままを、受け入れてもらえた。
守られながら、一歩、外へ出ることを。
⸻
その夜。
部屋へ戻る途中で、廊下の角を曲がったところで、私は足を止めた。
そこに、お兄様が立っていた。
壁際のランプの淡い光が、黒い髪を縁取っている。
背はさらに伸び、肩幅も広くなっていて、立っているだけで空間を圧するような存在感があった。
十九歳。
もう「お兄様」と呼ぶには、少しだけためらいが生まれるほどの姿。
整いすぎた顔立ちは変わらないのに、少年の面影はほとんど残っていない。
冷たい彫刻みたいな美しさ。
人のものとは思えないほど整っていて、視線を向けられるだけで、距離を測りたくなる。
――近寄りがたい。
きっと、他の人から見ればそうなのだろう。
「……学校?」
低く、落ち着いた声。
昔よりもずっと深く、胸の奥に直接届くような声だった。
私は、自然と姿勢を正す。
「はい」
一瞬、赤い瞳が私を捉える。
その視線は鋭くて、何もかも見透かすようなのに――
不思議と、怖くはなかった。
むしろ、その隣に立つと、呼吸が落ち着く。
子どもの頃から、何度もそうだった。
この人の近くにいると、世界の輪郭がはっきりする。
お兄様の視線が、ゆっくりと私の長い髪へ落ちる。
腰まで伸びた、淡い桃色。
一拍の沈黙。
「……好きにして」
相変わらず、素っ気ない言葉。
でも、その声には、拒絶も苛立ちもなかった。
それどころか――
どこか、覚悟を含んだような響き。
「どうせ止めても、行く」
低く、静かな声。
私は思わず、くすりと笑ってしまった。
「……はい」
ほんの一瞬だけ、お兄様の視線がこちらに戻る。
赤い瞳が、ほんのわずかに揺れたように見えたのは、気のせいだろうか。
すぐに、お兄様は視線を逸らす。
「無理はするな」
それだけ言って、歩き出す。
その背中は、以前よりもずっと大きく、遠く感じる。
なのに――
私はその後ろ姿を見て、胸の奥が、静かに落ち着いていくのを感じていた。
近寄りがたいのに。
触れれば危うそうなのに。
それでも。
この人の隣が、一番安心できる。
――少しずつでいい。
守られた場所から、外の世界へ。
私は、ちゃんと前を向いて歩いていく。
その背後には、
夜を引き受ける人がいることを、知りながら。
⸻
屋敷の門を出たのは、朝の光がまだ柔らかい時間だった。
馬車に乗り込むとき、私は無意識に背筋を伸ばす。
胸の奥が、少しだけそわそわしているのが、自分でも分かった。
——学校。
そう思うだけで、心臓が、わずかに早くなる。
制服は、動きやすく、それでいて質のいいものだった。
派手さはなく、けれど決して安っぽくもない。
目立たないこと。
それが、何よりも大切な条件だった。
ヴァルシュタイン公爵家の名は、外の世界ではあまりにも重い。
その一言で動く金も、人も、情報も、桁が違う。
金融、物流、鉱山、魔術資源。
表に出ない部分まで含めれば、この国の根幹に深く食い込んでいる家。
だからこそ。
その名を冠する者は、常に注目され、探られ、値踏みされる。
——私は、知られてはいけない。
公爵家に養女がいること自体、
外ではほとんど知られていない。
必要以上に興味を引かないよう、
存在そのものが、慎重に伏せられてきた。
だから今日の私は、
ヴァルシュタインの娘ではない。
馬車の向かいには、護衛の姿がある。
表向きは、ただの使用人。
その視線が、さりげなく私の周囲を確認しているのが分かる。
——ひとりじゃない。
それだけで、少しだけ、肩の力が抜けた。
馬車を降りる直前、私は左手の指輪にそっと触れる。
ひんやりとした金属の感触。
それが、指先から胸の奥へと伝わっていく。
大丈夫。
不安なとき。
頑張りたいとき。
心を落ち着かせたいとき。
いつの間にか、そうやって確かめる癖がついていた。
この指輪は、もう私の一部みたいなものだった。
「行ってらっしゃい、アリア様」
御者の声に、私は小さく頷く。
「……行ってきます」
そう答えてから、ふと思う。
ここでは、“アリア様”ではないのだと。
校舎の前に立ち、名簿に記された名前を、頭の中でなぞる。
——アリア・フェルン。
どこにでもありそうな、素朴な苗字。
けれど今の私には、それがちょうどよかった。
公爵家の養女でもなく、
守られるだけの存在でもない。
ただの、十四歳の少女として。
学校の門は、思っていたよりもずっと普通だった。
立派すぎるわけでもなく、
かといって古びてもいない。
同じ年頃の子どもたちが、
友達と話しながら中へ入っていく。
その輪の中に、私も混じる。
それだけのことなのに、
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
——学校。
家庭教師から聞いていた場所。
本の中でしか知らなかった世界。
教室に入ると、数人の視線がこちらに向いた。
一瞬、足が止まりそうになる。
そのとき、また指輪に触れる。
深呼吸。
私は、ちゃんとここに立っている。
「転入生の紹介をするわ」
教師の声に促され、前へ出る。
「アリア・フェルンです。
よろしくお願いします」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
ざわ、と小さなどよめき。
でも、嫌なものではない。
席に着くと、隣の女の子が、にこりと笑った。
「私はミレイ。私も最近転入してきたの。
よろしくね」
「よろしく、ミレイちゃん」
「よろしく、アリア」
それだけのやり取りなのに、
胸の奥が、ぱっと明るくなる。
名前を呼ばれること。
対等に、挨拶を交わすこと。
こんなにも自然なことだったのだと、今さら思う。
授業は、家庭教師のものと大きく変わらなかった。
読み書き。
簡単な計算。
歴史の基礎。
内容は、正直に言えば、
今まで習ってきたものよりも簡単だった。
それでも。
黒板の前に立つ先生の声。
周囲で鉛筆を走らせる音。
同じページを、同じ速度でめくる感覚。
教室には、人の気配がある。
誰かがつまずけば、小さな笑い声が起き、
先生に注意されて、また静かになる。
——生きている場所、だ。
そんなふうに感じた。
休み時間。
ミレイが、机を寄せてくる。
「ねえ、アリア。どこから来たの?」
「……少し、遠くから」
嘘ではない。
それ以上は聞かれなかった。
「そうなんだ。髪、すごくきれいね」
「え?」
「長いの、似合ってる」
思わず、左手が髪に触れる。
——長い髪の方が似合う。
あの声が、ふっと脳裏をよぎった。
「ありがとう」
そう答えると、ミレイは嬉しそうに笑った。
好きな本の話。
苦手な教科の話。
他愛のない、でも確かなやり取り。
気づけば、緊張はほとんど消えていた。
窓の外を見ると、校門の向こうに、見慣れた馬車が停まっている。
迎えが来ているのだろう。
——やっぱり、少し特別。
そんな違和感が、胸の隅をかすめたけれど、今の私は、それを深く考えなかった。
左手の指輪に、もう一度触れる。
ここにいていい。
そう言われている気がした。
今日の私は、アリア・フェルンとして、ちゃんと一日を過ごせている。
それが、ただ嬉しかった。




