触れさせない人
公爵家で過ごすようになって、三ヶ月が経った。
少し遅い朝。
目を覚ますと、窓の外は明るい。
白一色だった景色はすっかり姿を消し、庭の木々には柔らかな緑が戻ってきている。
——あたたかい。
穏やかな陽射しを浴びて、胸の奥が少し軽くなる。
侍女に髪を整えてもらい、用意された服に袖を通す。最初は慣れなかった動作も、今では自然に受け入れられるようになっていた。
「今日は、暖かくなりそうですよ」
そう声をかけてくれる使用人に、私は笑顔で頷く。
「はい。嬉しいです」
言葉が、以前よりもすんなりと出るようになった。声も、震えなくなった。三ヶ月前の自分を思い出すと、少し不思議な気分になる。
痩せすぎて、服に着られていた身体は
今はもうない。
鏡に映る自分は相変わらず細いけれど、
骨ばかりが目立つことはなくなった。
相変わらず朝食は、いつも自室に運ばれる。
小さなテーブルに並べられた温かい料理を、ひとりで食べる時間。静かで、落ち着いていて、私はこの時間が嫌いではなかった。
夜は、家族で揃って食事をする。
リリアーナ様と他愛のない話をして、アルベルト様の穏やかな声を聞く。
ルーカス様は、途中で席を立つことが多いけれど、それももう、特別なことではなくなっていた。
朝だけが、少し違う。
けれど、その理由を考えたことはなかった。
アルベルト様もリリアーナ様も朝は苦手だと使用人たちが話していたし、ここでは、そういうものなのだろう、と自然に受け入れていた。
食事を終え、パラパラと本をめくっていると、使用人が声をかけてきた。
「本日は、お庭を散歩なさいますか?」
「はい。お願いします」
返事をすると、
侍女はどこか嬉しそうに微笑んだ。
私が植物図鑑を眺めていたことに気がついていたみたいだ。
この家の人たちは、皆、優しい。
それを、私はもう疑わなくなっていた。
部屋を出ると、廊下の窓から春の光が差し込んでいる。
三か月。
あの雪の夜から、もうそんなに時間が経ったらしい。庭園の木々は芽吹き、冷たかった風は、やわらかく頬を撫でるようになった。それで、十分だった。この家での暮らしは、私にとって十分すぎるほど満たされていた。
その日、私は少しだけ背伸びをした。
淡いピンク色のドレスに、
いつもよりほんの少し高いヒール。
歩けないほどではない。
でも、まだ慣れてはいない高さ。
庭園を歩くくらいなら、大丈夫だろうと思った。春を迎えた庭園は、きっと気持ちがいいだろう。私は、少しだけ高くなったヒールの感触を確かめながら、差し込む光のほうへと歩き出した。
「アリア様、足元に気をつけてくださいね」
「ありがとうございます。でもこれくらい平気です」
土をふむ感触が心地よく、一歩、一歩が早くなる。
私は少しだけ浮かれていたのかもしれない。
花の香りが風に混じり、遠くで小鳥の声がする。その中で御伽話のような世界は、現実へと強制的に引き戻された。
足元で、かすかな音がする。
小石。
それに気づいた時には、
バランスを崩していた。
視界が一瞬、傾く。
「あ——」
倒れるほどではない。けれど、足をついた拍子に、ひどく鋭い痛みが走った。膝に、熱が集まる。ドレスをめくると、白かった肌に、赤い色がにじんでいた。
ほんの少し。たいした怪我ではない。
それなのに。
「……?」
胸の奥が、ざわりとする。
理由は分からない。
ただ、空気が、ほんのわずか変わった気がした。
近くにいた使用人が、すぐに駆け寄ってくる。
「アリア様、大丈夫ですか」
声は落ち着いている。
でも、距離が、少し近い。
手当てをしようとする指先が、
一瞬、止まった。
——近い。そう思ったのは、私だけだろうか。
使用人の呼吸が、ほんのわずかに早くなっている気がした。気のせいだ。そう思おうとした、その時。風が、強く吹いた。庭の奥から、足音が聞こえる。
「……何をしている」
低い声。
振り返ると、そこに立っていたのは、ルーカス様だった。赤い瞳が、私の膝を一瞥する。そして、その瞳は使用人へと向けられる。
「下がれ」
たった一言。
けれど、その場の空気が、
はっきりと切り替わった。
使用人は、我に返ったように一歩下がり、深く頭を下げる。私は、何が起きたのか分からないまま、その場に立ち尽くしていた。
「……大丈夫か」
ルーカス様の視線が、私に向けられる。
ルーカス様と言葉を交わすのは久しぶりだ。
相変わらず、近寄りがたい。それでも、その声は、いつもよりも少しだけ低かった。
「はい。少し、転んだだけです」
そう答えると、ルーカス様は、それ以上何も言わなかった。ただ、私と、血のにじんだ膝から、目を離さなかった。
——春は、もう来ているはずなのに。
なぜか、その日だけ、肌に触れる空気は、少し冷たく感じられた。
「……歩けるか」
問いかけは短い。
けれど、拒む余地を与えない声だった。
「はい」
反射的に答えると、ルーカス様はそれ以上何も言わず、私に背を向けた。
「ついてこい」
命令のようでいて、不思議と乱暴さはなかった。
私は小さく息を吸い、血の滲んだ膝をかばいながら、一歩を踏み出す。
石畳の感触が、靴底越しに伝わる。
昼下がりの庭園は、春の光に満ちているはずなのに、なぜか、足元だけが冷たかった。
歩けないわけじゃない。
そう、自分に言い聞かせる。
少し遅れて、もう一歩。
そのたびに、膝の奥で鈍い痛みが広がった。
けれど、声には出さない。
後ろから、視線を感じる。
振り返らなくても分かる。
あの赤い瞳が、私の歩幅と、膝の動きと、
一つ一つを、静かに見ている。
——見られている。
その感覚に、背筋がわずかに強張る。
それでも、歩く。もう少し。
部屋まで、あと少し。
そう思った瞬間だった。
視界が、ふっと傾いた。
「……無駄だな」
低く、淡々とした声。
次の瞬間、身体が、地面から離れる。
「……え?」
声が、遅れて出た。
気づいたときには、私は、ルーカス様の腕の中にいた。いわゆる、姫抱き。驚きで、息を詰めたまま固まっている私をよそに、ルーカス様は、何事もなかったかのように歩き出す。腕はしっかりと回されているのに、抱き寄せられている、という感じはしない。
距離は近い。
けれど、温度は、ひどく冷静だった。
「……すみません」
遅れて、そう言うと、ルーカス様は、ちらりと視線だけを落とした。
「謝る必要はない」
それだけ言って、また前を向く。
胸元に、彼の外套の布が触れる。
指先に、革手袋の感触が伝わる。
近い。
近すぎる。
なのに、心臓は、思ったほど騒がなかった。
それどころか、揺れに身を預けているうちに、
足元を気にしなくていいという事実が、
じわじわと、身体に染みてくる。
——歩かなくていい。
そのことに、ほっとしてしまった自分に、少しだけ戸惑った。
廊下に入ると、庭園の空気が遠のく。
石の壁に囲まれた屋敷の中は、ひんやりとして、静かだった。ルーカス様の視線は、前を向いたまま。表情は変わらない。赤い瞳は冷たく、いつもと同じように、感情を読ませない。
それなのにその腕の内側から、別のざわめきが、微かに伝わってきた。規則正しいはずの歩調に、ほんのわずかな乱れ。呼吸の深さが、一瞬だけ、変わった気がした。——気のせい?そう思おうとしたけれど、胸の奥が、なぜか落ち着かなかった。
そうしている間に、自分の部屋の前にたどり着いてしまった。ルーカス様は私を片腕で支え、扉をノックした。
「子供連れてきた」
簡潔な一言。
すぐに、中から慌てた足音がして、扉が開く。
「まあ……!」
部屋付きのメイドが、私の膝を見るなり、息をのんだ。
「お怪我を……!」
「転んだだけだ」
ルーカス様が、先にそう告げる。
それだけ言うと、もう用は済んだと言わんばかりに、踵を返した。
「あの——」
思わず、声が出る。
呼び止めた理由は、自分でもよく分からない。
感謝を伝えたかったのか、それとも、ただ引き留めたかったのか。ルーカス様は、ほんの一瞬だけ立ち止まった。振り返らないまま、低く言う。
「無理をするな」
それだけ。
次の瞬間には、その背中は、廊下の向こうへと消えていた。部屋に残された私は、しばらく、扉の閉まった先を見つめていた。
「アリア様、こちらへ」
メイドの声に促され、我に返る。
椅子に座らされ、丁寧に、膝の傷を洗われる。
「少し擦りむいた程度ですね。すぐ治りますよ」
優しい手つき。
手慣れた動作で、包帯が巻かれていく。
「……ご心配をおかけして、すみません」
そう言うと、メイドは少し驚いたように目を瞬かせてから、微笑んだ。
「謝ることじゃありませんよ。綺麗なお肌に傷が残らなくてよかった」
「アリア様。春の庭園は楽しかったですか?」
思わず、返答に困ってしまい、コクリと小さく頷く。
確かに、季節はもう変わっている。
雪の冷たさは、どこにもない。
それなのに、胸の奥にさっき感じたあのひんやりとした感覚だけが、残っていた。冷たい瞳の奥で、別の何かが静かに動き始めている。
そんな予感だけが、消えずに残っていた。




