優しさは、まだ怖い
用意された服は、今まで着ていたボロ布とは比べ物にならない上質なものだった。
生地は柔らかく、肌に擦れない、淡いペールグリーンのワンピース。少しだけ踵の高い靴は、ふかふかとしていて、足の裏が床の冷たさを直接感じない。
——私が、これを履いていいの?
そんな疑問が浮かぶのに、使用人は当然のように靴紐を結ぶ。当たり前に世話をされることが、まだ怖い。けれど、その怖さの奥に、言葉にしづらい温かさがある。
部屋を出て、長い廊下を歩く。窓の外は冬の白さを含んでいて、屋敷の中の静けさがいっそう濃く感じられた。
曲がり角の向こうから、足音が近づいてくる。
すれ違いざま、空気が一段冷えた。
顔を上げる前から分かってしまう。あの気配。
ルーカス様が、こちらへ歩いてきた。
黒髪が揺れ、紅い瞳がこちらを掠める。
昨日よりも明るい場所で見るその顔は、やはり現実味がなかった。整いすぎている。彫刻のようで、息をしているのが不自然に思えるほどだった。
そういう違和感。
視線が、一瞬だけ刺さる。
私の身体が、勝手に強張った。
心臓を掴まれるような緊張が、喉元までせり上がる。でもルーカス様は何も言わず、ほんの少しだけ眉を寄せて、通り過ぎようとする。その瞬間、私は思わず口を開いていた。
「……おはようございます、ルーカス様」
返事が来ると思っていなかった。
貧困街なら、こんな挨拶は無意味だった。返ってくるのは嘲笑か無視か、もっと別のものだ。
ルーカス様は足を止めた。
紅い瞳が、こちらを見下ろす。
深くて、冷たい。
でも、怒っているだけとも違う。
「……その髪」
小さく呟くように言って、言葉が途切れる。
胸が詰まる。
何か悪いことをしたのだろうか。
勝手に切ったと思われた?
けれどルーカス様は、それ以上何も言わずに視線を外した。
「……好きにしろ」
短い言葉だけを残して、歩き出す。
好きにしろ。
突き放すようなのに、どこか、逃げ道を与えられたようにも聞こえる。
私はその場に残り、息を吐いた。
背中が遠ざかるのを見送るだけで、肩の力が抜けていく。
「……大丈夫でございますか」
使用人が気遣う。
私は頷いた。大丈夫と言いたかった。
大丈夫だと思いたかった。
ゆっくりと深呼吸をして、お茶会へと向かう。
長い廊下の先で、甘い香りが漂ってきた。
砂糖の匂い。焼き菓子の香り。
その香りに、胸の奥が小さく震えた。
甘いものなんて、
貧困街では、夢の中にしかないものなのに。
足を止めてしまいそうになるのをこらえて、歩みを進める。扉の前に立つと、使用人が静かに扉を開いた。
部屋の中は、柔らかな光に満ちていた。
白いクロスのかかった小さなテーブル。
その上には、焼き色のついた菓子や、果実を使ったタルト、淡い色の紅茶が用意されている。
そして、その向こうに――
昨日とは違うドレスを身に纏った女性が、立っていた。
深い色合いの布地は、動くたびに静かに光を含み、装飾は控えめなのに、目を離せなくなるほど品がある。リリアーナ様だ。
視線が合った瞬間、彼女は小さく目を見開き、それから、ふっと表情を緩めた。
「まあ……」
驚きよりも、喜びに近い声。
リリアーナ様は、ゆっくりとこちらへ歩み寄り、
私の前で立ち止まった。
「ようこそ、素敵なお姫様」
そう言って、微笑む。
その言葉に、胸の奥が、きゅっと音を立てた。
お姫様。
そんな言葉で呼ばれたことなんて、ない。
視線が、自然と足元へ落ちる。
昨日とは違う、きちんとした洋服。
前よりも短く整えられた前髪。
視界が広くなったせいか、少しだけ、世界が明るく見えた。
「髪も、とてもよく似合っているわ」
リリアーナ様の声は、柔らかくて、あたたかい。
「その瞳……本当に、綺麗な空の色ね」
褒められていると分かっているのに、
どう返せばいいのか分からず、言葉に詰まる。
「……ありがとうございます」
ようやくそう答えると、
リリアーナ様は、満足そうに頷いた。
「さあ、どうぞ。アリアちゃん。
貴女とのお茶会楽しみにしていたの」
そう言って、椅子を勧められる。
テーブルに近づくほど、
甘い香りが、はっきりと鼻をくすぐった。
焼き菓子。
砂糖。
紅茶。
全部が、遠い世界のものみたいで、
同時に、胸の奥をじんとさせる。
恐る恐る椅子に腰を下ろすと、リリアーナ様は向かいに座り、穏やかに微笑んだ。その視線を感じながら、ゆっくりとすすめられた菓子を口に運ぶ。
「…おいしい」
優しい眼差しがゆっくりと向けられる。
――ここにいていいのだと、
そう言われている気がした。
昼下がりの庭園で、お茶会に並ぶ菓子はどれも甘くて、やわらかくて、優しい味がした。
「さあ、こちらも召し上がって」
そう言って、リリアーナ様が勧めてくれたのは、果物がたっぷりのったケーキだった。瑞々しい色合いで、見ているだけで甘い香りが伝わってくる。
舌に触れた瞬間、甘みが弾ける。
——甘い。
それも、ただ甘いだけじゃない。
果物の瑞々しさが、そのまま広がる。
思わず目を見開いてしまった。
「……おいしい、です」
声が、少しだけ震えた。
「でしょう?」
リリアーナ様は、どこか誇らしげに微笑む。
「これはヴァルシュタイン領の名産品なのよ」
ヴァルシュタイン。
その名前に、私は小さく首を傾げた。
どこかで、聞いたことがある。
貧困街でも噂になるような、
大きな貴族の名前だったはず。
——え?
胸の奥が、ざわりとゆれた。




