あたたかさに、慣れてはいけないと思った
誰かに、抱きしめられている。
強く締めつけられるわけではなく、
逃げられないほどの力もない。
けれど、背中に回された腕の重みと、身体に触れている部分から伝わる体温は、はっきりと感じられた。
あたたかい。
その温もりに包まれると、胸の奥に溜まっていた緊張が、少しずつほどけていく。
大丈夫だと、誰かが、すぐそばで囁いている気がした。
声の輪郭は曖昧で、顔も、姿も、思い出せない。
それなのに、その存在だけは、不思議なくらい確かだった。けれど、その温もりが、ほんのわずかでも遠ざかろうとした瞬間、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
離れないで。
その言葉は、声にならないまま
喉の奥に沈んだ。
次の瞬間、暗闇の向こうで、何かが軋む音がした。
扉が、閉まる音。
その気配に、身体が強張り、抱きしめていたはずの温もりが、すうっと遠のいていく。
——違う。これは、夢だ。
そう思ったところで、意識が、静かに浮かび上がった。カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込んでいる。一瞬、まだ誰かの腕の中にいるような錯覚が残り、私は反射的に、毛布を握りしめた。けれど、そこにあるのは、昨夜と同じ、柔らかな布だけだった。
ゆっくりと息を吐き、ようやく、夢だったのだと理解する。部屋は静かで、整えられたまま、何も変わっていない。
起き上がると、窓辺に置かれた鏡が目に入った。近づくのに、少しだけ、躊躇する。鏡の中には、痩せてはいるけれど、昨日よりも輪郭のはっきりした少女がいた。淡い桃色の髪が、朝の光を受けて、柔らかく色づいている。
こんな色だっただろうか。
見慣れないはずなのに、どこか、懐かしい。
——私、だった。
「失礼いたします。朝食をお持ちしました」
使用人の声にびくりと肩を震わす。
朝食なんて、予想もしていなかった。
朝食は、優しい香りを連れて部屋に運ばれてきた。
使用人たちがテキパキと、銀のトレーをテーブルへ並べていく。
「皆さま、朝はゆっくりですので、お部屋で各々召し上がられる方が多いのです。この家は、夜のほうが賑やかでございますから」
そう言って使用人たちは微笑んだ。
白い湯気が立つ飲み物と、柔らかいパン。果物の甘い香り。昨日は、食べることに必死で、味も温度も、ただ驚くだけだったのに――今朝は、少しだけ「食べる」という行為を落ち着いて受け止められている自分がいる。
それが、嬉しいようで、怖かった。
落ち着いてしまったら、次に何が起こるのかを考えてしまう。安全だと信じるには、まだ心が追いついていないのに、身体だけが先に慣れようとする。
口に含んだ温かい飲み物が、喉を通っていく。
その一瞬だけ、胸の奥がほどける。
けれど、次の瞬間には、いつもの癖が出ていた。
私は指先で、そっと胸元を探ってしまう。
そこにあるはずだったもの。不安が強くなると、無意識に確かめてしまうもの。分かっているのに、確認してしまう。そのたびに、胸の奥に小さな穴が開くような感覚が残る。
私は息を吐き、わざと視線を逸らした。
今は、朝食を食べなければいけない。ここで粗相をしたくない。そう思って、パンをちぎって口に運ぶ。
時間をかけながら並べられた朝食を食べ終えると、使用人が静かに皿を下げた。
その動きはいつも丁寧で、こちらを急かさない。けれど同時に、あまりにも滞りがないから、逆に「ここではこれが当たり前なのだ」と思い知らされる。
「……身支度をお手伝いしてもよろしいでしょうか」
使用人がそう尋ねたとき、私は一瞬、身構えた。
でもその声は昨日と同じく穏やかで、拒まれたことのない人の言い方だった。
「はい……」
答えながら、私はふと鏡のほうを見た。
光の中で見た自分の顔が、まだ頭に残っている。淡い桃色の髪と、少しだけ珍しいこの瞳。自分のものなのに、どこか現実味がなかった。
鏡の前に立つと、髪が肩よりもずっと下まで伸びているのが分かった。
貧困街では、髪を整える余裕などない。伸びた前髪は目にかかり、視界を邪魔していても、切る道具も時間もなかった。
私は指で前髪をつまみ、そっと引っ張ってみる。
毛先が絡まり、指に引っかかる。少し痛い。
——こんなの、どうしたらいいんだろう。
自分でも気づかないうちに、眉間に力が入っていたらしい。
「……髪を、整えましょうか」
背後から、使用人が提案した。
「よろしければ、少し前髪を短くいたします。お顔立ちが、もっと見えますから」
その言い方が、妙に自然で、私は返事に迷った。
貧困街では、髪を切るのは危険と隣り合わせだった。刃物が出れば、何が起きるか分からない。自分の身を守るために、髪はなるべく触られないようにしていた。
でも、ここでは違う、と頭のどこかが言う。
昨日の夜から、何度も自分に言い聞かせている言葉だ。
「……お願いします」
小さく答えると、使用人はそれ以上何も言わず、必要な道具を用意した。
鋏が光った瞬間、心臓が一度だけ跳ねたけれど、手は震えなかった。昨日の温かさが、まだ身体のどこかに残っているからかもしれない。
髪が指で梳かされる。
絡まりがほどけるたび、頭皮が少し引っ張られる感覚があるのに、不思議と痛みは少なかった。丁寧に、少しずつ。急がずに。
前髪が、少しずつ短くなっていく。
落ちた髪が、膝の上にふわりと積もる。
——切られている。
それだけのことなのに、胸が苦しくなる。
失うことに慣れているはずなのに、ここで切られる髪は、なぜか「奪われる」ではなく「整えられる」に近い感覚だった。
最後に、鏡を向けられる。
前髪の隙間から覗いていた視界が、急に明るくなった。自分の目が、はっきりと映る。
空色の瞳。
……こんなに、澄んでいたのだろうか。
自分で自分を見つめるのは、落ち着かない。
けれど、目を逸らすこともできなかった。
「よくお似合いです、アリア様」
使用人が、そう言った。
名前を呼ばれる。
敬称がつく。
それだけで、胸の奥が小さく揺れる。
私は、思わず唇を噛んだ。泣きそうになるのを、必死でこらえる癖が、まだ抜けない。
「本日は……奥様が、お茶会にお呼びです」
その言葉に、背筋が伸びた。
奥様。
リリアーナ様。
昨日、名前を「素敵」と言ってくれた人。
でも、その優しさが本物だと確信できるほど、私はまだ強くない。
怖い。
けれど、逃げたくない。
そんな矛盾が胸の中にある。




